わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

お願い・質問について

●お願い:読者の皆様へお願いがあります。読んだ後、コメント欄へ感想を残していたただけないでしょうか。皆様のコメントは、後で読まれる方々にとって非常に有益です。

●質問について:ブログ管理人への質問は、この記事のコメント欄にお書きください。

 

 ブログ管理人より

感謝とお知らせ

2019-06-03記

●今回の大量掲載によって、花岡さんのブログ「真我が目覚める時」のすべての記事を収録することができました。今まで記事を送ってくださった多くの方々、また、貴重な情報を提供してくださった方々に深く感謝申し上げます。

本ブログ「わたしの終わり」は、2015年10月19日に開始されました。それからおよそ3年半の時を経て、奇跡的にそのミッションを完遂することができたのは、ひとえに「みこころ」の故でしょう。花岡さんがブログを閉鎖されたのも「みこころ」。今こうして異なる形で復活したのも「みこころ」。そこには、わたしたち個々人の意思を超えた神の意思が働いているように感じられてなりません。

●読者の皆様へ:今後は、「花岡修平図書館」=カテゴリー「花岡修平」としてご利用ください。

 

 ブログ管理人より

それ、純粋に観ること、一瞥体験

いつも「それ」に見られている感覚

幼児の頃から、「それ」を知っていた。

不思議な存在。不思議な感覚。

 

夜、寝付くまで天井を眺めていた。

木目模様の天井。

その隅々に「それ」がいた。

「それ」に見られているあの感覚。

 

透明な空気のように「それ」が息づいていた。

目がないのにじっと私を見ている。

いつまでもいつまでも無言で私を見ている。

 

小学校のだれもいない体育館。

ガランとしたあの大きな空間。

そこにも「それ」はいた。

いつも無言でただジッと私を見ていた。


「それ」は次第に私に近づき、左の肩の上から、

いつも私を覗いているようになった。

 

そして、やがて背中全体を包み込み、

全方位から私を見るようになった。

 

「純粋に観る」体験

それは、過去何度か「祝福」のようにやってきた。


最初の体験は11歳の時。

川辺に人に見捨てられたようなスポットがあり、

雑草と木々が原始林のように生い茂っていた。

 

ある日の午後、下校の途中、なぜか、その場所へと惹きつけられ、

なにも考えずに木々を見つめ、見渡していた。

 

なんの思考も湧かない。

 

ひたすら観る。

 

15分もそうしていたろうか。なにかがおかしい。

ありきたりの日常の風景が「変なもの」に変わり始めたのだ。

 

木々が、私になにか話しかけているように感じる。

言葉は聞こえない。でも、確かに「話している」。

 

ある「沈黙の声」で純粋なメッセージを伝えようとしている。

そう感じ、しばらくの間、私は動くことができなかった。

「秘密のゾーン」に入ってしまったようだった。


家に帰らなくっちゃ。

そう思い、この「純粋に観る」モードをオフにし、あたりを見渡した。

同じ風景が突然、あの「ありきたりの日常の風景」に戻ってしまい、

どうにもやりきれなかった。

 

なんと味気ない世界だろう。

あの「すべての存在が生きている世界」から戻ったばかりの私の落胆は、ひどいものだった。

 

ああ、こんなつまらない世界で生きていかねばならないのか。

こんな世界で生き続け、大人になり、それがず~っと続くのか。

この体験を話したところで、誰も理解してくれないだろうな。。。

そんなことを考えながら家路についた。



10年後、大学生になり、「風土記」を初めて読んだ。

この古代の文書が常に「草木言問いしとき」=「草や木が言葉を発していた時」という表現で始まることに驚いた。

この表現は、「昔むかし」と等価で、「ず~っと前」のことを語る場合の枕詞として使用されているが、古代の日本人は、みな、「あのゾーン体験」を知っていたのだと思った。



その後、何度か同じような体験がやってきた。

 

14歳の秋の夕暮れ時、ものすごい夕焼けを目撃した。

空全体が燃えているようだった。

 

  美しかった。

 私はそれに溶けいってしまいたかった。

 

 しかし、できなかった。

 

なにか薄皮のようなもの、一枚の膜のようなものが、

夕焼けと私を隔てていたのだ。

 それが切なくて切なくて、泣いてしまった。

 

 その膜のようなものが「わたし」それ自身であったと理解できたのは、ずっと後になってからのことだ。

(数年前、ルパート・スパイラのサットサンの動画を見ていたら、参加者のある女性が私と全く同じ体験を話していて驚いた。スパイラのその体験に対するコメントはいかにも彼らしいクリスタル・クリアなものだった。)

 

 

 それから20年後の夏。

公園に植えられた大きな樹木を見上げ、

日に透かされて薄緑に輝く葉々に見とれていた。

すると突然、あたり全体が神に祝福されてでもいるかのように輝き始めた。

すべての木々が輝き「生きていた」。

私はその後しばらくの間、植物観察に熱中した。

 


その2年後。

ヘーゲル精神現象学を友人と二人で読む会を始めた。

別の友人が東伊豆に持っていた別荘を使わせてもらい、

集中的ディスカッションを行った。

終いには、頭の中がカラッポになってしまい、

なんの思考もイメージも湧かなくなってしまった。

その状態はまる一日続いた。

 

翌朝、外に出てあたりを散歩したら、風景が変わってしまっていた。

すべてが輝いていた。

そして、すべてが「近く」感じられた。

遠近の「遠」という感覚がなかった。

遠くにあるはずものも「すぐそこ」に感じられた。

 

「光の流れ」が、ゆっくりとあたり一面を満たしていた。

まるで、仏画によく描かれている「光の帯」のようだった。

 

小川の岸に植わっている木々からも光が流れてきていた。

それを口で吸いこんでみた。

かすかに甘く、私の体全体を深い充足感で満たした。

「アムリタ(甘露)」という言葉が思い浮かんだ。

 

 

 「わたし」の外へ出た深夜の10分間【一瞥体験】

3年ほど前、深夜の3時ころ、私は自室で椅子に座って瞑想していた。

ただ静かにして、目を開けたままだった。

 

私の「内」と「外」の区別はないということは、知識では知っていたが、

感覚的にはある。

 

 そこで、あの「外」と感覚される空間に向かって心の中で言った。

 「あれ」が本当のわたしだ。

この「内」と感覚される「わたし」は本当のわたしではない。

「これ」は、わたしではない。「あれ」がわたしだ。

 自分に言い聞かせるように、何回か繰り返し言った。

 

すると、不思議なことが起こった。

 

目の前に黒い穴が開き始めた。

直径10センチくらい。それが大きくなり、30センチくらいになった。

とくに驚きもせず、じっと見つめた。

すると、その穴からスルっと「外」へ出た。

 

「わたし」の外へ出たことが、直感的にわかった。

外から見る「わたし」は、裸電球のようなオレンジ色で直径40~50センチくらいの球だった。

それから強力な磁力のような力が出ていて、外に出たわたしをその球の中に連れ戻そうとしているのが感じられた。

 

この体験は長く続かない。そう直感した。

 

部屋の中を歩き回った。

全空間が、わたしだった。内と外の区別がない。

まるで大きなガラスの水槽の中にいるような感覚。

 

とても静かだ。

 

透明で見慣れぬ液体のようなものが全空間を占めている。

「空」ではなく、「充満(プロレマ)」。

 

とても「立体的」に感じる。

これにくらべると、日常を生きている「わたし」の空間はひらべったく、まるで2次元のようだ。そして、ちょっとオレンジがかっていて、埃っぽい。

この水のような「それ」は、真に無色透明だ。

 

常世界のあの慣れ親しんだ親密な感覚がまったくない。

「見知らぬなにものか」。the unknown。

 

その時、直感的にわかった。

「これ」が、「真のわたし」であり、あの日常世界の「わたし」は、仮面のようなものにすぎないと。

そして、「これ」が、すべての人々の「真のわたし」であることも「わかった」。

 

眠い。

 

しかし、その眠気は、あのオレンジ色の球体の中にあり、

その外にいるわたしは、眠くない。

透き通るような覚醒感と強烈な眠気が分離し、かつ、併存していて、

どちらも感じているという不思議な状態。

 

「眠るべきだ。からだによくない。」

 

そう思った瞬間、わたしは、あのオレンジ色の球体の中に戻っていた。

時計を見たら、10分経っていただけだった。

 

強烈に眠い。まだ、あの「外」の感覚の余韻が残っている。

 

すぐに布団の中にもぐりこんだ。

目が覚めたら、もとの状態に完全に戻っているだろうと考えながら。

花岡さんの記事を読むことの難しさ:「明け渡し」について(2)

最近、私のパソコンの古いファイルを調べていたら、花岡さんの記事が2つ出てきました。それを見て驚いたのは、コメント欄ごとコピペしたものだったことです。今までまったく気づきませんでした。Hさんからいただいた記事にもこのコメント欄はありませんでした。

その中の一つ、記事「学び知るために体験は現れる」

shikoutoshi.hatenablog.jp

のコメント欄での読者との問答で、花岡さんは、「明け渡し」について語っています。しかし、この内容は、花岡さん自身の体験に基づいた「宣言方式」で読者に「明け渡し」を薦める他の記事とは、かなり違うのです。

他の記事の基本的トーンは、「みんなできる!やってみてください!でも、マインドのトラップに気を付けてね。期待とか持ち込まないでね。そうすりゃ、みんなできるよ。」というものだったのですが、このコメント欄の問答で言っていることは、そうじゃないのです。

花岡さんの記事を大量に読み、ある事柄について複数の記事でどういっているか比較調査してみると、花岡さんは、非常に矛盾したことを言っている場合がとても多いことに気づきます。半分ずれるくらいならまだしも、時には真逆のことを言っているケースもあります。読者は、この点に注意すべきでしょう。

つまり、一つの記事で花岡さんが、ある事柄について自分の見解を示していても(しかも、『~なのです。』といういつもの断定口調で)、それを、花岡さんの首尾一貫した見解だと受け取ってはいけないということです。他の記事では、別様に述べている可能性があります。

読者は、(花岡さん自身が、『私の言うことを信じてはいけません。』と言っているように)自分の健全な「批判的知性」を用いて「花岡修平」を読むべきでしょう。

 

 以下に、その記事「学び知るために体験は現れる」のコメント欄の問答を示し、私の批判的コメントをつけ加えてみます。

 

問答は2つあります。最初のものは、「明け渡し」に関するものではありませんが、興味深く、また、批判的検討のいい材料になるので、載せてみました。

 

 【読者N】花岡様 

いつも質問に答えていただきありがとうございます。 

花岡さんは学びということを強調されます。 
苦悩を経ても学ぶ必要があると。 

私はここで疑問に思います。 
そもそも「何を」学ぶ必要があるのか? 
「なぜ」苦悩を強制されてまで学ばなければいけないのか? 
そもそも「学ぶ」とはどういうことか? 
教えていただけますか? 

 

この質問に対して、花岡さんは次のように応えます。

 

【花岡】

学ぶというのは知るという事です。 
学ぶから知る事ができるのです。 
そもそも何を学ぶ必要があるのか?のその、何を?も必要があるのか?も疑問な訳です。 
どんな事でも、知りたいという欲求が人にはあるから疑問が湧いて来ます。 

「なぜ」、その理由と意味を知って行く、それが人生であって、誰であろうがそのような指向性を持っています。 
知る事で人は、完成されていき、恐れや苦悩を手放す事ができるのです。 

もちろん学びたくなければ学ばなくてもいいのです。 
苦悩を抱えながら、その理由も意味も知る事も無く、最後まで苦悩し続ける事もできるかも知れません。 
そのように、知りたくないという望みを持つ事も出来て、それはそのように与えられます。 

苦悩を強制した何かが有る訳では無く、望んだから現れた、と言っても、思考しているのはエゴでしかないので、「そんなものは知らない」と言うでしょう。 
エゴの中に閉じこもっている事が「知らない」状況を保持していて、それから解放された真実の自分を知らないから、なぜ学ぶ必要があるのか?苦悩など強制されたくないと言いたくなる訳です。 

知らなければ進歩は無く、恒久にそのままではないでしょうか。 

苦悩を強制した者がいるとしたら、それは何者でしょうか。 
強制している者などどこにもいません。 

わたしはここで言い直します。 
あなたが苦悩を望んだから与えられるというのは、苦悩でもなんでもない起こり来る事を、苦悩として意味づけるその価値観があり、起こり来る事を苦悩と位置付けるように望んでいるという事です。 

苦悩でもなんでもなかったのだと知る事が、学ぶという事です。 

そうでなかったら、どのようにして苦悩の終焉が訪れるでしょうか。 

自分が望んだのではない、誰かが強制してるのだと言う事が、どういう事を言っているのかを、言っているその人が知らなければ、いつまでも実体の無い誰かのせいにし続けてしまい、終わることの無い苦悩を味わい続ける事になります。 

それだから知る必要があり、その学びは人生そのものの中に潜在されていると言う事です。 

あなたが苦悩でもなんでも無かったのだと気づく事を拒否して、苦悩であると意味づけ続けるなら、その望みも与えられます。 

 

 

この回答、「わかった」でしょうか?

花岡さん特有の、花岡節とでもいいたくなる語り口で、読む者にとっては、非常に理解しがたい文章になっています。

 

苦悩を強制した何かが有る訳では無く、望んだから現れた、と言っても、思考しているのはエゴでしかないので、「そんなものは知らない」と言うでしょう。 
エゴの中に閉じこもっている事が「知らない」状況を保持していて、それから解放された真実の自分を知らないから、なぜ学ぶ必要があるのか?苦悩など強制されたくないと言いたくなる訳です。 

 

この部分は、要するに「悟らなければ、わからない。」と言ってるわけです。いわば「結果論」です。自我からの解放=悟り。そうなって初めて、自我がしていたことが見えてくるわけですね。ということは、「学び知るために体験が現れる」ことも、悟る前は、本当の意味では「わからない」ことになります。

 

わたしはここで言い直します。 
あなたが苦悩を望んだから与えられるというのは、苦悩でもなんでもない起こり来る事を、苦悩として意味づけるその価値観があり、起こり来る事を苦悩と位置付けるように望んでいるという事です。 

苦悩でもなんでもなかったのだと知る事が、学ぶという事です。 

そうでなかったら、どのようにして苦悩の終焉が訪れるでしょうか。 

自分が望んだのではない、誰かが強制してるのだと言う事が、どういう事を言っているのかを、言っているその人が知らなければ、いつまでも実体の無い誰かのせいにし続けてしまい、終わることの無い苦悩を味わい続ける事になります。 

それだから知る必要があり、その学びは人生そのものの中に潜在されていると言う事です。 

あなたが苦悩でもなんでも無かったのだと気づく事を拒否して、苦悩であると意味づけ続けるなら、その望みも与えられます。

 

この部分は、「悟った人が見た『自我世界の光景』」です。悟る前には、見えない「光景」です。

しかし、花岡さんの表現にはおかしな点があると私は思います。「苦悩でもなんでも無かったのだと気づく事を拒否して」という表現、ちょっとおかしい。気づくことを「拒否」なんかしていません。気づけないだけです。

「苦悩であると意味づけ続けるなら、その望みも与えられます。」この部分も、おかしい。苦悩であると意図的に意味づけているわけではなく、そうなってしまうのです。つまり、非常に強い習慣的傾向に巻き込まれているのです。これは「望み」などではなく、強い固着です。なぜ、「自我が望んでいる」などという表現をするのか、私には理解できません。

 

 

次の読者の質問です。問題の「明け渡し」についての花岡さんの見解がある問答です。

 

 

 【読者J】

花岡さん、はじめまして。 
どうか教えて下さい。 

私はいかなる宗教にも属しておりませんし、一般でいうところの宗教というものの教えに関しても詳しい知識は持っていません。 

でも、自分が神からいただいたと思っている自由意志も自我も何もかも主なる神の手に委ねてしまうことが出来れば、どんなに良いかと思っています。 

しかし、頭ではわかっているつもりでも、いざやろうと思うとわからない点があるのです。 
例えば、「全てを主なる神に全託します。主よ、どうか私をあなたの御意志どおりにお使い下さい。」と神に祈ったとします。 

そして、今、解決しなければならない問題をいくつか抱えている場合、やはり今までどおり、問題解決のために最善と思う事を精一杯やっていけばよいのですか? 
私は諸問題と向き合っているうちに、どうしてもこの世界に巻き込まれてしまいます。見る者の立場でい続ける事もまだ未熟な私には無理なようです。 
しかし、ただただ全てを受け入れ、最善と思うことをやっていけば良いのでしょうか? 
それとも、全てを神に任せたのだから、私は何もしないで問題もほおっておけば良いのだと考えるべきなのでしょうか? 

あと、もう一つ教えて下さい。 
「本当の自分が誰なのか?」。本当の自分をチラリとでも、ほんの一瞬でも垣間見る事が出来て、自分は身体ではない、心ではない、ましてや自我でもない、と、わかったあとでなければ、神への全託は難しいでしょうか? 

すみません。私の質問がちょっと曖昧で、お聞きしたい事がわかりづらい文章かもしれませんが、花岡さんのご意見をお聞き出来れば本当に嬉しく思います。 
どうぞよろしくお願いします。

 

  これに対して、花岡さんは次のように答えます。

 

【花岡】

自分を明け渡して神に全託するというのは、何もバイアスがない場合難しい事です。 
そのために人は苦悩を味わうシステムが出来ているのだと思うのです。 

生半可ではない、極限の苦悩を味わい続けるとき、誰でも「もうどうでもいい、なるようになれ、後は神様の好きなようにお任せしよう」みたいなホールドアップ状態になると思うのです。 
そこで苦悩と戦う事を放棄するなら、心底神に差出し、神の為すまま受け入れようと言う完全委託が為されるのではないかと思うのです。 

苦悩と戦う事を放棄しないのは、極限の苦悩を味わっているのではないと言う事ではないかと思うのです。 
それだから自我は諦めないのだと思うのです。 

諦めず苦の要因と、苦そのものとも戦い続けるから、苦悩は消滅せず、現れ来るのでしょう。 

しかし苦と位置付けているそれら問題は、自分の都合によって自分が意味づけている場合が多いのではないでしょうか。 
世間の一般式に当てはまる苦悩を言っているのではありません。 
あなた自身についての苦悩を言っているのです。 
あなたが導かれるためには、あなたの問題を解決するだけで事足ります。 
決して世間では、周囲では、知り合いは、と言う自分以外の苦悩の事ではなく、あなたにとっての苦悩について言っているのです。 

では、苦悩を誘発剤として自我を差出し神に全託する以外無いのかと言えば、そうではなく、自己、あるいは自己以外を深く洞察し、見える世界、現れ来る現象、それらが真実実在であるかどうかを見抜く事によって真実の唯一実体を知る事も出来るのです。 

しかし、その手法は難易度が高く、日常に浸りきっている我々には敷居が高すぎるのです。 
そうであっても、そのほうが自分に向いているという人も居るのです。 

どちらにしても、「さあて、やるか・・・」みたいに、やろうとしてやるというのは、そこに対象への執着が在る訳です。 
執着は常に気付きに専心する事を妨げます。 
そしてまた、その執着が苦の要因でもあるのです。 

いずれにしても、神のみこころ、導きに頼らなければ、自分の明け渡しすら思うとおりになりません。 
それはまた、神は必ずそのように導いてくださるのだ、と言う事でもあります。 

人は誰でも、やろうと思ったらすぐ出来るかと言えば、そんなことは無いのです。 
そのチャンスは、やがて巡って来るのだと思うのです。 
人生の順番を飛び越えて、そこには行けないのだと思うのです。 

さてそこで2番目の質問です。 
神を悟るから明け渡せるというのではありません。 
明け渡すから、神を悟れるのです。 

そして、1番目の質問です。 
問題解決のために、それを問題視しているのは何であるかを見極めてから、為せる事を無理の無いように為すのがいいのではないでしょうか。 
つまり、 
それは事実問題なのでしょうか。 
自分の都合が意味づけているのではないのでしょうか。 
事実問題なのであれば、為せる事を為せばいい。 
それは戦いであってはなりません。 
最善を尽くすというのは、頑張ると言う事ですか? 
落ち着いて、エゴが頑張らせているのか(自己保身とか)、それとも自分の奥底の気持ちなのか、見極めてから為せる事を為すのがいいと思うのです。 

 

 さて、「わかった」でしょうか?

最大の問題点は:

 

どちらにしても、「さあて、やるか・・・」みたいに、やろうとしてやるというのは、そこに対象への執着が在る訳です。 
執着は常に気付きに専心する事を妨げます。 
そしてまた、その執着が苦の要因でもあるのです。 

いずれにしても、神のみこころ、導きに頼らなければ、自分の明け渡しすら思うとおりになりません。 
それはまた、神は必ずそのように導いてくださるのだ、と言う事でもあります。 

人は誰でも、やろうと思ったらすぐ出来るかと言えば、そんなことは無いのです。 
そのチャンスは、やがて巡って来るのだと思うのです。 
人生の順番を飛び越えて、そこには行けないのだと思うのです。

 

 という部分。

結局、自分で「明け渡し」しようと思って、試みても無理。「みこころ」が導く「その時」が来なければできないよ。そう言っている訳です。

。。。。では、なぜ、花岡さんは他の記事で「明け渡し」を積極的に読者に薦めたのでしょうか?

たとえば、「あなたへのメッセージ」では、次のように言っています。

shikoutoshi.hatenablog.jp

わたしは、同じ事を、何度も言い続けています。
耳を傾けてください。

自我も、マインドも、一切の期待も手放し、あなたの源泉に明け渡してください。
それはあなたを裏切りません。
けっして突き放したりはしません。

ただ、期待も一緒に明け渡してください。
全て、その御心に任せ、与えられるものだけを頂いてください。

そうするなら、この大きな愛と共に、全てが与えられるでしょう。
そして次第に、智慧による理解が起こっていくでしょう。
そうなってしまうんです。

そうなってしまいましたっていう報告を、待っています。

なにも要らない!
なにも惜しくない!

静かな所で、そう宣言するのです。

そう宣言して、どこにもそのカケラを残していない事を確認してください。

ラクルが起こります。

 

。。。。何なんでしょう、この「矛盾」は?

我々は、どちらの見解を信用したらいいんでしょうか?

 

 

現時点での私の個人的見解は、次のようなものになります。

●花岡さん自身の経験に基づいた「明け渡し」のやり方を、いくら読者に薦めても、それは出来ない。

花岡さん自身が言っているように、悟った人の真似をしてもだめで、各人には、各人固有の人生の歩み中でもたらされる方法というものがある。

それは、その人用にカスタマイズされたもので、他の人が真似しても効果は薄い。

●苦悩の極限で、全てを手放すことによって生じる事態は、まさに花岡さんがコメント欄で言っているように、「みこころ」が主導するもので、自我がやろうと思ってもできるものではない。自我を手放すことは、自我にはできない。

●前記事で述べた「自己観察方式」は、時間はかかるが、より普遍性が高い。なぜならば、期待など自我の欲するすべてが観察され=見抜かれ、自動的に力を失い、消滅していくからだ。

真我への明け渡しは、決断によってではなく、徐々に生じる「抵抗の消滅」によって自動的になされる。決定的瞬間の訪れは、「みこころ」次第だが、それまでに自我は、昼間の月のように薄くなっている。

●現実の個々人のケースでは、様々な要因がミックスされた形でそれは起こる。たとえば、自己観察と神への憧れ、そして極度の苦悩の中でのすべての手放しの混合。

 

ブログ管理人より

birdie さんへの返信:「明け渡し」について

記事「感謝とお知らせ」に、birdie さんという方から次のようなコメントをいただきました。

 birdie

今わたしは、かつての花岡さんと同じような状況にあります。でも、明け渡す、ということがどうしても実感としてつかめません。だから、いつまでたっても苦しみの中にあります。
誰か、助けてください・・・。

 このコメントを読んで、私は長いこと考え込んでしまいました。そして、返信を書き始めたのですが、あまりに長くなり、コメント欄のスペースに収まりません。そこで、記事という形で返信することにしました。

 

birdie さんへ

birdie さん、私もあなたの同類です。苦しみ、お察しいたします。とてもよくわかります。

私もかつて花岡さんの記事を読み、「明け渡し」をしようと何度も試みたことがあります。でも、上手くいきませんでした。 いくら、「神よ、あなたにすべてを委ねます。みこころのままに私をお運びください。」と宣言しようが、文言を変えて、えい!やあ!と一気に自我を捨て去った気になっても、何も変わらないんです。

で、花岡さんの「明け渡し」について書いてあるいくつかの記事を読み直してみました。 たとえば、記事「あなたへのメッセージ」では、次のように言っています:

 みなさん。 いい加減、このマインドの罠に気づいてください。 喜びも、愛も、命も、いりません!って宣言しないと受け取れません。 宣言して、真実そうなるのでなければ、与えられないのです。 これは完全に神からの恩寵です。 完全に明け渡せた事による、神からのご褒美なんです。 この実感が、そう知らせてくれます。 自分がこの愛の故に喜び泣くとき、神もいっしょに喜び泣いているのを、ほんとうにほんとうに感じるのです。 まったく神と自分は同一であって離れた存在ではない事を知らされるのです。 そうであるなら、裏切ってはいけません。 完全に神を信頼しきって、何も期待する事無く、愛も喜びも命も期待する事無く、全てを明け渡すのです。 明け渡した後でも、そのように裏切る事なく日常を生きるのです。 あなたが手放したくないもの、そんなチッポケなものよりも、この広大無辺な全てと同一化するほうがいいに決まっているじゃないですか。 なぜ、そのような幻を掴んでいるのでしょうか? 苦という毒を吐きだす幻を、いつまで握っているのですか? 神を信頼して、裏切らず、明け渡すだけで、苦悩から解放されるのですから、そうしたほうがいいに決まっています。 我々は、この同じ愛を共有するのです。 それが、神の分け御霊(わけみたま)である我々の喜ばしい姿なのです。 そうすれば、どこにでも、だれにでも、あらゆるものに神を見出せます。 その度に、このハートに喜びが溢れてきます。 どのような罪さえ救われて、どのような事さえ許してしまえます。 全て在るものは、神の臨在である事を知るのです。 それ以外に存在する物など無い事を、このように、こんなにも実感できるのです。 わたしは、同じ事を、何度も言い続けています。 耳を傾けてください。 自我も、マインドも、一切の期待も手放し、あなたの源泉に明け渡してください。 それはあなたを裏切りません。 けっして突き放したりはしません。 ただ、期待も一緒に明け渡してください。 全て、その御心に任せ、与えられるものだけを頂いてください。 そうするなら、この大きな愛と共に、全てが与えられるでしょう。 そして次第に、智慧による理解が起こっていくでしょう。 そうなってしまうんです。 そうなってしまいましたっていう報告を、待っています。 なにも要らない! なにも惜しくない! 静かな所で、そう宣言するのです。 そう宣言して、どこにもそのカケラを残していない事を確認してください。 ミラクルが起こります。

 。。。これ、ちょっとおかしくないですか? 期待も明け渡せ、つまり、手放せ、と言ってるわけですが、最後に、「ミラクルが起こります。」と言ってしまっています。してはいけない期待を再び花岡さん自身が持ち込んでしまっている。。。。

それから、 「なにも要らない!なにも惜しくない!静かな所で、そう宣言するのです。そう宣言して、どこにもそのカケラを残していない事を確認してください。」 と言ったって、その確認は困難です。

また、記事「結局最後は明け渡しです」では、次のように言っています:

 わたしはこの「明け渡し」という事すら知らないでいました。 知らないでいたのに、究極の苦悩、究極の困窮によって、自分の一切を諦め、後の一切を源泉が運んで行くそれに、ただ任せようと思いました。 それ以外に打つ手がもう無かったのです。 そう思った以上、何が起ころうが文句を言わず、起こる事、起こって行く事を全て受け入れようと思いました。 この自分に関わる一切と、自分以外の存在の一切を現している大いなる根本存在が在るのだという立場にあったから、それが出来たのです。 それは逃げる事ではなく、諦めて為すがままに受け入れるという、開き直り向き合う立場に立ったから出来たのです。

 。。。。源泉=神があるという立場を確立してない人はどうしたらいいんでしょうか?花岡さんは、25歳の時に、突然、「神はある!」という啓示を受けたそうです。そして、それは信じる事とは違うと言っていますが、ほとんどの人はそんな啓示を受けていないわけです。

また、記事「あの日の夜」では:

人生最大の困窮に陥り。 数日後の夜、わたしは打ちひしがれ、ふらふらと庭に出てたたずみ、深く深く内側の奥底を覗いていました。 万策尽きたわたしは、「もう捨ててしまおう。何とかしようという思いを離れ、そのように流している何かがあるのなら、流れに任せよう」 そのように思い、諦める事を選択したのです。 あたりは真っ暗で、静まり返り、夜とわたしだけがそこにありました。 その時、周囲の雰囲気に異変を感じました。 周りの波動が明らかに変わり、そして背後から近づく幾つかの存在を感じたのです。

。。。「そのように思い、諦める事を選択したのです。」とだけ述べていて、あまり参考になりません。

 

正直に告白しますが、「私の場合」、花岡さん自身が行った明け渡しの記述や、花岡さんが、明け渡しはこうやるんだ!と言っている記事は、有効ではありませんでした。上に引用した記事で言っていることは、みんな試しました。でも、何も変わりませんでした。苦しみも変わらず、状況も変わらずです。(もちろん、有効だった方々も多くいらっしゃると思いますが、私の場合です。)

そこで、私は、花岡さんが体験したような明け渡し、ハートのオープニング、援助者の出現といった奇跡への期待、これらすべてを諦めたのです。

「花岡さんのような明け渡しは、俺にはできない。覚醒も起こらない。奇跡的な状況の好転も無理だ。神もいてもいなくてもいい。否定も肯定もしない。ただ、全てを手放そう。花岡さんの言ったこともすべて手放そう。」 そう思い定め、大きくため息をつきました。その後、しばらく、頭がカラッポになり、ボーッとしていました。

で、ふと思ったのです。 「待てよ。このままでいいんじゃないか?このカラッポ頭の状態でいいんじゃないか?これが、このまま続けばいいだけのことじゃないか?今、なんの感情もないぞ。苦しみもないぞ。恐怖もないぞ。」

これは、ちょっとした発見でした。

そのカラッポでニュートラルな状態で、自分の部屋を見まわし、また、自分の生活状況をイメージの中で見まわしてみました。

すると、不思議なことに、「今、自分は変わることなく存在している。生活状況もそのまま変わらずある。しかし、以前よりもっとクリアに見える。恐怖感が抜け落ちている。」ことに気づいたのです。

来るべきものは、論理的にやってきます。支払いです。払うお金がありません。するとどうなるか?論理的結果がやってきます。それが、恐怖感なしに見えてきました。 恐怖や苦悩によってゆがめられると、このプロセスは速められたり、拡大されたりしますが、そのままの速度とサイズで見えてきたのです。

心が静まり、思考が湧いてきません。 じ~っとその静寂に聴き入っていると、時間の流れる感覚が変わってきました。遅くなってきています。 外に出て、自転車で周囲を走ってみました。

何か変なのです。 隙間=ギャップのようなものが感覚できるのです。 道路、人、家、車がいつも通り存在し、 いつも通り動いているのですが、 (うまく言葉で表現できませんが) それらは、「詰まって」いなくて、隙間がたくさん見えるのです。(意味不明だと思いますが) 自由に動ける感覚、あれらの隙間の彼方に見える可能性の感覚。

その感覚と一緒に自宅にもどり、もう一度部屋全体を見まわし、生活状況も見まわしてみました。

財布を開けて中身を見ます。

3,000円ありました。

全財産です。

。。。。。。

あのカラッポでニュートラルな状態+遅くなった時間の流れ+物事の間にある隙間が見える状態。 それで、しげしげと、この3,000円を見つめました。

「ああ、客観的に3,000円あるな。」 そう思いました。

それから、ある考えが浮かんできました。

「物事は、勝手にその論理で動いている。俺が止まっていても、物事は勝手に動く。俺は、あの隙間に入って待っていればいい。あそこは安全だ。」(意味不明ですね。)

「恐怖を持っていても、持っていなくても状況に変わりはない。なぜなら、それは客観的なもので、それ自身の論理で動くからだ。そうであるならば、恐怖を持っていない方が得だ。」(合理的ですね。)

「ただ、この状態にいて、すべてをじっと観ていればいい。時の流れは遅くなっている。だから、俺は人より速く動ける。『ここ』にいる俺には、誰も触ることができない。俺は安全だ。」(そんなに意味不明じゃないですね。)

「何をどうすればいいかは、この状態でじっと観ていれば、わかるようになっていると感じる。アイデアは、やってくる。行動のタイミングは、身体の衝動が教えてくれる。」(直感です。)

以上の状態と考えをもって、「隙間」に入り、身をかわしながら、ゆっくりと生活の危機をくぐり抜けていきました。(まあ、今も楽な生活じゃないですが。)

私が神の働きを実際に感じたのは、やってくるアイデアと、絶妙な行動のタイミングをもたらす身体の衝動、そして、小さな出来事のあり得ないほど霊妙な織り合わせによって、私が欲したことが実現されたときです。 花岡さんのように、全てを明け渡して諦めたら、神が動いて必要なもの=援助者が与えられたという形ではありません。神は、私を行動へと突き動かし、出来事の織物によって、私が必要とするものを与えてくださるのです。

私は花岡さんが言うような「明け渡し」は、できませんでした。しかし、それを手放すことによって、私用にカスタマイズされた「みこころ」の働き方を知ることが出来たのです。

 

。。。と、まあ、このように述べると花岡さんの言う「明け渡し」は、実際あまり有効ではないと思われるかもしれませんが、他の記事で、私のケースに近いと思われる「あるやり方」について、花岡さんは書いてるんですね。最近、気づきました。(笑)

最初の方で引用した花岡さんのいくつかの記事の「明け渡し」の方法は、花岡さん自身の体験に基づいた方式で、「宣言方式」とでも呼べるやり方でしたが、もう一つのやり方は、「観察者への移動方式」とでも呼べるやり方で、 記事「なんと!読者の方が目覚めはじめました」で述べられています。

その記事は、読者Tさんの変容を紹介する記事ですが、次のように述べられています:

 Tさんから、「恐れを手放すにはどうしたらいいか?」という質問を頂いたいのは、3月28日の事です。 それから、僅か2か月も経たないうちに、これほどの変容が、Tさんに起こりました。 自分を自我という囲いから連れ出し、自我を、思考を、離れた所から観察する。 その時、観察する自分は自我とは全く別の内側に座を置いていることになります。 その静寂に、自分を置くなら、思考のノイズも、うるさいマインドも、まるで他人事のように客観的に見ることができるのです。 ひと度その安らぎの静寂なる場所を得て、そこに留まるなら、つまり、 いかなる時でも、自己を内側に置いて外の世界や、思考の暴れに気付いているなら、マインドは驚くほど穏やかに、静かになるのです。 常にそのように内側に居るなら、あるいは、なるべく多くの時間を内側に居るように心掛けるなら、我々は誰でも、この神聖な場所、ハートを感覚するのです。 ハートは真実のわたし、自分の源泉に直結する場所であり、真実の愛と、智慧に導いてくれます。 Tさんは、それに疑うことなく向き合い、常に憧れ、それを全く信頼しきって、それに全てを明け渡した結果、なじみのある「わたし」ではなく、真我が人生を代行してくれるようになったのです。 わたしもそうでしたが、そうなる事で、思いもかけない内側からの助けがやってきます。 「わたし」が自我に支配されず、内なる真我に、まったく明け渡すなら、真我が責任をもってくれるのです。 「わたし」が真我に目覚め、真我と、もう絶対離れられない同化が起こるのです。

 。。。。これは、「自己観察」のことを言っていますね。 自分の心の中に生じてくる思考や感情などを観察することです。(また、明け渡しの対象は、神ではなく、真我になっています。)

通常我々は、思考や感情に巻き込まれていて、それらと一体になっています。たとえば、「お金がない」という思考が生じるとすぐに「恐怖」という感情が発生し、恐怖感で一杯になります。恐怖=自分の状態になっているわけです。しかし、この恐怖をひとつの物体のように観察しよう、この恐怖という感情はどういうものかもっとよく観てやろうという態度をとり、静かにしてジッとその恐怖感情を心に浮かばせたままで「注意力」=「気づきの力」をやわらかく包むような感じで注ぎます。そうすると、恐怖感と観察する意識=自己が分離し、距離感が生じてきます。もう、恐怖は自分ではなくなっています。ひとつの物体、あるいは、得体のしれない変な生き物のような感じです。自分は、この「それを観察している者」です。この観察者の位置に意識を置き続けるのです。一日24時間です。

そうして、自分の心の中に生じてくるすべてだけでなく、いわゆる「外の出来事」も同じ態度で観察します。なぜならば、「外の出来事」も結局、我々の感覚器官をとおして、心の中に生じている「現象」だからです。 ある自分にとってよくない「外の出来事」が生じると、それに反応して、ある感情や思考が生じます。このプロセスも観察します。「観察」とは、何か生じた時、条件反射的に反応せず、一歩引いて、その出来事全体のプロセスを「よく見る」ことに最大の興味をもつことであると言ってもいいでしょう。何とかしようとしないのです。出来事や状況をコントロールしようという習慣的になってしまっている傾向/欲求を手放すのです。

で、観察するとどうなるか?

1)まず、既に述べたように「観察する自分」が感情や思考や外部の出来事から分離されます。そうして、その自分は、非常に安全であることに気づきます。別の言い方で言うと、感情も思考も出来事もこの自分にタッチできないのです。この自分は揺るぎません。観察の初期の段階では、何度も感情や思考に巻き込まれます。でも、巻き込まれていると気づいたら、すぐに観察者の位置にもどるようにします。そうすると、次第にこの観察者の位置をキープできる時間が長くなってきます。実際にやってみればわかります。

2)次に、観察された対象が力を弱めるという現象が生じます。たとえば、恐怖という感情を観察していると、次第に弱く薄くなることに気づきます。時には、観察したとたんに消滅します。また戻ってきますが、何度でもそれに気づき、観察します。思考でも同じです。将来についての想像、非常に悪いシナリオが湧きおこってきたとき、それに気づき、観察します。たいていの場合、思考は気づかれた途端に力を失い消えていきます。それは、現実ではなくたんなる思考であったとわかるはずです。もっとも、この手の「自分の将来を想像する思考」は、インストールされたプログラムのようなもので、強い傾向性を持っています。自分の将来を考え始めると、すぐにこのプログラムが作動し、同じネガティブなストーリーになってしまいます。ポイントは、これが出来の良くないプログラム=強い傾向性であることを「見る=観察する」ことです。そして、何度作動し始めても、すぐにそれに気づき、それを手放すことです。

記事「なんと!読者の方が目覚めはじめました」の中では、花岡さん流の表現で(私から見ると)かなりロマンチックに書かれていますが、味もそっけもない説明的言葉で書くと、以上のようになります。(私は昔テーラワーダ仏教協会の瞑想会と瞑想教師の地橋秀雄さんの指導の下、ヴィパッサナ瞑想をしたことがあります。その時の経験を思い出しながら、自己観察について書きました。)

この記事の中での「内なる真我に、まったく明け渡すなら」という表現は、この「自己観察方式」においては、まず第一段階として、「観察者になりきる」ということ、「観察者のポジションに自分を置き続ける」ということを意味すると私は考えます。

ほんとうの「真我」は、この「観察者」の膜一枚外にいます。真我は、観察者をも観察しているのです。しかし、その「常に見ている」という性質において、「観察者」は「真我」の子供のようなものです。

観察者でい続ける。その間にこの「ほんとうの真我」に気づく、観察している自分をも見ている目に気づく、その時、「観察者であろうとする努力」を放棄し、この自分を常に見ている存在のたんなるパイプのようなものになろうという気持ちが生じてくる。「赤子のように手を開く」=「手放しする」=「その存在に対する警戒を一切捨て、自分を武装解除する」。その後は、努力する必要なくただ観察=見ることが、それ自体で遂行されていく。

そして、何かが生じる:

真我が人生を代行してくれるようになったのです。 わたしもそうでしたが、そうなる事で、思いもかけない内側からの助けがやってきます。「わたし」が自我に支配されず、内なる真我に、まったく明け渡すなら、真我が責任をもってくれるのです。

私の想像ですが、そういうことなのではないでしょうか。

この記事の読者Tさんの場合、自己観察は、かなりフンワリしたもののようです。あまり厳格な自己観察ではありません。Tさんは、次のように言っています:

 何もしてないのに、ただただ恋焦がれ、目覚めを夢見て、思考に気づくようになり、浮かんで来る思考を感じるようにしてただけなのに…やっぱり、嘘じゃなかった(涙) 信じられない事が起こっちゃいました。 信頼し明け渡したら、すべてがそこにあり、何一つ悪い事なんて起こりませんでした。 ここから、ここから、でも多分起こる事は起こると思うけど、もう怖くて縮こまり、エゴに手渡す事だけは無いと思います。 みなさんのお陰です。お世辞なんかじゃなく、今の私の心をどう説明していいかわかりません。 ありがとうございます。

 

この幼子ように信頼し、明け渡すが多分みんなの最後のピースなような気がします。 みなさん、自分の問題は人はそうでも自分は違うと思いがちですよね。 私だってまだまだ問題山ずみですよー。 でもね、自我にはまりそうになるけど、今は前とは違うのは自覚しています。 一人で背負ってるような、孤独感もないし、私の中に居る私を頼りに、問題(幻想)と向き合ってます。 私たちはみんな、より良い暮らし、願望実現、幸せになるために、戦って、神経擦り減らし、ひとつ願いが叶えばまた次の願いを…と際限がありませんよね。 でも幸せは探さなくても今ここにあります。 願望を叶えるためにエゴと戦い、苦しみながら叶えなくても、エゴを手放せば、全てはここにあります。 このエゴを手放すのが、できなくて、またエゴにはまり苦しむんですよね。 みんなこれができなくて苦しむんですよね。 全てを失うような、裏切られたような、不安や恐れが邪魔してすすめないんです。 私は、とにかく、エゴ(思考)に気付くようにして、苦しくても、泣き叫んでも、起こるがままにしているようにしています。 諦めず、何度でも、やります。 途中、自分を卑下するような言葉も浮かびますが、それも受け入れただ気付いてそのままにしておきます。 時間は問題じゃありません、すると、必ず安堵感でいっぱいになる時があります。たとえ僅かでも、かいま見えたら後は、続けて行けば、段々自分がエゴにコントロールされなくなります。 全てがここにあるとわかった時、向こうから、問題解決がやって来ます。 願望も自然と叶うんだと思います。エゴに惑わされて願望実現しようとすると、実現しないか、叶っても不幸と抱き合わせだったりする気がします。 私たちの本来の目的は、神のシナリオ通り、神じゃないものを経験しながら、神に還る、幻想の中を旅してるんだと私は思ってます。 だから本当はどこかでわかってるのかもしれないですね。 本当は全て叶ってる事を。だから、目覚めると不思議と願望が無くなるんですよね。 幼子は全てわかってるんですよね、見てるとわかります。 私もずいぶんと子供たちに自分の理想を押し付けてしまいました(反省) 私も幼子のようになって明け渡します。

 どうやら、「宣言方式」より「自己観察方式」の方が時間はかかるけど、ソフトで穏やかで効果が高いようですね。

 

長々と書いてしまいましたが、私は、この「自己観察方式」をbirdie さんにお薦めします。

まず、花岡さんと同じようなことが起きると期待しないでください。実際、起きる保証はどこにもありません。

ただ、自分に起きるすべてを観察する「観察者」の位置に移動してください。

最初は難しいかもしれません。何度も感情や思考に巻き込まれます。でも、諦めずに「観察」してください。 やっていれば、自然にいろいろとわかってきます。自分で発見します。

最低限、恐怖や苦しみの感情が減少していくことは保証できます。

「明け渡し」という言葉は、とりあえず忘れてください。できなくてもいいじゃないですか。

そんな言葉は忘れて、ひたすら「ただ見る人」になりきってください。

そうすれば、やがて、birdie さん用にカスタマイズされた形で「みこころ」が動き始めるでしょう。

 

ブログ管理人より