わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

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ブログ管理人より

常に神(源泉)を思っているなら神で満たされる 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

常に神(源泉)を思っているなら神で満たされる

 

善い事を思い続けている事が、善い結果を生み、幸せに繋がる。
だから、悪い事を思わず、善い事だけを思いなさい。
という人がいたとして、善い悪いの根拠も自分の尺度に頼るしかありません。

たぶん、これは悪い事だと思う、ほんのちょっとの事、そういうものは意図的に気づかない振りをしてしまうかも知れません。
つまり、ほんのちょっとの悪い事をして、ほんのちょっとの事だからと、意図的に取り合わないでいる、という事をしたりします。

ほんのちょっとの悪い事をして、それを知らないでいた事にしようとする、その事がまた悪い事と断定されながら、ついにその事もどうでもいいやって・・・悪い連鎖として続いたりします。

ほんのちょっとの善い事をして、たいそう善い事をしたとする人は、まずいないでしょう。
でも、ほんのちょっとの善い事をして、ほんのちょっとだけど善い事をしたという思いが、過去のとても多くの悪い事を清算してくれたような気になる人はいるかも知れません。

ほんのちょっとの善い事をしただけで、過去のとても多くの悪い事を清算してしまう事が、許されるかどうかまでは考えたりしません。
ほんとうにそれを考えたら、きっと、理屈の通らない事だと思うに違いないのです。

そのように善い悪いの判断は、まったく自分の都合に合わせた身勝手な尺度なのでしょう。

善い事を思い続けて、自分が善い者となり、幸せな立場の者としたとしても、そのような悪い素因を消し去れたかといえば、きっとどこかに隠し持っているに違いないのです。
そうであるなら、その人は偽善者なのでしょう。

つまり、そのように完全に善い者となり、幸せな立場に立ちたいと願望をもってそうするなら、それは条件による見返りを求めている事になります。

そして、その善い悪いの判断さえ、自分の都合で作り出した尺度であるならば、まったく自作自演なのです。

善い者となりたい、それによって幸せになりたい、そういう事を全く思わずに、有事の際、人は全く善い事をしてしまう事があります。

川に流されている人を、後先考えずに飛び込んで助ける人がいるかもしれません。
ホームに落ちた人を、危険を顧みず助け上げたりする人がいるかもしれません。
その時、見返りはいかほど?など考える人はめったにいないわけです。
ただ、助けてあげたくて助けただけです。

あるいは、賞賛を得たいと思う人が、余裕を計算して助ける人も、希ながらいるかも知れませんが。

善い結果を生み、幸せな者になりたいとして、善い事を思う事が、善いとも悪いとも言いません。
そうだと信じてそうしても、そう信じないでそうしないでもいいのです。

でも、本当に善い事は、善い悪いの判断がまったく介入していないところで起きてしまうという事をわかってほしいのです。

そうであるなら、善い事を思い続けて善い結果を期待する事にどれだけの見返りが得られるのでしょうか。
それは、まったくマインドの作り話にのっているのでしょう。
そのようにラベルを貼りつけるマインドの罠にはまり込んでいるのでしょう。

善い者は、善い事をしようなどとは思いません。
思いもしないのに、それなのにやってのけます。

優しい人は、優しくしようなどと思わずに、優しい人でいます。

ソロバンをはじく事をせずに、ハートに従っているのです。

また、こうも言えます。

善い結果を生み出し、しあわせに繋げようと考える事をせずに、善い事を思い続けるなら、善い結果を生み出し、幸せになれます。
そこにソロバンを持ち出すかどうかで、全く違ってくるのです。

そういう人は、全く、ハートに委ね、ハートに従い、ハートを信頼しているのです。

それだから、わたしは言います。

神を常に思っているなら、自らが神で満たされます。
いつでも神でいっぱいになるのです。
神に全く見返りを求める事無く、神を信頼し、神に従い、自分の今もこの先も全て委ねて思い続けてください。
神に全く期待する事無く、神を思い続けているなら、神のみこころはあなたに及ぶに違いないのです。

我々が在るのは、神が在るからです。
神によって具現されたものを神が見捨てるはずなど無いのです。
見捨てているのは、我々の方だったのです。

常に神を思っているなら、我々は神で満たされ、神そのものと全く違う者では無い事を知るでしょう。
最初から許され、最初から幸せな者であった事を知るでしょう。
誰もが神の要素であって、誰ひとり欠けても全ては存在する事ができません。

それなのに有りもしないラベルを貼りつけて行って、知覚マヒを起こしていたのだと気づくでしょう。
わたしは不幸だとする根拠は自我の中にある二元感覚が起こしているのです。
比べる事で偏り、どっちかに決めずにはおかないからです。
幸か不幸か、どっちかに断定したいのです。
二つの極の間に、自分勝手な印を付けているのです。
ここから不幸、ここから幸せ・・・って。
有りもしないマインドの罠です。

神、すなわち、我々の源泉、第一原因のみこころのまま、それが起こす全てを受け入れるなら、それはそのまま至福なのです。

ハートで知ってください。

ハートに、あれやこれや条件を持ち出す必要のない、理由のいらない愛を感じてください。

その至福を味わってください。

受け入れ、委ね切るなら、知る事の無かった真実の愛が、その神聖な場所、ハートに目覚めるのです。

これは宗教ではありません。
全くの自然現象であり、真理です。

 

 

2012-06-04