わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

苦行について思う事 花岡修平「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

苦行について思う事

 

仏陀が苦行では悟れないと明言しているにも関わらず、あえて苦行に励む人も多いのです。

千日回峰行のように、真言を唱えながら山中を来る日も来る日も駆け回るとか、何日も飲まず食わずで日の射さない部屋で独り惟ひたすら三昧に励むとか。
ひとつ間違えば死に至る可能性もある修行です。

自分を極限まで追い込む事で悟りに近づくと、なぜ思うのかは不思議です。
不思議ではあるけれど、そのように自分を駆り立てる何かがあるのでしょう。

それは阿闍梨の称号を得るためなどと、決して思いたくはないし、実際そのようなものではないのでしょう。

しかしながら、何かを求めて苦行をしているには違いないのです。

仏陀は、くじけそうになる修行者(僧ではない)に、「お前たちは、わたしの足跡をただ辿るだけではないか」と激励します。

そういう事をお経に見て取ると、やはり仏陀の行ったとおりをやらねばなるまいと思う人も出るわけです。
もちろん、仏陀の言うのは違う意味で、もっと合理的にやっていいのだよと言う意味なわけです。
ポイントを押さえれば、集中してそれを行う事で、苦行せずに彼岸に到達できるという励ましです。

そうであっても、当時の仏陀の捨てたはずの苦行を、体験してみない事には始まらないと思い為す事で、大乗仏教に於いては、苦行が復活するわけです。

仏陀となる前のゴータマは、何人かの師の下で肉体行とかにも励んだようです。

当然の事ながら、彼には納得のいく修行ではありませんでした。
しかし、ヴェーダの教義が彼を苦行から遠ざけることはありません。

結局彼は独り、ピッパラーの大樹の下で、ほんの僅かな胡麻と麦だけで三昧する、麻麦の行に入ります。
来る日も来る日も、定に入り、ただひたすら座り続ける毎日です。

雨季を迎え、乾季が訪れ、また雨季が来て、三年経過して、肉が削げ落ち、あばらが浮き出た彼は思います。
これほど修行に明け暮れて、何一つ悟れない。もういい。もう悟りは捨ててしまおう。
そうやって苦行と悟りを捨ててしまった彼に、ブラフマン(真我)が現れます。

苦行では悟れないのです。

しかしながら、苦行を行い、苦行では悟れず、苦行を手放し、何も持たない状態になったその時、彼に悟りが訪れたのであるならば、苦行は、ただの役立たずではなく、その縁として重要な役目を果たしていた事になります。

そのように解釈するのは自然な思考の推移です。
そういうわけで、苦行は必要なのだと主張する一派が出てくるのも当然の事かも知れません。

しかし、その解釈は自然であっても、正当であるかは別の問題です。

なぜなら、苦行を、悟りを得る手段として行うのであれば、そこには悟りへの執着が厳然として存在するわけです。
欲しい欲しいがそこにある以上、「苦行」は「欲しい」の別の表現に過ぎません。

そうであるならば、その次の段階の、「欲しい」を手放す事も、「欲しい」に由来するわけです。
欲しいから、「欲しい」を手放そうとするのです。

どうですか? 絶対的に、執着から逃れられないのです。
執着があるうちは、どうしたって目覚めは起こらないのです。

仏陀の教えの主幹を成すものは、中道の教えです。
村娘チュダリアの施す乳粥をすすりながら、彼は先ほどチュダリアが歌っていた歌を反芻します。
琴の糸は張っていなければ音が出ない。張りすぎると切れてしまう。中ほどに張るから美しい音を奏でる。

どちらにも偏らない中道にある事で、存在の意味を悟る。
偏らない八つの正しい道、八正道によって、偏見と断定の中に生きている自分を修正する。
それによって、あらゆる事象を、ありのまま観ずる事ができる。

心にどのような拘りも捉われもなく、ありのまま観るのであれば、なんと世界に分離などないではないか。
あの険しい山々も、このピッパラーの木々も、草も、この身体も、すべて分かれていないひとつの中に、続いた現れ達ではないか。

そうであるなら、世界には、何かがあるという思いさえも幻想にすぎない。
ただ、「在る」の現れであって、それ以外の何物でも無い。
ただ、在る事の喜びと、愛の故に在る事と、愛の故の事象ではないか。

そうであるなら、全てが愛以外の何物でも無い。
全てはそれの臨在であると悟るのです。

一方に偏るから歪んだ価値観が生まれ、貪欲が育つのです。
一方に偏るから思考のノイズが湧いてくるのです。
なにかしら意味づけをしてしまうから、本来が不明になるのです。

断定する事の無い、偏らない中道の自己を養い、ただ座り、ただ観ずる。
あるがまま思考を観じ、思考から離れ、あるがまま静寂を観じ、まったくあるがまま世界を観るなら、「わたし」は消え、全てがわたしである事を実感します。

自分が宇宙を呑みこんでいるのを感じるのです。

 

 

2012-05-26

外なるわたし、内なるわたし 花岡修平「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

外なるわたし、内なるわたし

 

我々は、「唯ひとつ」の中で、外なる世界を創りだしています。
外なる世界の中で、主体である「わたし」と、客体である「わたし以外」に分けて見ています。
外なる世界は、「わたし」と「わたし以外たち」との関わりの物語です。

「外の世界のわたし」は、いつでも「恐れ」によって、あらゆるものと戦っています。
財産、地位、家族、名声、賞賛、尊敬、幸せ、愛、快楽、そのような自分にとって心地よいもののために。

それを手に入れるために、あるいは、奪われないために戦っています。
手に入れられない恐れ、失ってしまう恐れ、それは困窮という状態に陥るかも知れないという妄想の故に現れます。

どこで、何をしていようが、恐れは付きまといます。

まったく有りもしない妄想であるのに、しかも、自身でさえそれが時折ふっと現れる心配事に過ぎず、今その状況にはないと知っていながら、気づかぬうちに恐れと肩を並べているのです。

家族にあっては離散の恐れ、職場にあっては解雇の恐れ、社会にあっては蔑みの恐れ、愛するひとにあっては嫌われる恐れ、自分にとっては孤独の恐れ、そして、失命の恐れ。

まったく恐れが「わたし」を戦いに駆り立て、恐れからの脱出のために「わたし」は戦い続けます。

保身、あるいは、自己保存と言われます。
自己をなんとしても確立しておかずにはいられないのです。
「わたし」とはそういうものです。

保身のために、悪行を為します。
あるいは、保身のために善行を為します。
保身のために、嘘をつきます。
あるいは、保身のために正直を演出します。

自分の為した行為を隠すため、罪を認めたくないため、奪われたくないため、認められたいため、愛されたいため、嫌われたくないため、褒められたいため、賞賛されたいため、あわれみを請うため、仲間を得たいため・・・。
まったく、ありとあらゆる自己保存のために、嘘をつきます。

ひょっとしたら、「外なる世界のわたし」は、毎日幾度となく嘘をついているかも知れないのです。
しかも、その事に、まったく気づかないでもいられます。

あるいは、「外なるわたし」は、「外なるわたし」にさえ、嘘をつきとおし、嘘をついている事を忘れている事さえできます。
犯罪者が自分は犯罪など犯していないと自らに念じ、完全に成り切る事で、非犯罪者として溶け込もうとするのです。
しかも、それは全く完璧に行われている事の方が多いのです。

しかしながら、「内なるわたし」は、まったくその事に気づいています。
気づききっているのです。

「外なるわたし」には、自己暗示によって嘘を通しきることはできるでしょう。
しかし、「内なるわたし」には、絶対的にうそを通しきることはできません。
どのように自分をごまかしても、真実のわたしは、それを見抜いているのです。

さあ、感じてください。
内なる自分が、うそに気づいている事を。
いつだって「外なるわたし」が嘘をつく時、「内なるわたし」にだけは、それがバレている事を。

嘘をついた事がある人は、絶対それを感覚できます。
それが、嘘を責め立てるからです。
その故に、外なるわたしは、呵責を感じるからです。
その呵責は、内なるわたしの呼ぶ声です。

内なるわたし、真実のわたしに気づくには、そういう嘘さえ役にたつのです。
ひと度その、嘘をつけない、なんでも見通している内なるわたし、真実のわたしに気づいたら、もう二度と嘘をつきずらくなります。
嘘をつこうとすると、それが「待った」をかけてしまいます。

なんと、嘘をつく行為さえ、真実のわたしに気づく手がかりになるのです。

観察してください。
過去の嘘でもいいのです。

「嘘をついて嘘ではないとする」外なるわたしと、

全く「それは嘘だと気づいている」内なるわたしと、

その両者を見比べてください。
そして、それは厳格に分けられなければなりません。

その「嘘のつけない内なるわたし」にシフトするのです。
もうどうあろうが、嘘をつけないわたしでいるしかなくなります。
この後はもう、嘘をつこうとすると、真実のわたしが現れるようになるでしょう。

これからはいつでも、嘘のつけない真実のわたしを観察しようとするなら、観察できます。
内側とは、そこです。
そうして、内側に常駐する事に慣れて行ってください。

明け渡すその日が来るまで。

 

 

2012-05-25

 

 

【読者T】

花岡さん、みなさんこんばんは。 

外なるわたしが、真実だと、長い事エゴに思いこまされ、そしていつのまにか、そこでの生活から抜け出せなくなってしまうんですよね。 
まるで、怖いけど見てしまう恐怖映画を見るように。 

真実を垣間見ても、みんな「そんなはずはない」と、外なるわたしに埋没してしまうんです。 

そこが唯一の生きて行ける場所だと勘違いしてしまい、慣れ親しんだ恐れや不安、疑い、恨み、妬みなどを手放す事は、今の生活をすべて無くしてしまうような、命さえ失うような気になり手放せなくなってるんですよね。 

本当は、全く反対の事が起きるのに。 

明け渡しは、自分に素直になり、どうしていいかわからないから、降参してしまえばいいんですね。 

降参した後に、起こる事など考えるからまた恐れてしまうので、なにが起きてもいいと、それもすべて明け渡してしまえばいいんです。 

思考に気付いて、後は全て明け渡す。 

起きてる苦しみにだって神の意図があると思うんです。 

私たちは飽きもせずに、神の手の平で遊んでるのかも知れないですね。 

どんな事も、どんな自分も、完璧なんですから、そんな自分も状況も愛せますね。 

外なる私は、完璧じゃない、幸せじゃない、あれが足りない、これも足りない、手放したくないから、しがみつく、穴を埋めるように。 

内なるわたしは、全てが今ここにあると知っているから、ここに居るだけで、満ち足りて、幸せで、愛にあふれ、みんなでそれを分かち合い、みんなにそれを分け与える。 
だからますますみちあふれて行く。 

いつか成功し、幸せになるんだと、外に目を向けてたけれど、「いつか」なんて絶対来ないのがわかりました。 

今全てがここにあるんだと言う事がわかりました。 

どんなに苦しい時だって、何かに没頭してる時は忘れてるんですから、こんな曖昧でやがては黙ってても通り過ぎて行くものに、しがみついて離さないから、いつまでも同じ所でぐるぐるしてただけでした。 

目覚めたのが間違いじゃないかと思う時も訪れ、そしてまた強固になって行くのかなと思います。 

何しろ出来立て温泉玉子ですから(笑)

 

【読者M】

花岡さん、皆さんこんにちは。 

> まったく恐れが「わたし」を戦いに駆り立て、恐れからの脱出のために「わたし」は戦い続けます。 
まさしく、私が陥る戦いです。グルグル・モード! 

> どのように自分をごまかしても、真実のわたしは、それを見抜いているのです。 
だから、スッキリしない。悶々とする。 
本当の私は、内なるわたしは、正直に自分を認めて生きて行きたいから。 

Tさん。 
出来立て温泉玉子、ピッタリですね。 
花岡さんの毎日の記事を、たまこさんの体験や、感覚で説明して下さって、嬉しいです。 
「あ、そうか!」って、別の角度から感じる事が出来ます。 

ここ数日忙しくしていますが、必ず毎日ここに来ています。 
花岡さんの記事。 
皆さんの疑問やコメント。 
それに癒され、励まされる日々です。 
心の中が感謝で一杯。 


【読者T】Mさん

Mさん、ありがとう。 

花岡さんはやっぱりすごいなぁと思いますね。 

私知ってる言葉がこんなに少ないのに、花岡さんは辞書みたいだよね。 

アカシックレコードとやらにアクセスしてるのかしら?(ん?私言葉の使い方間違ってない?) 

Mさん、私も寝る前に花岡温泉入って寝るのだ。手足を伸ばし、ゆっくり浸かって温まるまで居るのよ。

いい湯だね。

引き寄せの法則はあるのだけれど 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

引き寄せの法則はあるのだけれど

 

引き寄せの法則というものがあるそうです。
もちろん事実です。
常に、そのようにして、幸せも、不幸も、悲しみも、辛さも、引き寄せているのです。

でも、それは、五感と識で感覚する現象世界の出来事です。
マインドの関与による、絶え間ない創作による現象です。
幻、イリュージョン、マーヤ、いろいろ言われるこの、現象世界に表現されている、この世界だけの出来事です。

しかし、「ほんとうの我々」は、この世界に居るのではありません。
それぞれの中に、自分と思っている身体と共に、この世界が現れているのです。

そういう意味では、引き寄せの法則よりも、もっと気づくべき真実があるのです。
つまり、真実の我々は何であって、どこに存在しているのか。
なにも恐れを抱く事の無い、欲の湧いてこない、執着することの無い、究極の幸せ、満ち足りた安らぎ、
永遠であって始まりも終わりも無い、愛そのものである自己の本性。
ただひとつの全体。
それが、誰にとっても気づかなければならない行き着くべき、帰るべきふるさとです。

全てを包括する「ただ在る」世界であり、全ての根源です。

現象世界のあらゆるものが、その源泉からたち現われ、命、光、場、作用、次元、二値への分離、
生と死の観念、時間の観念、マインドの形成、感情、記憶、想念、思考、心、
現象世界に現れる目に見えないものと、波動周波の低下した目に見える物質などに変化します。
その現れ方が、あなたの意味づけで、成されていくのです。
あなたが意味づけたものが、世界に投映され、引き寄せています。

自分は身体だという主体、脳だという主体、あるいは心であるとする主体、
その位置づけさえ、あなたが意味づけたものです。

世界がどうであるとか、宇宙の法則がどうであるとか、言ってしまえばただの幻を追い続けているのです。

それでも、物事には何であれ、意味の無いものなどありません。
意味があるから起こっています。

「ただひとつ」から立ち上り、自我の意識に表現されていく二元の世界。
それは体験して、知らなければならないから、起こっています。
喜びも、悲しみも、苦も楽も、体験して味わい、知る。
この一連のプロセスが、源泉の、つまり神の望んだ事、みこころです。

あなたが体験している事、悩んでいる事、楽しんでいる事、それらすべての精神エネルギーは、神の気づくところであり、神に帰って行きます。
それが神の活動だからです。
「在る」である源泉は、そのように、小さな自我に体験させて、真実の愛を育んでいるのです。
愛の循環です。

個々の細胞の活動が、全体という身体の活動につながっているのと、同じです。
小さな細胞は、全体という身体に気づかないかも知れないけれど、ご飯を食べて栄養を与えているのは、身体です。
あなたは、神に気づかないかも知れないけれど、神に養われているのです。

細胞が、身体の要素であるように、あなたは神の要素だからです。
それだから、あなたを愛しきっているのです。
あなたが自身の、ただ一個の細胞さえ慈しみ愛するのと同じです。

そのように、決してあなたから離れる事はありません。
置き去りにする事はありません。
いつもあなたに気づいています。

神は、大宇宙の運行プロセスに気づいていながら、同時に小さな蟻の足音にさえ気づいているのです。
そのように、あなたも神に、源泉に、真我に、気づくべきです。
その真実に気づき、その愛を頂いてください。
真実の愛は、こんなにも、自分を満たしてくれます。
その喜びを知ってください。

そして、その愛を、また源泉に、神に返してください。
循環させてください。
内側にその通路があります。

あなたが、宇宙のどこかに幸せを引き寄せようとするなら、それは出来るでしょう。
でも、その幸せ・・・続きません。
現象界に求めるものは、永劫ではないからです。
更に、更にと、貪る事によって、幸せを引き寄せるなら・・・いいですか!二元の世界です。不幸も同時に引き寄せているのです。

神から与えられる幸せは、「ただひとつ」から来るのですから、そこにどのような不幸が隠れているでしょうか。
そのようなものは、無いのです。
ただただ、純粋な、幸せなのです。
気づくべきは、それです。

 

 

2012-05-07