わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

自由になって「ここ」に来てください 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎コメント欄での読者たちとの問答を付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。(*今回の大量掲載最後の記事になる。最後を飾るにふさわしい記事だと思う。)

 

自由になって「ここ」に来てください

 

「わたし」は無い・・・というのは、「そのような心境になる」という事ではありません。
また、そのように思いこむ事でもありません。

「わたし」が有ろうが無かろうが、そのような事とは関係無く、「わたし」ではない真実実体に委ねてしまう事で「わかってしまう」理解があるのです。
「わたし」に縛られず、自由な存在になるなら、どんなに解放された喜びを味わう事でしょう。

自由な世界。解放された世界。

すごく単純な事です。

ほんとうは、「そのようなひとつ」しかありません。
不可分の真実実体です。

方法は、全く浄らかな、この上ない純粋な、思考を持たない赤ちゃんになればいいのです。

赤ちゃんが、初めて世界を見たその時、これは世界だ!などと思ったでしょうか?

ただ見ていただけです。

見えるものが見えた、それだけです。

それは思考の始まりです。
見たからには見た誰かが対になっているのです。
何か、行為者のようなものが、見るという行為をし、見えるという思考をしている。

ところが、

あかちゃんは、その一連の流れさえ、ただ見ているのです。

赤ちゃんの自己は、その行為者ではありません。
行為者である「わたし」は、行為と共に、その思考の中にいるのです。

その彼、つまり行為者である「わたし」は、有機体とともに自発的に現れた自我意識であって、赤ちゃんはその活動をただ見ているだけです。

余りにも彼の周囲がうるさいので、つまり、パパやママやそのような者達が、それぞれに「わたし」を主張し、「あなた」を押し付けるものだから、彼は事の最初から暗示をかけられてしまいます。

結局、彼は「生まれてしまう」のです。
そして、「死んでしまう」まで、「生き続け」ます。

そのような思考の流れの中で、彼は本質の自己を忘れきっているのです。

それは間違いではありません。
人は映画を、その主人公になりきって、あたかも体験するごとく見る事で、より深く映画の伝えたい意味を汲み取ります。

そのような思考の流れ(物語)が、意味も無く流れるはずは無く、そうであるから現れ来るのです。

それは知るべき体験であって、それが真実実体である本来の自己を、より豊かにしてくれるのです。

しかし、ある種類の人には、その思考物語を手放し、本来の自己に立ち戻り、その尊い滋養を真実実体の愛に還元しなくてはなりません。
それだから、真実を知りたいという、奥底からの激しいゆさぶり、衝動が起こるのです。

思考の行為者は誰なのか?

その問いは、行為者から離れなければ出ては来ません。

思考する行為者の立場を退き、行為について、思考について検証が始まります。

その時、「行為者から離れている立場」に気づいたなら、そのままでいてはいけません。
いつまでも思考、行為について検証しているから思考から逃れられないのです。

もう、放っておきなさい。

真実実体の存在に、そのまま混ざってしまうのです。

霧が薄まり、次第に辺りがその姿を現すように、二元を超えなさい。

赤ちゃんが、初めて世界を見ていながら、ただ見ていたように、見ている世界に頓着せず、ただ存在でありなさい。

気づけますか?

この喜びに。

愛に。

満たされていく、至福に。

解き放されて、自由になった喜びを、味わえますか?

わたしが知って欲しいのは、ただ「これ」です。

人が「これ」を知るなら、あらゆるものは幻であった事を悟ります。
すばらしい幻です。
意味のある幻です。
それは、結局、「これ」と同じもので現れる現象であった事を悟ります。

「これ」は不可分であり、ただ「これ」しかない事を悟ります。

「わたし」は無い。
ただ、思考があるだけです。

「これ」は神です。
「これ」はあなたです。
「これ」はわたしです。

気づきましたか?

現象界の身体の胸が、うずきますか?
快い、うずきを味わう事ができてますか?

それも「これ」です。

「これ」は不可分であって、「これ」しかなく、「これ」は「これ」で全部です。

だけど、このような事を、言葉ではどうしても伝えられない。

あなたが「これ」の、つまり「ここ」に来る以外、手段は無いのです。

わたしが言う「ここ」とは、つまり「これ」の事です。

「ここ」に来てください。

「ここ」です。

 

 

2013-03-21

 

 

[読者BB]ちょっと教えて頂きたいことがあってやって参りました。 

最近、分かってきたのですが、世間で言われている「悟り」の概念に、意外なほど大きな幅があることです。 
おおざっぱに分けて、どうやら3つの要素が含まれているようです。 

一つ目は、瞑想中などに生じる一瞬のワンネス体験(自分は宇宙だという体験、このとき大きな感動もあったりするようです)です。これは、本当に一瞬のもので、その一瞬が過ぎれば、その後の意識状態にはあまり痕跡を残しません。 

二つ目は、明け渡しです。明け渡しの生じた瞬間にも、ワンネスに似た感覚がありますが、こちらの方がもっと大きな愛を感じるのではないかと思っています。そして、もっとも特徴的なのは、その後の意識状態の変化です。本当に明け渡してしまいますから、我も、欲も、現世を生きるに必要な必要最小限に希薄化します。また、常に大いなる存在と繋がってますから、いつでも、大いなる存在の愛に触れることができます。 
(ちなみに、私のケースはこの二つ目に該当するのではないかと思っています。) 

三つ目。これは私にはよく分からない概念なのですが、自覚等の用語が使われるようでして、座禅や瞑想により自分を見つめていく作業の中から、自分が何なのかとうことに気づく(見性)ことなのだそうです。要するに、自分が体験している世界は、この瞬間にある自分という本質的な存在(要するに大いなる存在です)が作り出したものであることに気づくことなのだそうです。 

 

それで、一番気になるのは、上の三つ目の悟り概念では、悟りに各人の人格は全く関係なく、悟り後も、人格の状態はそれまでとあまり変わらないというのです。 

それで、花岡さんに質問なのですが、 
上の三つ目の悟り概念についてご存知ですか? 
ご存知の場合、三つ目の悟り概念と、二つ目の悟り概念の関係などについて、何かご存知ないですか? 

個人的には、三つ目の悟り概念もそれはそれで悟りの一つでありのではないかと思っています。 
但し、誤解を警戒しながら敢えて書かせて頂くと、悟りが一種の階層構造になっていて、二つ目の悟り概念は、三つ目の悟り概念のさらに上層に位置する概念なのではないかと思っているのですが、この点についてどう思われますか? 
これは、最近、耳にした話し(下記参照)とも整合します。 
悟り後の世界には、大きく分けて2つあり、単なる悟り(転生の選択自由度が拡大する)と、解脱(もう転生せずに、大いなる存在の一部として存在する道)とがあるようです。 
実は、私は、明け渡し経験の直後(翌朝)に、何の予備知識もなしにふっと、自分はもう生まれてこないのだと思ったのです。 

ちょっと悟り世界の週刊誌的な話題で恐縮ですが、何か知っておられましたら、教えて頂ければありがたいです。 

よろしくおねがいたします。

 

[花岡]こんにちは。 
お答え致します。 

悟りをそのように分析してみた事はありませんでしたが、言われてみればそのようにも思えます。 

さて、人格とは?と改めて考えてみますと、つまり、人としての格の事なのでしょうね。 
そうなれば、人としてのレベルという事でしょうか。 
人が人を判断する時、断定する時には、そのような概念を持ち出すものですが、悟りに入った者はそのような断定的差別はしないのではと思うのです。 

もしも、そのように言う悟り人がいらっしゃるのであれば、言葉の選び間違い。 
それは人の持つ個別の性質、個性の事を言ってるのでしょうね。 
個性はもちろん、どのような場面にあっても持ち越します。 

そして、三つの悟りについてですが、 
おっしゃるように、1番と3番は、「わたし」を持ったまま、気づきの閃光が来て通り過ぎる事ですので、「わたし」を手放してはいません。 
言ったら、「わたしは何か?」という「わたし」にターゲットを向けた事ですので、そこに長い事留まる事は難しいのです。 

2番の明け渡しによる理解は、「わたし」に執着する事無く真実に溶け込む事が容易な訳で、望むのであれば若干の「わたし」を残したまま、真実に楽しみ続ける事も出来る訳です。 

そうであるなら、2番の理解が、他のそれらを陵駕しているのは、明らかです。 
「わたし」というエゴを手放し、真実から与えられる全てを受け入れる、それは、何かの隙間から伺うようなものではなく、全く遮るものなくそれを知るという事です。 
しかも、他のそれらよりも楽にそれに到達できるのですから、すばらしいですよね。 

おもしろい質問、ありがとうございました。 

 

[読者BB]早速、ご回答ありがとうございました。 

面白かったですか?(笑) 
花岡さんは、こんな週刊誌的な話題にはご興味ないのかと思っておりました(笑)。 

三つ目の悟りの対する分析、さすがだと思いました(素直な感想です)。納得です。 
仰るように「人格」は不適切で、「個性をもった自我」というべきですね。 
実は、最近、この三つ目の悟りを経験した人に会ったのです(笑)。 
確かに、「自我」や「個性」がかなりしっかりと残っておられました(ここが非常に不思議でした)。 
それとやっぱり、この三つ目の悟りは、悟り経験後に、悟りを忘れたり、争いごとを起こしたりもするようです。この点も納得です。 

また何かありましたら、書き込ませていただきます。 
ありがとうございました。

 

[読者T]いつも読ませていただいています。 
そして、毎回、あなたの文章を読むたび、胸の真ん中に渦を巻くような、 
川底の小石の上を清流が流れて行くような、 
心地よい感覚が起きます。 
それは、公園のベンチで木漏れ日を感じているときにも、 
人波を歩きながら神様に感謝しているときにも、 
そっとやってくる「何か」と同じものなのです。 

本当に、ありがとうございます。 
感謝!

 

[花岡]コメントありがとうございます。 

その感覚は、わたしの文章がどうのではなく、TANさんの霊性が高いからそうなのでしょう。 

同じ文章を読んでも、ある人には何の感覚も起こらず、またある人は反論もするでしょう。 
あなたのステージがそうであるから、そのようにいられるのです。 

胸の真ん中・・・いつも忘れずにいてください。 

これからもよろしくお願いします。 

 

[読者M]すみません。 
お時間許すようならでいいのですが 
質問してもよろしいでしょうか。 
「自我から離れる」ということについて 
詳しくお願いできますか? 
これも自我だとはわかってるんですが…

 

[花岡]自我を離れると言うのは、自我から自由になると言う事です。 


「わたし」という思い、つまり主体は自我のコア、マインドの事です。 
それがある以上、自我は消える事はありません。 
かつて仏教は、自我の滅却(解脱)により悟ろうとしていました。 
それは仏陀が説く究極の真理を意味しているようでいながら、全く逆の事なのです。 

自我は消せません。 
それは、世界を見て世界を認識している「わたし」がある以上、無理なのです。 

そうではなく、自我はあってもいいのです。 
それと縁を切り、無関係で在りなさい、という事です。 
起こる事を全て許し、反応せずに全くそれが異世界のごとく、ただ在りなさいという事です。 

自我を消そうとする事も、真我を目指す事も、それは全く自我の中で起こる自我の作用です。 

この世もあの世も、共に捨て去る事が必要です。 
それが、自我を離れるという事です。 

捨て去ったからといって、どちらも無くなったわけではなく、ただ自由(解放)になっただけです。 

自我の中で、誰かがあなたに呼びかけても、自我の「わたし」が応えればいいのです。 
それは真実あなたではありません。 

真実あなたは自由です。 

自我に何の責任も持つ必要はありません。 

自我も真我も概念でしかありません。 

自由な在るでいるなら、自我を離れて、しかも、そこが静寂なる真我です。 
完全に自由になるなら、言葉を超えます。 

超えてみてください。 
恐れを持つ必要はありません。 

いつだって戻って来れます。 

 

[読者MM]今、ここに生きよう、と思っていても 
どうしても、そうできない時(時期)があるように思います。 
それは今ここに生きようとしている(行為)が自我であるからですよね。 
今起きている全ての出来事は「私」にとって気付きのきっかけでしかないことはわかります。今とても苦しい胸の内にいます。 
今感じている苦しみをどうにかしたいと思っています。ですがそれでは今の自分を否定していることになり、苦しいです。堂々巡りです。 
今の私にできることは 
何なのでしょうか。よろしければアドバイスを下さい。

 

[花岡]今感じている苦しみを・・・受け入れるのです。 
その苦しみを、許してあげるのです。 

受け入れられない事に対して、我々は苦しむのです。 

起こる事に対して受け入れられないから苦しむ。 
また、苦しむ事自体、拒否したいから、それにも苦しむ。 

思考の連鎖。 

自我に引き込む強烈な魔法です。 

 

拒否しても、起こる事は起こるのです。 

起こる事を受け入れて、許してあげるのです。 

苦しみは、自我の「わたし」の認識です。 
「わたし」が、それは苦しみだと意味づけているのです。 

同じ事が、他の人にとっては苦しみでも何でもありません。 

ならば、それは本当は苦しみの対象ではないのかも知れないのです。 

「わたし」が意味づけているだけなのです。 

ならば、受け入れても大丈夫です。 
許してあげればいいのです。 

「今」や「ここ」も、こだわる必要はありません。 
こだわるから、自我なのです。 

そのような色眼鏡、価値観を作り出すマインドは、あなたではありません。 

あなたは全く自由な、ただ在るの、その在るである事に気づいてください。 

このシフトの境界は、探るのが難しいかも知れません。 
しかし、越える事は出来るのです。 

その堂々巡りは、実はチャンスなのです。 

堂々巡りなどいちいち構ってないで、堂々巡りの出口を見つけるのです。 

「わたし」は偽者。 
本者は自由。 

探ってください。 

あなたは、よく出来た知恵の輪を、今はずそうとしているのです。 
はずれますよ。 

「わたし」を離れてみれば、はずれるでしょう。 

そこに思考はありません。 
ただ在るだけです。 

ただ在るというのは思考という手段でわかるのではなく、ただ認識してしまうわかり方です。 

頭で考えないで、胸で感じてください。 

 

 [読者MYK]初めて書き込みします。 
花岡さんのように真理を語る方が増えてきたように感じる一方で、自分はまだまだ遠いなぁと思っている者です。 
もう30年以上も真理を追いかけて、書物などで知識を増やした割りには実体験が皆無。諦めて日常生活に埋没したり、また真理に惹かれてみたり、瞑想どころか迷走している次第です。 
花岡さんはじめ、目覚めたみなさんが一様におっしゃるのは「いま」「ここ」「感じる」という言葉。 
シンプルで意味は理解できるのですが、どうやったら感じられるのか、感じられていることを知ることができるのか、結局「考えて」「今の状態を分析して」しまう自我があって、真理は遠く思えてしまいます。 
なかなか難しいものですね。 
何故か最近は焦るようなざわざわした感じがあるのですが、マイペースで進んで行きたいと思います。進んでるのか退行してるのかもわからないんですけどね。(涙) 
これからもブログ更新楽しみに拝見します。 
何かきっかけがいただけないかなぁ、という下心満載で見に来ます。

 

[花岡]MYKさん、はじめまして。 

知りたいという衝動が捨て捨て去れないのなら、それは知ることになるでしょう。 
それは呼びかけられているのでしょうから。 

ただ、それがわかればどうなるか?などと言う、何か目的意識など持っていてはだめでしょう。 
真っ直ぐな、純粋な憧れがあって、ただそれと共に在れればいいと言う誠があるなら、そうなります。 

それ以外の願望を、それに託してはいけません。 

そうであれば、焦らなくても導かれるでしょう。 

みんな、順次そうなって行くのです。 

今後とも、よろしくお願いします。 

 

[読者MYK]花岡さん、わざわざレスありがとうございます。 
目的意識があるのかどうか、自分では既に分からないのですが、「知りたい」衝動は確かにあって、ずっと続いています。 
いつか導かれることを信じて、純粋な憧れを向けていくよう心がけたいと思います。

 

[読者KT]花岡さんこんばんは。 
以前にコメントさせていただいたことのあるKTと申します。 

やっと、ここに来ることができました。 
私にも、やっと、訪れました。 

パズルの最後の最後の、どうしても手に入れることができなかった1ピースがはまりました。 

なんという自由。 

なんという解放感。 

そしてこの人生、人間という滑稽さに途方もない慈しみを感じてやみません。 


もう探求は終焉。 

ただただ愛おしい。 

醜さの醜さに 

美しさの美しさに 

きたなさのきたなさに 

なんにも変える必要などない、そのありのまま、あるがまま、そのままさの美しさに愛を感じずにはいられません。 

こんなにもシンプルなことに何故気がつかなかったのか。 
難しいもの複雑なものなどどこにもなかった。 

その簡素さゆえに逆にみえなかった。 


何も間違ってなかった。 

いままで、なにも間違っていなかった。 

よかった、何度も疑って、何度も恐怖し苦しんで、そらでも神んを思い続けてそこだけをみていた。 


ちゃんと、ちゃんとこんな僕にも訪れた。 
どうしても、どうしても、欲しかった、知りたかった、わかりたかったそれが完璧な導きのもと、訪れた。 


その道筋のひとつであった花岡さんの体験、文章、ブログ、人生そのものに感謝します。 


あぁ自由だ… 

 

[花岡]おかえりなさい。 

あなたの喜びは、わたしの喜びです。 

あなたの至福は、わたしの至福です。 

あなたの愛は、わたしの愛です。 

「ここ」は、おなじ「ここ」です。 

全て、あるがままで、完璧です。 

これが本当の自由です。 

ご苦労様でしたね。 

 

*この[読者KT]は、下記の記事のコメント欄で花岡さんに質問している。

(ブログ管理人より)

 

 

shikoutoshi.hatenablog.jp

*後に、この読者KTはブログを開設していたことがわかり、追跡できるところまで追跡してみた(現在は閉鎖されているようだが)。そして、わかったことは、これから2年数カ月後には、結婚し、ハートもほぼ閉じ、悟りに興味を失っていたことだ。

コメント欄で悟ったと言ったり、花岡さんの答えに感激していた人々も、追跡してみると、その後、その自己申告の悟りに疑いを持ち始めたり、感激をコロッと忘れ、普通の生活に戻り、悟り以外のことに関心を移している人が何人もいることがわかった。(2020-02-19記)

年の初めの挨拶 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎KTさんから頂いた記事です。

 

年の初めの挨拶

 

新年となりました。

と言っても、いつだって「今」ではありますが、区切りを置いて物語を眺め、間違いなど無い事を検証してみるのもいいかも知れません。

これは、まあひとつの恒例行事ですから歌にも歌われます。

「年の初めの例(ためし)とて、終わりなき世のめでたさを」

世界に終わりなど無く、それはめでたい。
始まりなど無いから、終わりなどあるはずが無い。
当たり前の事だから、当たり前である事がめでたいのです。

みなさまにおかれましては、この「今」から先の「今」が、幸い多い「今」でありますよう、祈願申し上げます。

昨年は、読者さまからの喜ばしいコメントをたくさん頂きました。
返信もおろそかになり、申し訳なく思います。

みなさまのコメントが、また他の方の気づきの手助けにもなって行きます。
ですから、わたしのものぐさを容赦頂き、これからも宜しくお願い致します。

わたしも未だに変化、成長の過程の中です。
未完成であり、未完成である事が、完成への道を歩める事の喜び、楽しさを思い起こさせてもくれます。

まだまだ、学びシロがある。
まだまだ、楽しめる。
そう思えるのです。

神から離れ日常に浸かっていても、いつだってここに帰れる。
ここに帰れる事の喜びを、毎日、何度でも味わえる。

だから日常が怖くない。
日常にあっても自由でいられる。

難儀な事は、たくさんあるけれど、それらから自由でいられて、難儀を楽しめる。

神がわかる事、真実の自己がわかる事は、そのように生き方が楽になるのです。

凝りをほぐすように、それが何でもない、単純な事だったと、きっとみなさんにもわかるはずです。
今年が、そういう年でありますように。

毎日、日常に遊びに出て、毎日、ここに帰ってくる。

ただいま、神さま。
ただいま、自分。

そのように、帰ってくればいい。

帰ってきさえすれば、安らぎがそこにある。
新たな生命力が与えられる。

そうであるなら、恐れうろたえる事など、何もない。

それがわかる年になりますように。
そのように祈願致します。

分け与える力など持たない、このわたしに出来るたったひとつの事が、この祈願です。

今年もどうぞよろしくお願い致します。

 

2014-01-01

 

どん底にこだわらないで【再掲】 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この記事は、以前掲載した下記の記事の再掲になる。以前の記事は、私が手書きでノートに写したものが元になっており、私流の行替えになっている。

shikoutoshi.hatenablog.jp

今回の記事は、KTさんから頂いたオリジナルのコピー。

 

どん底にこだわらないで

 

わたしの体験を聞いた人は、みなさん、同じような事を言う。

そういう人生のどん底を経験しないと自我の明け渡しは不可能なのですか?
自分には耐えられる自信がない。
わたしはそんな苦しみは味わう事無く悟りたい。
瞑想で悟ると聞きました。どうして出来ないんですか?

だからね。

どん底を経験することが悟りの入り口じゃないんだよ。
自我を、絶対的に放擲する、これが出来ればいいだけだ。
どん底経験が無くても、いいんだよ。

だったら、瞑想で徐々にでもやれるんじゃないですか?

瞑想は手放せる自分を形成して行くには、必要な行だけど、
瞑想をしている自分っていう自我はそこにあるでしょう?
それで得られるのは、境地だから、覚めたら元にもどるんだよ。
もちろん境地を否定しているわけじゃない。

要は、準備ができたかどうかだけ。
準備ができて、シフトできるかどうかだけ。
瞑想は、その準備のための大切な役目をしている。
でも、瞑想しなくても準備ができていればいいんだよ。
要するに、瞑想が直接の気づきに繋がっている訳じゃないって事。

だから、ある禅師は簾を巻き上げてる時に、
ある農夫は、畑を手入れしている時に、
あるサラリーマンは瞑想経験がなくても、ふっと思考を止めた時、
突然きちゃうわけ。

でも、自我を捨て去ろうとするそれも、自我がするわけでしょう?

そう。だから自我を完全に消して、無いものとすることはできないんだよ。
日常を生きているからにはね。
そういうわけで、明け渡すと言ってるんだよ。
じゃあ何に明け渡すかっていう事になるでしょう?

自我も何も、ありとあらゆるものを出現させている源泉にね。
お返しするの。

もう充分自我を頑張ってみました。けれど、もうお手上げです。
お返ししますから、あとは好きなように処分してください。
どうなろうと何も文句言いません。
どうなっても受け入れます。
絶対的に源泉である、それを信頼しきっておまかせします。
この手に負えない自我も、このわたしという思いも共に、引き受けてください。

で、源泉にそのままシフトするわけ。
その時、ああ、もう自我に責任持たなくていいんだって解放されるんだよ。
解放された喜びが胸に証として現れる。
それがハートのチャクラが開くって表現しているそれ。
まるで、自我という岩戸を、アマテラスが開いてくれるように。
開いちゃったらもう、溢れ出る溢れ出る。 愛がね。 無条件の愛。

だけど、源泉におまかせするには、源泉というものが在るんだって気付かないといけないわけでしょう?
そのために役に立っていたのが、瞑想だと思うわけ。

自我を明け渡しきってそこに入ると、
それは既に「境地とは違う」ことに気づく。
なぜって、自我は既に明け渡してあるから、
それはもう、本来自分が在るべき座なんだよね。
そこに留まる事ができるんだよ。

それでも、日常は普通に生きられる。
観察する者は、そこに留まりながら、自我を観察しながら日常を生きられる。
つまり、観察する者が源泉の側にあるか、自我の側にあるか、わかっていられる。
生きられても、生きられなくても、どうでもよくなってるから、恐怖もない。

それよりも何よりも、溢れ出る愛の故の至福に、
この条件のいらない愛、駆け引きも無く、見返りも求めない愛の故に、
大いなる至福に満たされる。
その至福の故に、相手を許せるし、あらゆる命を慈しむ。
また、愛に対して、感謝という愛で返せる。
この味わい、このすばらしさ。

わたしが言いたいのはただ「これ」の事だ。

そうなると、もう悟りだろうがどうでもよくなる。
だから、わたしは悟ったなどと、一言も言ってないし、
結局悟りってなに?わかりません・・・ってしか言えない。

でも、片手を神に触れながら、片手で日常を生きられる。

もう、何もいらない。

今生ではそうならない人でも、いつかは、
そうなってしまうんだよ。
結局、だれでも。

過程は、みんな一様ではないけれど、
って言うより、起こることは誰の起こることも既に決まっている。
結局、意識はそこに向かって昇華する。
惨めな運命など、無い。 無いんだよ。

そうなれば、今生が最終の章だ。

 

2012-03-09