わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】なぜ記事が更新されないのかの理由

ご心配おかけして申し訳ございません。
中には死亡説までございました。
元気にしておりますので、ご安心いただきたく存じます。

さて、どのように真っ直ぐ言葉を発しても多くの場合、受けては変化球として捉えようとするものです。
なぜ受け手の側では曲がってしまうのでしょう。
受け手の側にある価値観で目盛られた尺度で測るからではないでしょうか。

その尺度とはつまり、「自分の都合」と言う事です。
そのようなものから人には概念というものが発生します。

人は起こる事、現れる事の一切に自分の都合を適用して判断しているのではないでしょうか。
例えば、地球の地殻が揺れ動けば家が倒壊し、津波が襲う。
それを人は災害と呼び、絶望の中で神さえ呪うかも知れない。
しかし、地球にとっては自己保全の為の歪の吸収であり、それを起こさないのであれば更に大きな最悪が地球に及んで来るでしょう。

だからと言って、そのような見方、読み方、聞き方が悪い訳でもありません。
地球が地球の立場でそうするように、人々も人々の立場でそうであるだけです。

そうであるから、わたしの言う事が多くの人に真っ直ぐに通らないと言うのもおかしな事ではありません。
わたしが直球を投げているつもりでも、受け手には変化球に見えるというのは、よくある事のようです。

例えば、「人の問題はその人の問題であり、あなたの問題ではないのであるから関わるに及ばない」と、わたしは言います。

真っ直ぐ受けて頂ければ、これは人の問題とは、その人がどうしても体験しなければならない、その人の為に与えられた問題なのであるから、真摯に向き合ってそこから学んで行かなければならない、その人自身に必要な事なのだと言う事を言っているに過ぎません。

ところが、多くの人は「人は人、自分は自分という事か?冷たい突き放した見解だ。」と捉えるかも知れません。

そして、そのように捉えたとしても悪くはありません。

また、例えば「高額納税者が悟りを伝授する異様な風景」と言えば、「高額納税者が悟りを語って何が悪い」とお叱りを受けたりします。
気分を害された方、ごめんなさいね。

悪い訳ではありません。何も間違ってなどいません。
商売で大成するというのは、そのように与えられた体験であり、どうしても体験してしまいます。
また、彼の言っている事もそれは全く見事であり、その通りでしょうし、彼の言葉通りにするならば、同じように大成するかも知れません。
彼が「悟った」と言うのは、全く問題ないし、仮に悟っていなくても問題ありません。
あるいは、彼の教義で実際に悟れるかも知れませんから否定もしているのではありません。

わたしに異様に見えるのは、それを手に入れようと群がる人々の、真に目指してるのは「悟りなのでしょうか」と言う事です。
同じように、宗教に悟りを求める人々も、わたしにはそのように異様に映ります。

実にシンプルに、しかも見事に説かれたスートラ、バイブル、コーラン、ギータ。
しかしながら、それを直球的に読み取る人はとても少ないように思われます。
そこに自分なりの都合を加味するから、諍いが起こるのではないでしょうか。
それら聖なる経典は、宗教とは無縁のものではないでしょうか。
それらは全く真理の継承を託された万人の為の書なのではないでしょうか。

人は人に悟りを与えられません。
悟りは、自分だけの問題です。
なぜなら、悟りは、その字の如く、自分が何者であるかを自分の内に知る事ですから。

もちろん私も悟りなど、人に与えられません。
人を導けるのは、その人のみです。

このブログも人を導く為に置いている訳ではありません。
言わば、過程を記した備忘録のようなものです。
わたしには教える事は出来ないし、与える事もできません。

読み手が勝手に訪問し、勝手に読んで帰る。
それだけのテキストファイルです。
ただ、聞かれるなら、問われるなら、意義あるものであれば答える事もあります。
だからと言ってそれで悟れる訳ではありません。

それだけに、出来るなら、なるべく真意を汲んで読んでもらいたく思っているわけです。
がしかし、お寄せいただくコメントを拝見しますと(全てのコメントが公開されている訳ではありませんが)「意味がわかってもらえてないなあ」と思われる場合が多く、かえって誤解を与えているのではないだろうか、という危惧が生まれてしまいました。

そうであるなら、むしろ人にとっての悟りの可能性の前に、やっかいな壁となって立ちはだかってしまいます。
それは全く、わたしの本意ではありません。

そういう訳で、やがてはここを閉鎖して何事も無かった事にしてしまおうと思っているのです。

その順序として、記事の掲載を停止して、訪問者が次第に減り、1日に100人になり、10人になり、ほとんど誰も来なくなる日が訪れたら静かに閉じようと、待っていたのです。
コメントに返事をしなくなったのも、そういう理由です。

しかしながら、なかなかに訪問者が衰退していくのは日数がかかるようです。

悟りなどというものがある訳ではありません。
言葉で言えば、それは夢想です。

しかし、全ては与えられるから顕れているのです。
そうでないのなら、なぜ「わたし」があり、「世界」があるのでしょう。

純粋なる意識に「わたし」が顕され、その意識に「世界」が与えられたのです。

「わたし」という自我意識は、「世界」と結び付けて物語を運ぶための仮の主人公でしかありません。

真なる我は、その純粋意識を含めた唯一、「在る」これであり、「世界」は自我意識「わたし」という思考によって思考されているに過ぎないのです。
正に、自らの中に世界は与えられ、顕されているのです。
それは善いものでも、悪いものでもなく、ただ顕されます。

唯一在るこれ。
これこそ、真我です。
絶対的観照者です。

人に救いなど必要ではく、救われなければならない事が起こっている訳でもありません。
それはただ、与えられた世界、顕された世界に、自分の概念、価値観、尺度で見るからそう捉えているだけなのです。
しかもその目盛は真実自分のそれではなく、自分以外の誰かの価値観、尺度である場合がほとんどでしょう。
受け継がれた刷り込みなのでしょう。

この全てを明らかに観る者に経ち帰る日が、人々一斉に訪れる事はありませんが、また、そうなる必要もありませんが、仮の自己(自我)が体験を積んでいけば、順次そうなるでしょう。

結局わたしには、そのお手伝いは出来ないようですし、そうするつもりも最初からありません。
どうであろうが、そうなる人はそう成るし、とりあえず別のルーチンを生きる人はそう生きていきます。
そう、その人の問題はその人が絶対的に体験して味わうべきその人の問題なのですから。

あと、何か月でここをクローズできるか不明ですが、今はまだ訪れて下さる方がいらっしゃいますので、もうしばらくこのままここに置かせて頂きます。

読まれる方、気分を悪くされる方もいらっしゃると思いますが、よしなに、ご容赦ください。

 

 

2015-04-04

 

shikoutoshi.hatenablog.jp

 

 

*これが、花岡さんの最後の記事。

これで、「時系列 花岡修平」シリーズを終了します。

(ブログ管理人より)

【時系列 花岡修平】気づきは人を怠惰にさせるか?

Nさんからの質問です。


> 花岡さんのブログを拝見し、気づきや目覚めについての記述に感銘を受け、コメントさせていただきました。
21歳のとき、最初に目覚めを経験してからかれこれ2年ほどたつのですが、今になって思うのは「私」は居なくて、悟りを得る人も居なくて、悟りもないということです。そして、世界は一つで、いかなる分離もあり得ないという言葉の真意も理解できました。
いきなりぶしつけに質問するのは失礼かもしれませんが許してください。私も花岡さんもマハラジもパパジも同じことですからね。きっと答えていただけると思い相談させていただきます。

最近になってますますハートが開いてきて、ほとんど一日中「私は在る」にとどまるようになってきました。それに伴い、人間関係も少なくなり、以前は遊んでばかり居たのですが今はただ在るだけなのです。欲が全くと言っていいほどなくなってしまいました。必死に努力して何かを得ようとすることもなくなってしまいました。
しかし私はこの上なく幸せなのです。ハートに愛(?)が押し寄せてくるような感覚です。(もっとも私など居ないのですが)
しかしながら、今は全くもって前に進む力を失ってしまったように感じています。欲もないので推進力がなくなったように感じるのです。
物質の世界との折り合いがつかず、少し混乱してしまっています。
このまま「在る」にとどまればよいのでしょうか。
そうすれば状況や行動は、ただ起こるのでしょうか。
実のところ「このまま何もしないのなら、世捨て人になってしまうぞ、以前のように努力をしろ」とエゴが主張しています。(もちろんやるべきことはきちんとこなしているつもりですが、他の残った部分は空っぽになっているのです。)
ただ個人という信念を捨てて起こるがままに任せておけばよいのでしょうか。



そのように、推進力の欠落のような状態になります。
戦う必要が無くなるからです。
意味づけに無意味を見出してしまうからです。

しかも、何とも言えない「甘い幸せ」感があるから、尚更です。

でも、それは変容初期の「戸惑い」を感覚しているようなものではないでしょうか。

以前のように様々な事象に捉われている状態であろうが、在るにとどまる状態であろうが、世界を認識している以上、起こる事は起こって行きます。
我々はその、起こる事の内容的違いを、以前と以後との比較で感覚するかも知れません。
しかし、それは捉われと、意味づけと、解釈が違ってしまったからそう感覚するのであって、起こる事そのそれは違ってなどいないのです。

違ってないのに、捉われず、決めつけず、真っ直ぐな解釈をし、真っ直ぐな解釈に従っていない社会を許す事ができるから、ハートは歪をつくらない。
そうであるから幸せを感受できるのではないかとも思えるのです。

エゴの立場になれば、「なんだ、このやる気の無さは・・・」と思えるかも知れません。
まだ、不慣れなのですね。
生きているのですから、内と外、両方に気づいている必要があります。

外の気づきが希薄になればなるほど、なまくらになったのか?と自我は言ってきます。
生を与えられているうちは、外にも気づいていなければなりません。

どうであれ、我々は与えられる立場でしかありません。
与えられた以上、みこころのままに、それを受け入れるしかありません。

今までは与えられた事に対して、「そうではいけない」「こうであるのが理想だ」と主張し、戦ってきました。
その勘違いがモチベーションの動力源ともなっていたのです。
国会中継など見ていますと、以前の我々の姿がありありと見て取れるのです。

受け入れられないから戦っていたのです。

今、そのような何もかもが夢である事を知り、世界も「わたし」も、実体ではない事を理解しました。
そうであっても、我々は有り続けている以上、これらの何もかもが終わらない以上、体験はしなければいけません。

だれにとっても、起こる事は必要であるから与えられるのです。
しかも、その人に対して調度良く、予定された分だけ与えられるのです。
その結果、心が病むとしても、それはその人の予定された成就を歪めてはいません。

そして、まだ終わってはいません。

つまり、まだまだ、体験し、学び知らなければなりません。

あなたの何かが答えを欲している以上、知って行かなければなりません。

そういう意味では、まだ始まったばかりなのだと言えるのです。

知りたい事の答えを、実体ではない世界に問うても、また、花岡に質問しても、満足の行く答えは無いでしょう。
なぜなら、「あなたという存在は、『あなたそのもの』で出来ている」からです。

つまり、答えを持っているのは、あなたでしかありません。

ハートが開いて、味わった事の無い至福を感覚するのは、なんと素晴らしい事でしょう。
しかし、その素晴らしさはその至福だけではないのです。

あなたが潜在して有する答えの泉の扉が開かれた事でもあるのです。
答えは、自らの中にあります。
そしてそれを、あなたは湧現させる事ができるのです。
他の誰に、それを暴かせる事ができるでしょう。
あなたしかありません。

どのような世界であれ、どのような次元であれ、存在するものは全て、存在していないのです。
それが存在しているのです。
あなたが、つまりあなたの実体が関与した、あなたの創造がそこに在るのです。

この事を理解できるでしょうか。

あなたの認識している何もかもの世界には、あなたとあなたの実体、それしか無いのです。
別の言葉でいえば、神とあなたの関係、それだけが全てを構成している理由です。

この重大な暴きが、あなたに起こるでしょうか。

たぶん、わたしはこの先の事を掘り下げて言う事を許されてはいないでしょう。

しかしあなたは、あなたとあなたの実体との関係を理解して行かなければならないと思うのです。
強烈な不可分の関係にある事を、このような物凄い真実の愛の関係にある事を、知って行くのだろうと思うのです。

原因に向かって、あなたは与えられて行きます。
その事の為に、あなたはあなたであるのです。

ですから、「なまくらか!」と自我は責めるでしょうが、与えられますからご心配なく。
そうしているうちに、なるように運ばれます。

とにかく、真実は凄いのです。
とにかく、真実は見事なのです。
とにかく、神は褒め称える言葉など無い程に、どうしようもなく偉大なのです。

無いものが在り、しかも完全に整合され、しかも解説しようが無い。

結局わたしに言える事は、「なにも心配ない」、これしかないのです。

たぶん、何を言っているのか解からないかとは思いますが、これはしょうがない事です。
解かるようには言えないのですから。

この事については、ほんとうに申し訳なく思っております。
わたしには教えてあげる事はできません。

内在された偉大なる智慧
それが花岡より優れた答えを導き出してくれるでしょう。

だから、やがて起こって行く起こるべき事を体験し、知って行けばいいのではないでしょうか。

与えられるものを与えられ、その全てに感謝し、神との素晴らしい関係を味わいながら生かされ終わるまで生かされて行けば、なるように、調度良く、なってしまうのではないでしょうか。

やる事は、そのうち現れてきます。

何も心配などいりません。

何も間違ってなどいないのですから。

 

2014-06-13

 

 

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【時系列 花岡修平】お答えします「苦痛のこと」

Mさんからの質問です。

Mさん、お久しぶりです。
畑仕事はまだ終わってませんが、気になるのでお答えします。
ですが、この答えで何かを得られるとかは、期待しないでくださいね。


> ごめんなさい、もう一ついいでしょうか?
お久しぶりです。私も、花岡さんにお尋ねしたいことがあります。

苦痛について。
真実私には苦痛なんてないというのはなんとなく漠然とわかっていますが、私には(「わたし」という身体の者には)苦痛は耐え難いと思うことがあります。特にいつまでこれが続くんだろうという先が見えないタイプの苦痛や、手早くやらなきゃならないなど時間制限を伴う苦痛が苦手です。

無理をして我慢しますが、耐えればいいことがあるとか耐えなきゃいけないんだというような自我に訴える手段はあまり得意ではありません。
いつも自我に同一化して振り回されてるんですが、そういう美徳で自我を刺激することは違和感しかなく真実と思えないし好きじゃないんです。
ただ無理をして我慢しても、わたしは嫌なので引きずられてそのうち限界が来たりします。苦痛を味わうとか受け入れるとかも聞きますが結局苦しくて嫌になります。よくわかりません。嫌だからと逃げるわけにはいかないときもあります。
苦痛に対して、どうしたらいいのか教えて下さい。




苦痛には身体的痛みと精神的な痛みがありますが、どちらについての苦痛なのでしょう。
身体的苦痛は、痛み止めを処方して、ある程度どうにかなるでしょうから、恐らく精神的な苦痛についてなのでしょうね。

苦痛など無いのだ、と無理やり思いこもうとする必要などございません。
思いこむ事は理解していないという事です。
そうであるなら、苦痛などないと思う事すら、苦痛の要因です。

苦痛を感じているのだから、苦痛はあるのだ、でいいのです。
それで、まず、苦痛の否定から解放されます。

なんであれ、気持ちに無理な負荷をかけるから、苦痛となるのです。
そうであるから、苦痛は苦痛として味わって当然です。
苦痛は誰だって嫌なものです。
ただ、なぜ苦痛と感じているのかを、見破り知っている必要はあります。

我々は無意識のうちに、自分の価値観によって理想を想うのかも知れません。
その基準に著しくズレを感じるとき、嫌悪や逃避を知らずに思い浮かべたりするのかも知れません。
自我は、自我にさえ気づかぬうちにそれをやってのけます。

真実を受け入れる事無しに、価値基準を疑う事無く、その基準とズレていると思うから苦痛が現れるのでしょう。

つまり、真実が苦痛を生み出すのではなく、価値基準、判断基準が苦痛の原因となっているかも知れないという事です。

相談者が、何に対して苦痛なのか、具体的に言及していないのでわかりませんが、落ち着いて洞察してみるとき、その真実に苦痛を感じているのか、あるいは真実を否定している事で苦痛を作り出しているのか、わかるかも知れません。

現れ来るのはいつだって真実からです。
それに、自己の意味づけをする事で、現実として作り出し、見ているのです。

苦痛などないのだ、という苦痛の否定に逃げる事無しに、それが真実苦痛であるのかを見てみるのはどうでしょう。
利己的であるとき、自分の都合によって、苦痛であるとしてしまう事があります。
そういう時は、自分以外の者にその理由を押し付けているかも知れません。
誰かのせいにして、自分の落ち度を認めないのかも知れません。

あるいは、苦痛に思うその事が、ほんとうはとても大切な経験しておくべき事である事もあります。
苦痛を感じながらも、なんとかこなして、結果得難い事を得る事もあるからです。

それでも、真実苦痛である場合もあります。
どう考えても、苦痛以外の隠れた意味など無い事が起こる事もあります。

そのような起こる事によって、我々は動かされて行きます。

その苦痛から逃れようとする事は、その事を利用して、導かれる事もあるかも知れないという事です。
自我の我々には、真実の図り事は、まさに計り知れません。

そのようにして運ばれて行く事が、実は、予定された整合された順路であるやも知れないのです。

それだから逃避そのものを悪い事だと意味づけても正解ではありません。

前の記事で、夢、希望、その理想を追い求め、そればっかり見ているのであれば、今への否定であり逃避であると書きましたが、そうする必要があるのであれば、今の生き方を変えて、あるいは捨てていいのではないでしょうか。
前の記事での相談者は外国に暮すのが夢と言われました。
しかし、外国に暮す必要があるのだと思っているのであれば、夢ではなく意思なのです。
それは逃避でも今の否定でもなく、今の続きなのです。
はっきりとした意思、それは夢とは言いません。
夢としたままであるなら、いつまでも今を逃げているだけです。
わたしはそうする必要がある、そうなる必要がある、そのような明確な意思が、夢だった事を今に展開させて夢ではなく現実とさせてしまうのです。

それと同じように、苦痛からの逃避そのものを逃避としないために、この苦痛から離れる必要がある事を認められるのであれば、はっきりとした意思として持てばいいのです。

その時、最早逃避の不実さは消滅し、意味を持つ行動へと動き出すのです。

我々はいつだって、動かされて行くように、事象が現れてくるのです。
そして、それが動く時、それは動くようになっていた事が成就されたのです。

苦痛さえ楽しく味わって生きていける、そんな人は聖者です。

聖者でもない我々は、苦痛から離れる事でより楽しい生き方をしていいのです。

また、その苦痛から逃れずそこに留まろうが、そこから離れて楽な生き方をして行こうが、そうなって行くどれもこれもが、意味によって予定された整合された行動であって、そうなる時はそうなってしまう、という原則が頑としてそこにあるのです。

そうしたいと思っていても、そうはならず、そうはしたくないと思っていても、そうなってしまう。

我々は、間違いなく運ばれていて、それを自分で選択意思決定していると思っている不思議な自分(自我)を生きているのです。
それは、自我の中では自分の選択意思決定である事は間違いないのですが、真実から見たら、それは運ばれているのです。

つまり、誰もかれもが、そのように見守られて、つまり、愛されて、大事に生かされている存在なのです。

あなたの神は、そのようにあなたをいつも離れてはいません。

その大きな愛を、我々は噛みしめ、味わえたらいいですね。

そう深刻にならずに、広い心で自分の外も内も見渡してみるのがいいようです。

 

 2014-05-10

 

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