わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

花岡修平 「真我が目覚める時」

数年前、「真我が目覚める時」というブログに出会った。

自らの覚醒と悟りの体験を綴ったブログで、作者の名は花岡修平。

 

一読して本物だとわかる稀有なオーラを放ち、真摯に覚醒を求める

人たちのコメントで溢れていた。

 

しかし、今年の夏に訪問したら、すでにブログは閉鎖されていた。

 

私は時々訪問しては、彼の言葉から放射されるこの世を超えた光の

ようなものを浴びることを楽しみにしていたので、この閉鎖はかなり

の衝撃だった。

 

しかし、花岡さんがブログを閉鎖したのは必然だったようにも思える。

語るべきことはすべて語り尽くしたのだ、と私は感じたのだ。

 

本来、花岡さんはブログを開設すべきではなかった、とも思う。

なぜなら、あのような体験を言語化し公表することには、

ある危険性が伴うからだ。

 

ブッタは真理を悟った後、ひとり黙しているべきか、それとも人々に説くべきか

迷った。話しても理解されないだろうという思いがあったからだ。

 

言語というものは伝えると同時に伝えることを妨げる性質をもっている。

真理の誤解はその無理解よりもずっと危険だ。

 

しかし、言葉というものは不思議なもので、ひとたび発せられると

作者から分離し、それ自身の存在と生命を獲得するようになる。

 

昔の日本人は「言霊」と言ったが、ルドルフシュタイナーが理解するところの

ヘーゲルはそれを「概念」と言った。

 

花岡修平の言葉たちは今やほとんどネット上から消え去っているが、

私はいくつか気に入った記事を保存しておいた。

 

その言葉たちをこれから何回かに分けアップしていこう。

 

花岡さんは許してくれると思う。

彼の言葉たちはすでに彼と分離し、独自の生き物になってしまっているからだ。

 

さらに、彼に「所有権」なるものはない。なぜなら、彼には所有の主体である

「我=エゴ」がないからだ。

 

すべては神のなさることであり、神の手に委ねられている。

花岡さんはいつもそう言っていた。