わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

真我・ゴム手袋の比喩 花岡修平 「真我が目覚める時」

真我・ゴム手袋の比喩

 

自我に現れる世界を我々はリアルな世界と思っています。

ところが考えてみると、誰もがいずれ臨終を迎え、この身体を失い、

このリアルな現実さえ手放してしまいます。

 

そうであるなら、これは確かな真実であると言えるでしょうか?

真実が変化したり、無くなってしまったりするはずはないというのが、

わたしの立場です。

 

変化せず、常に在って、それは始まりも無く、終わることも無い、

その真実が内側にあります。

 

現象世界の万象は、そこからあなたの自我意識に立ち現れます。

それは見せられている世界です。

そこにいるあなたは、真実のあなたではなく、

真実のあなたが体験してみたいことを、自我のあなたという分身をとおして

体験している世界です。

 

やがて体験すべきすべてを体験し、学ぶべきすべてを学び終える時が来れば、

内なる真我が恩寵という形で気づかせてくれるでしょう。

 

その時は、拒否しようとしても、そうなってしまいます。

突然、それが起こります。

真我に帰る準備が整えば、そうなってしまいます。

 

今はあらゆることに恐怖し、悩み、快楽を求め、執着しているかも知れま

せんが、そのようなものを一掃させてくれる出来事がいずれ誰にも起こります。

 

胸の内側に、なにか五感では捉えられない感覚的な存在を見つけてください。

それは内と外をつなぐ神聖な通路です。

それを感覚してみてください。

 

例えば、あなたがキッチンで食器を洗っているとします。

手荒れ防止のためにゴム手袋をはめています。

今は、そのゴム手袋を自分だと思わせる自我の言いなりですが、

ゴム手袋から手を抜き取ると、ゴム手袋はめくれて、表と裏が逆さまになります。

 

表面のゴム手袋がこの現実世界なら、裏返ったその裏面が真実の世界です。

今までゴム手袋の表面を自分と思っていたのが、めくってみると本当の世界、

コラーゲンたっぷりの美しい(?)自分の手が現れるのです。

 

そのように真実はすべてまったく逆さまです。

 

うるさいマインドのノイズを止め、静寂に入ったら、

胸のセンター、その神聖な通路を感覚できる人はそこに意識を集中して、

感覚できない人はイメージでもいいです。意識を集中して、そこに愛を

注ぎ込んでください。

なにも望まず、期待せず、ただ愛を注ぎ込んでください。

条件のいらない、何をも許せる愛を注ぎ込んでください。

 

そのような瞑想をしてください。

 

くつろぎながら、そこに留まり、愛を注ぐ。

そうすれば、その何倍もの愛でやがてハートが開かれます。

ハートのチャクラが開き、その味わいで酔ってしまいます。

その至福を味わえるだけ味わってください。

 

そこは何でも知っています。

知恵を使いたければ、与えられます。

クリスチャンであれば、驚くほど聖書の心理が見えてきます。

仏教の方も、行間にある文字として現れていない真実が見えてきます。

 

ですが、これは宗教ではありません。

言ったら、自然現象です。

だれもが、そうなっていきます。

さなぎの殻が割れ、オオムラサキが美しい羽を広げるように、

そうなってしまいます。

 

だから悟った人、覚醒した人が羨ましいなんて思わないでください。

自我の暗示に騙されないでください。

 

あなたがそうなるのです。

あなたと、その源泉しか、あなたの世界には関与していません。

中心はあなたです。

源泉があなたです。

ほんとうはそうなんです。