わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

不二一元 花岡修平 「真我が目覚める時」

不二一元

 

昔のテレビというのは、まあ今も基本的同じなのですが、画面に映る映像は唯ひとつの点に過ぎないのを知っているでしょう。

電子ビームが三色の組み合わされたドットに激突し、点のように発光しているだけなのです。

それが左上から順次水平方向に素早く発光し、次の二段目、三段目の水平方向に順番に光って行く。

結果的に画面全体に映像として見るわけです。

 

視覚の残像錯覚を利用した映像です。

 

今は電子ビームではなく、液晶や有機ELなどにX・Yのマトリックスでドットの光の透過や発光を制御し、点の順次発光も一旦メモリーに画面フレームを蓄えてから全ドットを表示させています。

 

ですが、基本的に一点のアクティヴな活動により画面が表示されているのは同じ事です。

 

そのような信号が、キャリア(搬送する電波)に乗ってやって来て、各家庭で受け取るわけです。

 

「自分」と思い為す感覚が人にあり、自分のこの実感は、それは決して他の人の中には見い出せない。

同様に他の人もやはり、「自分」という感覚はその人の中にしかないのだろうと思う。

そうしてこの「自分感覚」こそが「わたし」の主であると思い為しているのでしょう。

 

それが言わば、一台のテレビです。

 

一台のテレビに映し出される映像は、そのテレビにだけ映っているのですが、他のテレビにも同様に映っています。

しかし、同じ映像ではありません。

なぜって、違うテレビに映し出されているのですから。

 

同じ映像を見るためには、同じ一つのテレビを見る必要があります。

 

つまり、映像が展開されるスクリーンが違うのです。

 

この宇宙はあなたの宇宙です。

他の人には、他の人なりの宇宙があります。

 

もしも他の人が有する意識に、自分の持つ「自分意識」が有るのであれば、同じ映像を見るでしょう。

しかし我々は知っています。

自分のもつ「自分意識」と彼等一人一人が持つ「自分意識」は、決して同じではないという事を。

 

そうであるなら、それは同じ映像ではないのです。

 

ひとつの信号がマーヤによって運ばれ、それぞれの「個」それぞれの「自分意識というスクリーン」に現象世界という映像を映し出すのですが、それにより最早同じ映像ではなくなります。

 

似通っているし、同じものだと主張したくなる世界ですが、違うのです。

ただし、影響し合い、反応し合い、同時存在感はあるのです。

同じものではないから、彼の死の世界を自分は実感視できないのです。

それはただ、動かず横たわった彼の身体としてしか捉えられないのです。

 

そこまでが、彼に関して自分に現れた映像なのです。

それを超えて彼の死の世界を実感視するには、あなたは真実彼でなくてはなりません。

つまり、同じ一台のテレビを見ている必要があるのです。

 

そのように、あなたにとっての「わたし」が存在するこの現象世界に於いては、真実言えば「あなたしかいない」のです。

あなたが見ていた彼は、真実彼の世界と反応して、あなたのスクリーンに現れたアバターでしかなく、マーヤが映し出しているあなたの世界にしかいない彼です。

 

それだから、世界の中にあなたが居るのではなく、あなたの中に世界が有るのだと言うのです。

 

「わたし」という意識や「自分」という意識さえ、マーヤによって現れている産み出された「個」という幻でしかありません。

 

しかし、その素のエナジーがあるから、そのように現象が産まれるとも言えます。

そのエナジーがマーヤが運んでいた信号であり、そうであるならその信号を発する根源が無くてはなりません。

 

結局元々、ひとつの存在が在るだけで、彼の意図により、ちからであるマーヤがあらゆるもの(幻)を産み出していると言えるのです。

 

そうであるなら、マーヤでさえマーヤそのものです。

 

深く深く現れを逆行して行くなら、マーヤの愛を超えてその絶対者そのものに辿り着くでしょう。

しかし彼を見た者は誰ひとりいません。

ただ、それである事を知るだけです。

 

全ては彼によって、彼の、み心に従って幻想が現れているだけです。

そうであるから、「わたし」というものの根源はそこに在り、彼と真実のわたしは異なるものではないと言うのです。

 

これは、思考では知られる事はないでしょう。

思考で知られるなら、それはただ知識です。

真実は全く、五感とは異なった知覚によって知られていく感覚であり、「わかる」によって「気づいてしまう」事で知られるのです。

 

そのわかる過程は、まさに一瞬の閃光です。

 

「わたし」というものを保持しているうちは、知る事がありません。

「わたし」「自分」「個」そのようなものから離れて、純粋意識として彼の傍まで行き、彼の愛、彼の恩寵によってしか知らされる事ができません。

 

しかし、それを知ったなら、いつかこのアバターの身体を離れて幻を消し去る時、永遠である彼の中に帰る事が、というより、いつでもそこに居たのだった事がわかるでしょう。

 

相対二元の世界は、見えるけど無い。

蜃気楼の中に「わたし」は暮らしているのです。

 

ただひとつ、「唯一の在る」だけが真実あるのです。

シャンカラチャリアは一体何を見たのでしょうか。

この「わかりかた」とは違うものを見たのでしょうか。

 

わたしの理解とは、わたしは全てであり、全てがわたしですというものです。

それでもわたしは、唯一の彼の、意のままになる道具にすぎません。

彼の一要素なのです。

 

誰もがそうです。

誰ひとり欠けたとしても、彼は成り立つ事はないでしょう。

更に言えばつまり、誰ひとり欠けたとしても、わたしは存在し得ないのです。

全部はそれだから、ひとつなのです。