わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

あるがままに見る (2) 花岡修平 「真我が目覚める時」

あるがままに見る(2)

クリシュナムルティが言う、「あるがまま見なさい」ということ。


「あるがまま」で居ないと、「あるがまま見る」ことはできません。
彼は来訪者と共に座り、緑豊かな周りの景色を見て、木立ちを渡る風、鳥たちのさえずり、清涼な静けさ、それらをただ、あるがまま見る事で、来訪者に波動の共振を促し、
静寂なる本質へと導こうとしたのでしょう。


しかし、それに共振してただ座る人はあまり居なかったようです。
訪れる人は、個人的な問題、家族の不和や、世間との関わりや、自分がいかに不幸であるか、一方的に説明して、ただ座る事によって得られる満ち足りた感覚など気づこうともしなかったようです。


それによる問題解決や、そもそも問題など何も無かった事など知る事も無く、その師との大きな隔たりに怒りを顕にして出ていくという人も居たようです。


はっきり言って、問題を抱えて、それに悩む人は、ほんとうに座るどころでは無いというのも頷けるのですが、それでも、解決の糸口や、あるいは自分を知るためには、クリシュナムルティのような静寂に入る瞑想は実に有効なのです。


そう言われて、それにトライしてみるものの、そもそも「あるがまま」がわかりません。我々は、何かを見て、「あるがまま見ているか?」と疑問を抱く事がありません。見ている対象は、そのまま実体を見ていると思っています。

わたしは見ている。
あの木を見ている。
あの枝を、葉を、葉の葉脈を、朝日に照らされ輝く無数の水滴を、その葉の濡れ具合を、と、しっかり見ていると思いっています。


「あるがまま見る」に、そのような木、枝、葉、葉脈、朝日、水滴、そのような名付けは、必要ありません。

また、綺麗だとか、生き生きしているとか、形容も必要ありません。

それらは、全て、断定していて、断定によって終わっているのです。
終わっているから、次の断定すべき対象に目が移っていきます。
そして、次の対象を見つけると、それに名前を探し、名前の由来とか意味とかを探し、形容し、そしてこれはこういう名前でこういう性質で、こういう作用をして・・・と断定し、その対象を認識し、終わったと見ます。


もっと探し出そうと思えば、いくらでも探し出せます。
緑色はクロロフィルの色で、光合成して二酸化炭素から澱粉を作り、・・・ミトコンドリアが・・・デオキシリボ核酸が、・・・と、記憶の中から知識を引っ張り出します。

そんな事は、人が勝手に断定した事の、ラベルでしかありません。

それだから記憶できるのです。

記憶とは、ただのメモ用紙です。

今見ているそれに記憶を適用するから、常に記憶に居るしかなくなります。

人の諸問題とは、結局記憶に住んでいるための、今に居られない病気です。
もうとっくに終わっている、既に無い過去に暮らしているのです。

「ありのまま見る」とは、瞬間のその新しい、初めて見るそれを、過去を適用しないで、今として受け止めて見る事です。

どうでしょうか?そうすれば、それに名前などありません。
次々と現れる新しい今に、次々と現れる新しい対象を見るなら、名前を付けるまえに
それらは消え去ります。

また、範囲もありません。

空間に続く葉の稜線は、空間と離れていません。

空間に続く身体の表面は、空間と離れていません。

それならば、葉と身体は離れていません。

身体とあの山並みは離れてはいません。

現れるそれらは、範囲を限定するよりも速く過去に消え去ります。


そうそう、名前をつけるのを諦めなさい。
範囲を限定し、分けるのを諦めなさい。
そんな事をしている間に、それらは違う新しい現れになっています。


もうこうなったら、いっぺんに見るのです。

いっぺんに見て、見たらすぐ次の瞬間を、これまたいっぺんに見るのです。

そして、時間も無く、今・今・今・・・を、ただ見るのです。


そうすれば、それは全部です。
全部という「ひとつ」です。


そのとき、どうでしょうか?「わたし」は居ますか?


見ている対象は、まったく「ひとつ」しか無く、見ている者も確かにあるでしょうが、
「わたし」という者がそこに居るでしょうか?


それは、もう、「見ている」が居るだけです。


では、「見ている」はどこに居るでしょうか?


面白いですね。それに気づくのが、瞑想です。

その「見ている」に気づいて、そして、「居る」ところに気づく事。

更に、「居る」所に居続ける事。

そしてそれと、見えている対象が、今、同時に在るという事。

そうすると、なにもかもが、「ひとつ」だけになってしまいます。

その時、知覚、感覚、気づき、それらのものがフルパワーで働くのです。

智慧の大海に臨んでいるのです。


我々は普段、日常で、何かに捉われ見ているのです。
それだから世界が見えません。

木を見て、枝を見て、葉を見て、葉脈を見て、・・・だから森そのものが見えません。

それらは「ひとつ」の中の模様たちです。

そうであるなら、現象も模様たちです。

「見ている」は、どこに居るのでしょう。

真我は、そのように現れを楽しんでいるのです。


内側を、見つけましたか?