わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

「信じるちから」と「わかるちから」  花岡修平 「真我が目覚める時」

*ゆうきさんから送っていただいた花岡さんの記事を掲載します。ゆうきさん、ほんとうにありがとうございました。

 

「信じるちから」と「わかるちから」

 

人は信じるちからを、どうしてこうまで美化するのでしょう。
信じる事の落とし穴、そこにどうして気が付かないのでしょう。


それが頑な(かたくな)な自我の故である事に、どうして気が付かないのでしょう。
間違いであったと気づき、信じていたものを手放してもなお、信じる事だけは捨てようとはしません。


そうして、また新たな信じる何かを、わかってもいないものを、信じてしまう。
人が悟りを与えられないのは、この「信じるちから」を、絶対的条件と思い込んでいるからではないでしょうか。


グルが真理を伝えるとして、誰もそれをわかりはしない。
しかし、わからないのに、信じてしまう。
信じてしまい、知識として記憶に仕舞いこむ。


それが、いかに、残念な結果を産むのかを、どうしてわからないのでしょう。
わかっていないのにも関わらず、「もうわかったからこれはいいや」と、記憶にメモしてそのまま、「もうわかったから」と信じ込む。
わかってなどいないのです。


そうではなく。
信じるのではなく。
絶対的に、わかる事が大切なのです。


そうでなければ、戦い、傷つけ
合う事を、どうして止められるでしょうか。
信じる事は、疑う事をも同時に抱えている事でしょう。


疑いを抱えながら疑いを否定して、つまり判断がつかないのに信じて、結局信じた愛は、憎しみを生み出してしまう事もあります。
わかっていれば、信じるも疑うもなく、事の最初に納得があるから、破局も憎しみ合う事もないでしょう。

人々は、わかるちからを、どこかに置き忘れてきたのでしょうか。
信じる事と、わかる事の、この全く異種の受け取り方を、我々は思い起こさなければなりません。

信じるとは、自我の思考に他なりません。
言葉と思考を用いて、信じるべきか否かを判断し、その判断基準を自己の欲求に置き、包み込み、いかにもわかったと思い込んで記憶に保管するのです。


わかるというのは、深層の向こう側での洞察です。
そこに思考は介在せず、それが直観として、表面に現れ来るのです。
精妙なるインスピレーションです。
Holy force です。
瞑想は、それによって、開花するのです。


頭で瞑想しても、それはもったいない時間を過ごしているだけです。
わかるでしょうか?
わかるちからを活性させなければ、気づきは起こらないのです。


そうであるから、ラマナは「あなたは眉間に集中してどうしようと言うのか」と、あきれて言うのです。
ひたすら眉間に集中しようとする心の、落ち着きのない闘いは、エゴ(思考)によるものです。


あなたの愛は、どこから湧いて出てくるのでしょうか。
あなたの喜びは、どこから湧いて出てくるのでしょうか。
安堵の安らかさは、どこに置かれているのでしょうか。


気づきは、そこから立ち起こってきます。
そこに、わかるちからが、わかる能力が息づいているのです。
そこを、胸に感じてください。
そこは、あなたの神に最も近い場所です。
そこから、全てに意識を届けられるでしょうか。
宇宙の、彼方全ての隅々まで。
あなたが描く宇宙が、そこから広がり、展開されているのを観る事ができるでしょうか。


光は時間の要素と対になって進むから、限定された速度を持っていて、3EXP8m/secという速度で届きます。
宇宙の限界、つまり壁は、あなたに起こってから今もなお、光の速度で広がっています。
そうであるから、光は宇宙の壁には到達しようがないのです。


しかし、意識の届く速度は、時間が関与せず、瞬間に宇宙の果てまで届きます。
あなたの意識が、宇宙全てを描写しているのです。
真実のあなたは、そのように、とてつもなく大きな宇宙を描き出しているだけでなく、それを超えて無辺に大きいのです。


それは全てであり、ひとつであり、神の在り方と、全く同じなのです。
ところが、あなたの自我は、その中のほんの一点、その頭の中に閉じこもっているそれでしかありません。
ニサルガダッタの言うように、「わたし」というのは、この小さな一点でしかないのです。

信じるとは、その一点が信じているに過ぎないのです。
それを解放して、今、この胸のわかるちからに落ち着いて、全てを感受してください。


すぐにここまで「わかる」のは、難儀な事でしょう。
ここまでわかる前に、必要な体験をしなければなりません。
信じる事と、わかる事の、異質性に気づき、身の回りのものからわかっていって欲しいのです。


わかろうとする事が、信じる事の罠を回避します。
振り込め詐欺を回避できるかも知れません。
壺を買って後悔しながら、なんちゃらストーンを買ってまた後悔する事が無くなるかも知れません。
物質はただの「物」である事を、今更ながら思い出すかも知れません。
あなたを陥れようとする意図を見抜けるかも知れません。
わかるちからが、信じてしまう愛とは愛への執着である事を見
抜き、そして真実の愛を知る事になるかも知れません。


ビル・ゲイツが、これほどまでの活躍をし、成功を遂げたのは、わかっている事と、わかって行った事を形にして行ったからではないでしょうか。
体験は、彼の知識を蓄積して行ったのではなく、次々とわかっていった理解が、次の理解に繋がった故ではないでしょうか。
それは、楽しく夢中にさせた作業だったに違いありません。


我々は知識を如何に駆使しても、知識以上の結果に到達する事に、苦しみと疲労を感じてしまいます。
それとは違い、わかる事で更に湧き起るインスピレーションは、楽しさと完成への確信をもたらします。


信じた事は、知識であり、ただのメモです。
わかった事は、メモに記す必要もなく、あなたのあなたそのものの構成要素となるのです。


あるいは、信じるちからは、善い結果も産み出すと、人は言うでしょう。
もちろんそうです。
それは、おかしなものを信じるのではなく、信じてもよい事を信じて行う時は、たとえわかっていなくても善い結果を産み出すでしょう。


利己的でないのであれば、それはそうなります。
利己的でないとき、気づかなくても、勝手にわかるちからが導いてくれる事があります。
利己的であれば、わかるちからも、目を覚ましません。
そうであるから、清らかな者と成る事が大切です。
エゴが欲得を持ち出さないのであれば、行為は清いのです。


あらゆるものが、あなたの中に現れ、展開され、あなたはその持ち主なのです。
あなたが持ち主でも、形を変え、変化して行くそれら物質的なすべては、あなたをエゴを縛り付ける対象です。


何も持たない人に、欲しがらない人に、恩寵は与えられます。
欲得の無い人にしか、真実の幸せは理解できません。
エゴを明け渡し、素っ裸な、清らかな者となって、はじめて神の愛を、恩寵を頂けるのです。


頭で、思考で、信じるのは、言葉を知ってしまった功罪の片割れかも知れません。
ハートで、深層で、言葉も、思考もなく、直観的に、ダイレクトにわかる、わかるちからを取り戻してください。
ハートの奥底に、それがあります。
その神聖な場所と神性なちからを、取り戻してください。
あなたの、内なる、唯一ゆだねられるその、絶対者に頼ってください。


しかし、また、いつものように、こう言う事も言えるのです。
何を信じても、間違いではありません。
何もわからないでも、間違いではありません。
神は全てを愛しています。
みんな、ちょうどよく、運ばれます。
ただわたしは、その途中途中の苦しさを想うから、言っているだけです。
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ここに記載しました何もかもが、特定の宗教、特定の団体、特定の組織、特定の業者、特定の個人を指したものではありません。
誰も批判しておらず、擁護してもおらない事を、ご理解頂きたく、お願い申し上げます。

 

2013-11-27