わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

清らかな者 花岡修平 「真我が目覚める時」

*ゆうきさんが再び花岡さんの記事を送ってくださいました。

2013・12・01という日付が入っています。

ゆうきさん、いつもありがとうございます。

清らかな者

とある罪人が市中を引き回されて行った。
民衆は石を持って、彼に投げつけた。
エスは民衆に向って言われた。
「罪を犯した事の無い者だけ、彼に石を投げなさい」


罪人を助けようとしたのではありません。
民衆に向かって、「あなたの中に彼を見なさい」と言った訳です。
そしてまた、これは。あなたも彼と同じく、石を投げつけられる立場ではないかと、民衆を責めたのでもありません。


人は罪を犯してしまう。
誰だって、そんな事はしたくない。
したくないのに、そのようになってしまう。
罪を犯したくて犯す者などいない。
人はそのような、制御できない葛藤や、矛盾を、不理解の故に抱えてしまう。
ほんとうは誰も傷つけたくはない。
自分も傷つけられたくない。


だけど、どうしてもこの状況を打破したい心の動きが。
押さえ込めない怒りが。
わかってもらえない悔しさが。
好意を拒否される憎しみが。
持たない惨めさが。
死にたくない恐れが。
自分を窮地に追い込める対象に、破滅と消滅を願ってしまう。


罪を犯さない人間が、いるでしょうか。
誰でもその要素を内在しているのです。
たとえ産まれてすぐの赤ちゃんでさえ、いつか小さな罪を犯す可能性を持っているのです。それが、人が生まれてくるひとつの要因でもあるのです。


清らかな人とならなければ、恩寵を頂けない。
いつもわたしが言う言葉です。
この清らかというのは、過去に一切の罪を犯した事が無いという意味ではありません。
また、その可能性を持っていないという
意味でもありません。


心が汚れた、身体が穢れた、ろくでもない人間だ、暴力的な人間だ、騙す人、盗む人、何かに依存せずにはおれない人、あざける人、自慢する人、嫉妬、知られたくない癖、そのような人では無いという事ではありません。

それは、どうしても人の要素としてあるのです。
その要素を発動させる事をしない人を清らかな人と言っているのです。
あるいは、発動させる必要などないのだと気づいた人を言っているのです。

罪の要素を持っていようが、生まれてすぐの赤ちゃんが清らかでないはずはありません。
つまり、人は元々清らかでありながら、罪を犯す要素を持っているのです。
赤ちゃんは何も知らないのです。


それでも、育ちいく段階で、いつか最初の小さな罪を犯すかもしれません。
何がそうさせるのでしょう。
何も知らない赤ちゃんが、何もしらないまま育つなら、どうして罪を犯せましょう。
育って行く過程で赤ちゃんは、彼のエゴは何を学んで行くでしょう。
エゴがエゴを永遠に確立しようとする最もエゴにとって諦められない欲求です。
言葉で言えば、「自己保存」という事です。
人々が関わり合う世界の常識とか、法律とか、マナーとか、あるいは道徳でさえ
(これこれの故にこれこれをしてはいけません的な)自己保存が根本にありはしないでしょうか。

そのようなものはすべて発案した人の、「わたし」のその思考が関わっているのです。
エゴのコアとも言える「自己保存」」「わたしを消滅させたくない」という意識が、そのような合理的(抑制力)に見えて、(罪人が無くならない)不思議な事を想いついたのです。


そうであるから、人は罪を犯しても、刑務所で何年お勤めしたから、あるいは死刑になったから罪を償ったと、思い違いしてしまいます。
それでは償ってなどいません。
加害者が苦痛を受ける事が、償いではありません。
被害者に、完全に許される事が償いです。
そうであっても、たとえ許されなくても清らかな人になれないのではありません。


自己保存を完全に手放すなら、それが清らかな事なのです。
読者の皆さんは、そうであるなら、過去の罪はどうなる?
償いも無く、許される事も無く、罪が消えた訳でもないのに、清らかと言えるのか?
と思うでしょう。


しかし、彼はもう、罪を犯す事が無いのです。
その要素を未だ持ちながらも、それを発動する事がありません。
今、彼は清らかなのです。


罪を犯す事があったろうが無かったろうが、その要素を持ち、発動させる可能性を隠し持っている者と、大きな罪を犯したとして二度と罪を犯す要素を発動する事が無い者であるなら、後者の方が清らかなのです。


「過去」は、記憶でしかありません。
記憶によって被害者は苦しみ続けます。
しかし、その苦しみも、許せないという「自己保存」によるのです。
そして「今」は、記憶ではなく、この今の、唯一存在する「時」です。
在るのは、「今」しか存在していないのです。

「今」清らかである必要があるのです。
「今」自己保存を完全に手放した者であれば、神の恩寵は頂けるのだと、わたしは知っています。それは、「自己に対する、あらゆる現れを受け入れる」と言う事です。

そうであるなら、既に与えられている恩寵さえ、障害なく頂けるのです。

エゴの大王である「自己保存」を手放せないから、「わたし」は、どんな状況でも「わたし」を守ります。


そうであるから、「死ぬくらいなら死んだ方がましだ」みたいに、自己保存によって起こる変な妄想により、彼は自ら行ってしまうのです。
全ての破壊行為、暴力、逃避は、「自己保存」によって誘導されます。


人の罪を知って人を裁こうとするのも、自己保存です。
人を許せないと言う自己保存です。
許せない事を許すというのは、許す事の無い「わたし」を「わたし」が否定する事だからです。


真実の愛が無いのです。
真実の慈悲が無いのです。
真実の愛、真実の慈悲、それは条件を持ち出すことの無いものです。


「罪を犯した事の無い者だけ、彼に石を投げなさい」
愛を思い起こしなさい、慈悲を思い起こしなさい、そのようにイエスは言われたのではないでしょうか。
右頬を打たれたら、左頬も差し出しなさいと言うのも、同じ意味です。
実際に左頬を差し出す必要はないけれど、それは「愛を以て許してあげなさい」と言う意味です。人を裁くのではなく、人を許すのです。


人は、みんな気づきが薄く、心も弱く、罪を犯したくないのに、そうなってしまいます。人は、そのような哀れなものだと知り、許してあげるのです。
自己保存がエゴの王となっているなら、不可能な事です。
その自己保存を手放すのです。


清らかな者となるなら、悲しい哀れな性(さが)の故に人として再び生まれ来る事なく、神の中に愛を持って在り続ける事も可能です。
また、如来として人々の救済のために生まれてくる事も可能です。


わたしがこのように言っても、釈然としないかも知れません。
長文にも関わらず、わからせてあげられる力が無いのです。
それでもかまいません。
少しでも、洞察の足しになれば、いいのです。
わたしに望みはありません。
唯一の望みは、人が幸せで在って欲しい、それだけです。
ほんとうは、幸せなのだと、気づいて欲しいだけです。