わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

瞑想について 花岡修平 「真我が目覚める時」

瞑想について

 

気づき、目覚めは、恩寵によってしか起こり得ないというのが、わたしの立場ですが、
瞑想が全く無駄かといえば、もちろんそんな事はありません。

瞑想が直接的に悟りにつながるのではないけれど、その準備のために有効だと言うわけです。
もしも瞑想で悟れるなら、日本のあちらこちらのお寺さんでは、覚者の大量発生が起こるはずです。

まず、瞑想の目的から誤ってる場合が結構あるのではないかと思います。
瞑想の最終地点は悟りだと思っている人が多いのです。
悟りのために瞑想をしているという事です。

恩寵が現れるためには、前提として完全な自己浄化がまず必要です。

瞑想の目的は、悟りそのものにあるのではなく、自己浄化のためにやるのです。
清らかな者にならなければ、恩寵の光は透ってきません。
世俗の汚れを身にまとっているなら、光は遮断されてしまいます。

その汚れを洗い流すメソッドが瞑想です。
そこに「悟りたい」を持ち出しては、いけないのです。
それとは無関係に、ただ清らかな者になるために、瞑想を行わなければなりません。
純粋な者となって、はじめて恩寵が頂けるのです。

明け渡す、差し出す、というのは、完全に明け渡すから純粋な者になれるわけです。
それだから、恩寵を享受できるのです。

明け渡せないのであれば、あるいは、明け渡す状況にないのであれば、
瞑想というアプローチにより、自己浄化を達成しようとするのも、的を射ているのです。

しかし、自己浄化ができたら、即悟りか?というものでもありません。
それは、待つしかありません。
目覚めは突然です。
いつやって来るかわかりません。
欲しいから来るものでもなく、いらないから来ないでもなく、
それは拒否もできるものでもなく、まったく理由なく起こります。

しかしながら、受け入れる準備、つまり自己浄化は必要かと思うのです。

止観と言われます。
天台智顗(てんだいちぎ)の摩訶止観は仏教界では重要視されるメソッドです。
止と観に分けられます。
簡単に言えば、無思考になるのが、止。
自らの内面を観察するのが観と思えばいいかも知れません。

仏教での瞑想、あるいは、禅定、座禅は、これらのバリエーションで、
その数は50とも、100とも言われます。
古典的なヴェーダンタのものも含めれば、数えきれないくらいの手法があるようです。

近頃では、従来の古めかしい瞑想法は流行らないようですが、
止観の基本姿勢は重要である気がします。

要は、こころを鎮め、自己の内面を見つめ、隠している自己をさらけ出し、解放していく作業です。
怒り、悲しみ、恨み、妬み、そのような素因を自分の中に見つけ、認め、さらけ出し、解放するのです。

よくよく探してみれば、とても醜い自分が潜んでいるかも知れません。
汚れの一片も残さぬように、丁寧に、隅々までほじくり出し、洗い流すのです。
生まれてから現在までの間違った想念、行為、言動、思い込み、断定、それらを知らんふりして、忘れたふりをしていた事を、
ひとつひとつ悔い改めるように洗い流すのです。
それは、涙を伴うかも知れません。
その時の涙は、言ったら洗浄剤です。
悔い改めの涙と共に、洗い流されるのです。

解放できたなら、次には、完全に今に在るように、集中するのです。
この作業は、眼を開けて行うのが普通です。
眼をカッと開く必要はありません。
仏像が半眼で前方下あたりを見ているような、あのようなスタイルです。
見えるもの、ありのまま、瞬間瞬間現れてくるその今を、ただ見るのです。
今、移り変わっていく瞬間を過ぎ去っていくまま過ぎさらせ、
今、次々新しく現れてくる今を見るのです。
完全に、今にいる、それを集中して行うのです。
これは、記憶に引きずり込まれ、記憶に住し続ける事から脱出するのに役立ちます。
これをしょっちゅうやってると、なんていうか、頭がバッキバキに活性化されるかも知れません。
過去に落ち込んで、くよくよしてる人向きかも知れません。

止だけに集中する方法もあるかも知れません。
厳しく思考を止め続ける方法です。
空を感覚し、そこに在り続けるなら、三昧(サーマディ)の境地に入るかも知れません。
静寂です。
静寂にくつろぐ事で、自分がいる場所、ここ(here)を知るのです。

結局、いま・ここ、となるわけです。

初心者は、止へ入るために、呼吸法を行い、心を鎮めるのがいいでしょう。
片方の鼻穴を指で塞ぎ、もう片方の鼻穴から息を吸います。
鼻から息を5秒かけて吸い、そのまま5秒止め、口から5秒かけて吐く。
心の中で、1・2・3・4・5と数えてもかまいません。
20回をワンセットとして、5セットもやれば、リラックスした落ち着いた状態になるでしょう。

慣れてくれば、ただ座っただけで、スーッと入って行けるかも知れません。

気を付けなければならないのは、強迫観念です。
やらなければ・・・の状態にならないよう。
また、やってないからだめなんだ・・・にならないよう
自分で不自由を作り出す事がないよう、縛り付けられないよう気楽にやればいいのです。

気楽にやると言えば、いい加減でいいのか?とか思う人は、思考から離れがたい人かも知れません。
それも観によって、その根を探るのがいでしょう。

このように書いているわたしは、そのような瞑想をやっているのか?といえば、
やっていません。

瞑想も向き不向きがあるのでしょうか。
わたしの場合は、直感を重視してますので、
胸に「これ」が来たら、とにかくそれを味わう・・・それだけです。
「これ」というのは、ハートに感覚する至福です。
「これ」は源泉から放射される愛です。
それだから、「これ」を味わうとき、喜びに満たされるのです。
一度、これを味わったなら、従来の瞑想はもういいや・・・みたいになってしまいました。
とにかく幸せで、感謝が湧いてきます。
神と共に在る事を実感できるのです。

日常で、せわしく動いていて、あるいは何かに気を取られて「これ」から離れていても、
ふっと思い出し、ハートに集中するだけで、すぐ至福が溢れてきます。

かつて、この感覚を味わった事があるという人は、結構な数いるはずです。
しかし、おそらく、これが何であるのかわからずに、三日後に消え、長い人でも、
一週間で消えた事でしょう。

その後、思い出せず、思い出そうにも思い出せないでいるはずです。
そういう人は、このブログのどこかに思い出すためのヒントを探してみてください。
きっと、思い出せると思います。

なにもする事がなく、暇を持て余すような時にでも、どうぞ。

2012.05.16(日付)

 

 

【読者T】花岡さん、みなさんおはようございます。 

Aさん 

愛はハートから溢れて来るものです。 
思考に気付いてる自分を感じるといいと思います。 

これはあくまでも私のやり方ですが、もし思考が浮かんで来て、それに巻き込まれたりしたら、すぐそれに気づき、そのままそれを感じ、(醜い感情、苦しみ、恐れ、心配、疑い、不安など) 
それを感じてる自分を受け入れます。 
何度もやってると、どんどんエゴは小さくなり、感じなくなります。 
途中で、嫌になり、気が狂いそうになっても、投げ出したくなっても、その想いさえ感じるようにします。 
逃げれば、思考を強化してしまうので、抵抗せずにその状態のままで感じるのです。 

過去に戻らない事は、重要な事だと思います。私たちって何か起こると、過去に似たような体験を探しに行ってしまい、同じやり方を無意識にやってしまいますからね。 

気楽に肩の力ぬいて下さいねぇ。 

Mさん 

Mさんのコメントいいですね。 
私も、頷きながら読んでました。 
なかなか気づかないものですもんね。 

瞑想は、目を開けてやってると、ゆらゆら無数の光の粒子が行き交うのが見えるんですけど、見えてるものが、陽炎のように揺らいで見えます。 

みなさんもそうですか?