わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

最初期のエピソード集 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事。これは、花岡さんのブログの最初期の記事になる。私は、「目覚め」が一番最初の記事だと思い込んでいたが、間違っていたようだ。「プロローグ」から始まって、「エピソード」が4つ続くが、「エピソード(4)」が本ブログにすでに掲載されている「目覚め」になる。重複するが、続けて読むべきものと考え、敢えて掲載する。最後の「エピソード(4)であえて言わなかったこと」は、書かれた日付がだいぶ後になるが、密接に関係しているので「エピソード」の一部として掲載する。(これらを読んで、私が今まで持っていた花岡さんのイメージが大きく変わってしまった。情報不足とは恐ろしいものだ。)本来、各エピソードは独立した記事として書かれているが、ここでは読者の便宜を考え、ひとつの記事にまとめた。

 

プロローグ

不思議に思ったことはない?

人ってやつは、いや、命もつもの全てが、
必ず死を免れないのに、
にもかかわらず、生まれてくる。

まるで死ぬために生まれてくるように。

どうせ死ぬのであるなら、生まれる必然がどこにあるだろうか?

そりゃまあ、そこそこ楽しさや、幸福感や、望ましい何かを見つけるだろう。
でも、どうしたって、人生には程度の差はあれ、克服しがたい苦悩がつきまとう。

生まれて、苦楽を味わい、そして死ぬ?
その後はどうなる?
だからと言って、それに何の意味がある?
最後には自分がどうなっちゃうのかさえ、
予測がつかない

考えても誰にも解らないであろうその事の意味が、

ある日、

あっ! ああっ! ああああああああっ!って
わかる日が訪れる。

いや、訪れてしまった。。。。!

その経緯と、そこから解っていった事を、
ここに記しておこうと思った。

もちろん、全く個人的な事で、
全て、わたしの世界で起こった、誰にも関わりのない事。

でもこれを、もしかしたら必要としている誰かがいて、
こっそり覗くかも知れない。

こういう事が起こると、このような素晴らしい至福の味わいを、
誰にでも分け与えたくなる。

だけどそんな事をしてはいけないのは判っている。

なぜって、
これは得た人が誰かに与えるものじゃない。
どうしたって、誰だって自分の源泉からしか得られないものだから。

でも、こっそり覗いて何事もなかったように帰っていくなら、
いいかも知れない。
それは、いいのかも知れない。

2012-02-24

 

エピソード(1)自我が現れた日

どういう訳か、2歳になるまで母親のオッパイから離れられないでいた。

だって、オッパイ飲む?って聞くから はぁ~い♪ ・・・みたいな。
ただの返事代わりだったんだよ。

そしたらね

ある日、いとこのお姉さんが家に来たとき、
見られちゃったわけ。

当然、からかわれたさ。

修平ちゃん。そんなにオッキくなってもオッパイ飲んでるの?
まだ赤ちゃんだったの? おかしいねぇ~って。

その時、

え?! あっ! って、
その時はじめて自分っていう意識が現れた。

自分はいくつ?2歳?
自分の身体に意識を向けてみると、
あっ! もうオッパイ飲んでいていい歳じゃない。

そして、次に現れたのは、
羞恥心と一緒に、虚栄心が!

虚栄心がどんどん膨らんで、
ああ なんとかこの自分をごまかさないと、隠さないと、って
焦ったけど、なんにも思い浮かばなくて、

うちのめされて劣等感に苛まれた。

それまでは、本当に自分っていう意識がなくて、
有るものは有るがままに、
親が手を焼いてくれるまま焼かれて、
転んで痛い時は、ただ泣いて、
見えてる世界を、ただ見ていて、

それが自我が現れた瞬間、
虚栄心という最も厄介なものに支配されてしまった。
それ以来、この厄介者のために、
ありとあらゆる悪行を経験してしまった。

それから現れる惨めさや、怒りや、虚偽、虚飾、恨み、憎しみ、
くだらないプライド、殺意、
多くの人の心を傷つけていながら償う事ををせず、
その度に無かった事として自分をごまかしていた。

でも、悪い思いをいだき、行為をしている時、それが悪ければ悪いほど、
なにか、近くで誰かが、何者かが見ているような怯えを感じていた。
結局、その何者かのおかげで、悪を極めるほどの愚かしさは持てず、
結果オーライのチキンでいられたんだよ。

だってその何者かが言うんだもの。

「それでいいのか?」って

言うっていうか、まなざしを感じてたんだ。

自分はごまかせない。
嘘をついていながら、これは事実だと信じ込む事はできるだろう。
でも、奥底の自分はそれが嘘である事を、見抜いている。

結局、嘘をつき続ける自分と、
それが嘘である事を知っている自分と、
二人連れの人生を歩いて、もうかなり経ってしまった。

そして今、嘘の通用しない奥底の自分に、
真っ向から出会う事になってしまった。

それは、至福と、愛と、許しを与えてくれたんだよ。
もうこれは、いつまでも浸っていたい、安らぎの極み。
そう、
あの時、これが現れたんだ。


2012-02-25

 

エピソード(2)啓示

小さい頃から、
いわゆる、虐められっ子だった。
惨めな思いの蓄積。忌まわしい記憶の数々。

ある日、小学校の帰り道、
待ち伏せしていた虐めっ子に捕まり、突き倒されて取っ組み合いになった。
殴りかかってくる相手の腕を、とっさに払いのけたその時、
思いもかけず指が相手の目を突いた。

その子は痛かったのか、とっさの反撃に面食らったのか、
地面に座り込んだまま、泣きじゃくっていた。
いつも虐められていたはずなのに、その姿を見ながら、
憐みと、贖罪の思いが溢れてきて、
「ごめんね、ごめんね」と繰り返す自分がそこにいた。

いったい自分は何を考えているんだろう。
なんでこんな奴に憐みなんか掛けているんだろう。
自分の思いなのか、自分以外の思いなのか、判らなくなっていた。

周りの誰もが、自分とは何か違う。
あんなくだらない事で、はしゃいで盛り上がっている。
周りと大きな隔たりを感じながら、
自分が地球に舞い降りた宇宙人のような気がしていた。
そういう違和感を、周囲も察知していたんだろう。
虐めの対象とは、そんなところにある。

そのような出来事の連鎖は、成人してからも続き、
様々な苦渋と、少しばかりの良い事も味わって、
その度に自分というこの意識は、なんで自分に現われているんだろう、
なんで他人には、この自分の意識がないんだろう。
なんで自分が自分なんだろう。
そんな、意味不明な疑問に引き込まれていた。

25歳の時、突然、自分の奥の方から湧き出した思いがあった。

「神が在る」

「神が在るから、自分が在る。
自分のその在り方は、神の在り方と全く同じなんだ」

その意味が判ろうが判るまいが、とにかく湧き出したんだよ。
その意味よりも、その不思議さに気を取られていた。

「自分が無いことには、神さえ無い。
神が無いのなら、自分だって無い」

それから、様々な宗教勧誘の渦に巻き込まれていった。
頼みもしないのにだよ?
頼んじゃいない。 だって、嫌いだし。

統一基督教会からはじまって、
キリスト系、日蓮系、ヒンドゥーのお坊さんの行列からギータ経典をもらい、
自らも聖書を読み、創価学会の青年部の会合に引っ張り出され、
ビルの電気配線のために埃だらけの天井裏に上れば、
「わたしをどうか持ち帰ってください」と言わんばかりに、そこにあった物は、
なんと、モルモン経典。

どうしても、そういうものに触れなければならないように、
見えない力に運ばれていたのだと思う。

それでも、啓示の意味は、まだ理解できないままでいたんだ。

 2012-02-26

 

エピソード(3)クンダリーニ

一年前の、ある夜。

一日の締めくくりに、内観してから眠ろうと思い、
ベッドに横たわって、内側に集中していた。

そしたらね。

首の後ろ側に、丸くて黒っぽい、同心円ぽい模様のある、
なんか、得体の知れないものが現れたんだ。

なんだろう?って思って集中して見ていると、

それは、歪(いびつ)な円の重なり合いみたいな、
円と円の間から、ジリジリってスパークする稲妻みたいのが時折走って、
触ると感電しそうなエネルギーに満ちたものだった。

1分ほどそれを見ていると、いきなり!
ククッって2倍ぐらいに広がって、
そしてガンッ!って・・・背中の方にずり落ちたんだよ。
まるでマンホールの蓋がはずれて落ちたような。

へえ~ めずらしいもの見たなあって・・・

そしたらいきなり背骨にカーーーーッ!って。
真っ赤に焼けた鉄筋入れられたみたいに、
強烈な熱さが襲ってきたんだ。

とっさの事で、何が起きたか、どうしたらいいのか。
背骨はどんどん熱さを増して、背中じゅうに広がり、
手も足もガンガン熱くなってきた。

尋常ではない現象に、助けを呼ぼうとしたけれど、
身動きもできなくて・・・

これはやばい!
絶対死ぬ。

普段冗談で、もう死んでもいいかな~なんて言ってたけど、
あろうことか、恐怖が襲ってきて、
内側から頭に戻ろう。瞑想を解いて、自我にしがみつけば解放されるかも知れない。
そう思って、あれやこれやの世間のくだらない事を考えようとしたんだ。

金?エスイーエックス?名誉?権力? いいねぇ~♪ みたいに・・・必死に。

それでもそれは、解放してくれなかった。
5分?10分? かなり長い間それにいたぶられてから、
やっと熱が引いていって。

でも、今度は逆に強烈な寒さがやってきた。
ガチガチに寒くて、震えながら布団かぶってじっと耐えていると、
そのまま眠りに落ちてしまった。

次の日の朝。

ああ、体が言うこと聞かない。
だるくてだるくて、なんにもできない。

とうとうその日は、まる一日、横になっていた。

考えれば、それはクンダリーニ覚醒によく似ていたけど、
物の本によればクンダリーニは一気には昇らなくて、螺旋状に昇っていくってあったのを思い出した。

クンダリーニというのは知っている人は知っているだろうけど、
尾底から脊髄に沿って存在する、スサ・・え・・サラス・・なんだっけ(忘れた・・あは)
まあ、ナンチャラ管ちゅうものがあるらしいのね。
それを通って天頂のチャクラに向かって昇る、覚醒エネルギーで、
それが起こると超能力が発現されるって・・・なんか・・・サイコSFみたいね。

普通は天頂のチャクラから抜けていくって事らしいけど、
自分は天頂のチャクラなんて開いてないし、
内部でそのエネルギーが停滞して燃えたらしいんだ。

これは、クンダリーニの失敗作。

もったいない事したかな?
もう二度と、こいつは活性化しないだろう。

でもあの火花バチバチの黒いマンホールはなんだったんだ?

甲状腺にもチャクラがひとつ存在するらしいけど、それだったのかな?
それを閉じている蓋がはずれた?
まあ、そんなもんはどうでもいい。
クンダリーニだって、期待したわけじゃなくて、余計な出来事だし。

とにかく身体ってやつは神秘に満ちていて、
なにひとつ自分ではわかってはいない。

ところが、その一か月後に、
もっとすごい、究極の出来事が起こるんだよ。

2012-02-27

 

エピソード(4)目覚め

わたしはかつて、浄土真宗は、なんて自分に都合のいい身勝手な考え方をしているんだろうって思っていました。

他力?あなたまかせでいいの?人生は自分で切り開いていくものじゃないのか?って。
ましてや、悪人でも救われる?そんなのありか? みたいな。

でも
それは全く全く正しかった。

一年前、わたしの身に起こったこと。

認知症の母が寝たきりになり、施設に入れたくても空きがなく、空きがあっても重度であるため入所費用も半端なく、
手段がないため仕事を辞め自宅介護にふみきりました。

そんな折かみさんが鬱になり、リストカット
長期の入院を余儀なくされました。 
収入は完全に断たれ、かみさんの医療費も高額で、途方に暮れました。

今まででも経済的な困窮はありましたが、こんなに前途が真っ暗な状態になった事はありませんでした。
行政の支援もお願いしましたが、まず資産を処分してから来なさいと断られました。
処分するにも、なんせ、ど田舎の地所ですので土地も家も買い手などつきません。

困り果てたわたしは、来る日も来る日も思案に明け暮れました。

そして、あきらめたのです。

もう起こる事と戦うのをやめよう。自分はもう死ななければならないなら死のう。
いや、積極的に死を選択するのではなく、そうなるのであれば受け入れよう。
世界が有るなら、それを現している元の、なにか偉大な力が存在するはずだ。
それに自分の全てをまかせよう。生きようと必死になるサバイバルを捨てよう。

そうして、その偉大な力、いわば源泉に、または神に。
わたしはわたしの人生だろうが、身体だろうが、命だろうが、魂だろうが、
ありとあらゆる自分に関わる一切を差し出したのです。

そうするとどうでしょう!なんと。
自分の苦悩から解き放されたような解放感に浸れたのです。

そして、ここに!
この胸の、ここに!
説明のつかない、ふくらみのある何かが現れたのです。

それは今まで味わったことのない幸せ、喜び、条件を必要としない愛と共に現れました。
わたしはその至福の故に喜び、その感謝の故に泣き、
溢れ出るその愛の故に、酔いました。
それは今でも、ここに。この胸のここから溢れてきます。

それが現れてから数日後、生活も、家のローンも、治療費も出してあげよう。返さなくてもいい。
そんな人が出てきたのです。
まさに神が、わたしの人生の主導権を引き受けた瞬間です。

わたしは自分の内側に、絶対的に信頼できる神を得たのです。
それ以来、わたしは内側に、神の側に向いていて、頭のほうに意識を移動するには若干気力を使わなければなりません。

自分の全てを放棄して、内なる神におまかせし、何であれそのみこころを受け入れる。
全くの他力です。

そして、わかったのです。
だれもが本当は神の要素であることを。
それらは何一つ離れてはいない。
全ては一の中にある数限りない一であって、それらは集まっても全部で一であることを。

だれも生まれたものではない。
だれも死ぬものでもない。
世界は、みこころによって意識に立ち現われた映像にすぎないことを。

この至福の世界こそ、法然の言う浄土であることを。
そしてそれは、あの世にあるのでも、この世にあるものでもなく、
ああ、それはほんとうは、全てなんだということを。

しかしながら、ほんとうにこの表現はいいのだろうか?
言葉では言えない。
それは存在しているとしか、これしか言えない。

ただ、他力は、正しかった。
今までほんとうにわかっていなかった。
これは、経験してはじめてわかる事なんだと実感できた。
このことだったんだって、わかったんです。

もう身体を離れるのはいつでもいい。
明日でも、今からでも。

みこころに従います。
みこころが成就されますように。

2012-02-28

 

 

エピソード(4)で、あえて言わなかったこと

真我に気づいてもなお、起こることは起こり、
それはいつでも、学びでいっぱいだ。

常に、新しい気づきに導かれていく。

かつて読んだスッタニパータや、パリニッバーナ・スッタンタ、
プンダリーカ・スートラ、あるいはヴァガバット・ギータ、
ヴェーダやウパニッシャドゥ、
なぜか惹かれて読んではみたものの、超イミフ~~~ (意味不明ってこと)

でも真我に気づいてから、あらためて読んでみると、
すっげぇ~!よくわかる!

金剛般若経っていうのがある。
これは、とても難解で、まるでパズルのようだと思っていた。
こんなものは誰が読んでもわかるわけないよなぁ・・・って思っていた。
言葉だけ読んでいては、まったくわからない。
文章を読んでいては、まったくわからない。

それが、今、よくわかる。
しかも、「うんうん、そうだそうだ、そのとおりだ」って、共感しきり。
思考で考えず、内なる感覚で読む。
なんと宝石のような言葉が並んでいるではないか。

そして、聖書。

あれもこれもで、節操の無いヤツだと思われるかも知れない。
でも、なんであれ、真理真実がそこにあれば、それは尊い
そうでないはずがない。

聖書の中には、ものすごい真理が溢れるばかりに書かれている。
でも、教会関係者から聞く解釈は、なんか違うような・・・みたいな。
で、その事を言うと、あなたは本当は聖書を読んだことなんてないでしょう。
って怒られる。
ま、いいんだけど。
ある団体の方、三か月おきに二人連れで訪問されると困ります。やめてね。

過去記事の、エピソード(4)目覚め、の中で経済支援者のことについて、
チョットだけ書いておいた。

これは、ぜったい多くの人が誤解するだろうって思っていた。
でも、あえてそのままにしておいた。
たいていの人が期待したとおりの、誤解をしてくれたようだ。

ええ?明け渡しっていいながら、金かよぉ・・・。
物質、金銭的な願望があっても悟り? こいつ偽物だね。

ああ、やっぱりねえ・・・って思った。

あえて言わなかったのは、わかるひとは絶対わかるって自信があったから。
準備ができている人には、絶対違和感無くわかるって思ったから。
ここで、各々の準備のステージがわかると思ってたから。

自分に関わる一切を、神に明け渡した。
その時点でもう、なにも願望も執着も無い。

お金? いりません!
命? いりません!
そのような人が、どうして願望など持てようか。

聖書の中の言葉は、真実で語られている部分が多い。

「持たない者は持つようになるであろう」

そう、神がこの愛と、その流れを与えてくれたのです。
本当にいらなかったのに、
与えてくれたんです。
そのように運んでくれたんです。

神のみこころのままに、おまかせしよう。
もしも神がみこころによって与えてくれるなら、なんであれ、それだけを頂こう。
それが、たとえ、更に厳しい苦痛であっても、ただただ受け入れよう。
そういう完全な明け渡しの結果、そうなっただけなんです。

だから、明け渡しに不安や恐怖を感じている人がいたら、
安心してください。
なにも心配いりません。

もしも、その気になったら、
明け渡してください。
なにも財産捨てろって言う事じゃないのですから。
執着、貪り、虚栄(プライド)を、まず明け渡してください。
それだけでも、なんと楽になれることか。
なんと、軽くなれることか。

神は、絶対的に信頼するなら、
必ず救い上げてくれます。
絶対、大丈夫なんです。

2012-03-12

 

 

*【花岡さんのブログ開始の経緯】

以前の記事:

shikoutoshi.hatenablog.jp

の私のコメントで述べたように、花岡さんの最初の「体験の公表」は、阿部敏郎氏のブログのコメント欄でなされている。そのコメントの反響が大きく、それに気をよくして、花岡さんは自身のブログを開始したのではないかと私は推測する。日付を見ても、最初の記事「プロローグ」は、そのコメントの後になっている。

阿部敏郎氏のブログの以下の記事に、花岡さんは「目覚め」をコメントとして書いている:

abetoshiro.ti-da.net

わたしはかつて、浄土真宗はなんて自分に都合のいい身勝手な考え方をしているんだろうって思っていました。
他力?あなたまかせでいいの?人生は自分で切り開いていくものじゃないのか?って。
ましてや、悪人でも救われる?そんなのありか? みたいな。

でも
それは全く全く正しかった。

一年前、わたしの身に起こったこと。
認知症の母が寝たきりになり、施設に入れたくても空きがなく、空きがあっても重度であるため入所費用も半端なく、手段がないため仕事を辞め自宅介護にふみきりました。
そんな折かみさんが鬱になり、リストカット
長期の入院を余儀なくされました。

収入は完全に断たれ、かみさんの医療費も高額で、途方に暮れました。
今まででも経済的な困窮はありましたが、こんなに前途が真っ暗な状態になった事はありませんでした。
行政の支援もお願いしましたが、まず資産を処分してから来なさいと断られました。
処分するにも、なんせ、ど田舎の地所ですので土地も家も買い手などつきません。

困り果てたわたしは、来る日も来る日も思案に明け暮れました。
そして、あきらめたのです。
もう起こる事と戦うのをやめよう。自分はもう死ななければならないなら死のう。
いや、積極的に死を選択するのではなく、そうなるのであれば受け入れよう。
世界が有るなら、それを現している元の、なにか偉大な力が存在するはずだ。
それに自分の全てをまかせよう。生きようと必死になるサバイバルを捨てよう。

そうして、その偉大な力、いわば源泉に、または神に。
わたしはわたしの人生だろうが、身体だろうが、命だろうが、魂だろうが、
ありとあらゆる自分に関わる一切を差し出したのです。

そうするとどうでしょう!なんと。
自分の苦悩から解き放されたような解放感に浸れたのです。
そして、ここに!
この胸の、ここに!
説明のつかない、ふくらみのある何かが現れたのです。

それは今まで味わったことのない幸せ、喜び、条件を必要としない愛と共に現れました。
わたしはその至福の故に喜び、その感謝の故に泣き、
溢れ出るその愛の故に、酔いました。
それは今でも、ここに。この胸のここから溢れてきます。

それが現れてから数日後、生活も、家のローンも、治療費も出してあげよう。返さなくてもいい。
そんな人が出てきたのです。
まさに神が、わたしの人生の主導権を引き受けた瞬間です。

わたしは自分の内側に、絶対的に信頼できる神を得たのです。
それ以来、わたしは内側に、神の側に向いていて、頭のほうに意識を移動するには若干気力を使わなければなりません。

自分の全てを放棄して、内なる神におまかせし、何であれそのみこころを受け入れる。
全くの他力です。
そして、わかったのです。
だれもが本当は神の要素であることを。
それらは何一つ離れてはいない。
全ては一の中にある数限りない一であって、それらは集まっても全部で一であることを。
だれも生まれたものではない。
だれも死ぬものでもない。
世界は、みこころによって意識に立ち現われた映像にすぎないことを。
この至福の世界こそ、法然の言う浄土であることを。
そしてそれは、あの世にあるのでも、この世にあるものでもなく、
ああ、それはほんとうは、全てなんだということを。

しかしながら、ほんとうにこの表現はいいのだろうか?
言葉では言えない。
それは存在しているとしか、これしか言えない。
ただ、他力は、正しかった。
今までほんとうにわかっていなかった。
これは、経験してはじめてわかる事なんだと実感できた。
このことだったんだって、わかったんです。
もう身体を離れるのはいつでもいい。
明日でも、今からでも。
みこころに従います。
Posted by 花岡修平 at 2012年02月16日 23:42

このコメントの後の他の読者の反応が凄いことになっているのは、コメント欄を読めばわかる。

●次に、阿部敏郎氏は、記事でこのコメントをとりあげる:

abetoshiro.ti-da.net

この記事に対する読者の反響が凄まじく、花岡さんのコメントへの絶賛のコメントが溢れている。

●その後、花岡さんは、以下の記事に再びコメントする:

abetoshiro.ti-da.net

 

花岡です。

この度のわたくしの後先考えないコメントによって混乱を呼んでしまった事を、まずお詫び申し上げます。

人によっては、やはり人生に究極のどん底を経験しないと「完全な明け渡し」は不可能なのか?
あるいは、自分も同じような体験をしたいとか、うらやましいとか、もっと努力するとか… 。
かえって自我を奮起させてしまったようです。

そうではないのです。
気づきにつながる過程は、誰も一様ではありません。
わたしの体験をラーニングしようとしても、それは絶対無理な事です。
わたしはわたしの課題をそのまま生きて、結果こうなっただけなのですから。

起こる事は、どうしたって起きてしまう。
起こるはずのない事は、起こりようがないのです。

今、苦悩の中にいる人がいて、今、楽しい人生を生きている人がいて、
でもね
それはみんな、その人にどうしても経験しなければならない課題を生きているんです。
自ら選択し、それによって与えられた課題の生なんです。
言ったら、それでさえ愛によって与えられているんです。

だからだれもが、今、そのままで間違っていません。
そのままで、完璧です。
だれもが許されきっていて、だれもが愛されきっているんです。

我々は苦悩の原因を過去に探します。
そうであるならば、過去の一切が、あらゆる存在が原因に関わってきます。

こう考えてください。
誰もが今すでに、このまま悟っている。だけどそれに気づいていない。
しかし、いつか必ず誰にも気づきが訪れる。
その輝かしい事のために、今、この苦悩を体験している。
この原因は、その輝かしい事そのもののためにあるんだと。
結果がそのまま原因です。
そうでなければ苦悩する意味など、どこにあるのでしょうか?

今、ありのまま、生きていることが、
それだけで、気づきに向かっているんですよ。
だから何も心配いらない。
焦りも、恐怖もいらない。
課題を楽しんで生きてください。
みこころに運ばれてください。
わたしは、母の介護と、かみさんの世話で、しんどさを楽しんでいます。
何もわからない母の胸に掌を当てて、「神はここに在るんだよ」って。
そうすると、穏やかな笑みを返してくれるんです。
神はここに。そしてそれはそのまま、あなたです。
Posted by 花岡修平 at 2012年02月20日 14:13

 このコメントも、花岡さんは自身のブログの記事に後で組み入れている(部分的に書き直してある):

shikoutoshi.hatenablog.jp

●花岡さんの初期の読者の多くは、この経緯を目撃した阿部敏郎氏のブログの読者たちだ。

●この[コメント➡記事化➡エピソード構成]の流れを観察すると、花岡さんは「小説家肌」であることが見て取れる。自分の体験を読み物としてしっかり構成し、読者に提示しようとしているのだ。さらに、各記事を読めばわかるように、「詩人肌」でもある。詩的感性が、花岡さんの場合、「それ」を「わかる」根底にある。

(ブログ管理人より)