わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

質問と答え(トラウマと許し Kさんの場合) 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎これも前記事と同様、「信じるとはつまり、騙されているという事なのです」のコメント欄からピックアップしたものです。読者の質問は青字にしておきました。ハンドルネームは、イニシャルのみにしてあります。

 

トラウマや許しについて質問させて下さい

花岡さんこんにちわ。いつも素晴らしい記事の更新、ありがとうございます。 

記事の内容とは関係のない話で恐縮なのですが、ふと気になったことがあるので、花岡さんのお考えをお聞かせいただければ大変ありがたく存じます。 

私は荒れた家庭で育ち、家を出るまで両親に心身を傷めつけられていました。今でもふとした折にいろいろ思い出して胸が痛くなります。家を出てからもしばらくはたびたび思い出しては苦しくなっていました。今はもうその頃ほどには苦しさを感じなくなり、あまり泣いたりすることもなくなったのですが、それがある程度傷が癒えたり過去を克服できたり両親を許せた結果なのか、それとも単に感じるのが嫌で抑圧してしまっているだけなのかわかりません。 

苦しかった頃はいろいろ心理学の本なども読み、インナーチャイルドなどの考えにも触れていました。そうした心理学のワークでは抑圧せずにむしろ過去の感情を十分に感じきることで解放しようと目論んでいるようでした(私はこわさと面倒さで取り組む気になれませんでした)。 

こうしたセラピー系の「つらかったときのことを思い出しそのときの感情を十分に感じきる」という考えと、いわゆる目覚めた人たちのおっしゃる「過去や未来はない、今にはなにも問題がない、今は完璧だ」という教え(私の理解ができていないので不正確な表現ですが)は矛盾しているようにも感じるのですが、私のような人間にとってそうした「過去の感情を思い出して感じきることでインナーチャイルドを癒す」といったことは有意義なことなのでしょうか?そもそもそういったことは可能なのでしょうか? 

またそうしたいわゆるトラウマのあるような人間は、それをそのままに残して目覚めることができるのでしょうか?トラウマの有無などは覚醒に無関係でそれぞれ取り組むとしたら別に取り組むべき事柄なのか、それとも先になんらかの方法で解消なり克服しておいたほうが目覚めやすいといった因果関係はあるのでしょうか? 

また許しということに関しても、いろいろな人やことを許すことができて、それからはじめて覚醒があるのか、それとも覚醒することができて、それからすべてを許せるのかということも気になります。 

私自身は花岡さんのブログに出会えたことが、おそらくいちばん大きなきっかけとなって、以前よりは「許す」ということに前向きに考えられるようにはなってきました。昔は許すことなんて考えることもできなかった人たちや事柄を、今は許そう、許したいと思っています。でもそう思っても自分が本当にそれで許せているのか疑問ですし、少なくとも心底から許せているとは思えません。それは非常に難しいことだと思います。しかし、それでも、それを為さなければ、その先にしか神を知るということもないのか、それとも、そのままでも神を知ることはできて、むしろそうしてはじめて人を許したり、トラウマからの真の解放ということもあるのか、花岡さんのお考えをお聞かせいただければ誠にありがたく存じます。 

花岡さんもいろいろお忙しいところ、いつもながら考えがまとまっておらず乱文の長文で恐縮ですが、もしご回答いただけるようでしたら何卒よろしくお願い申し上げます。
 
Kより
 
 
Kさん、こんにちは。 

本気で怒らない、本気で悲しまない、本気で嘆かない、そのような出し切らない抑圧が解放を妨げ、我慢した結果が心に堆積物を残すというのは、そのとおりです。 
そのために過去の感情を呼び起こし、最大限それを感じ、反応しきる事で、不可能だった解放に繋げる。 
という事が、実は、できる人とできない人がおられます。 

人は様々です。一様ではありません。 
過去を忘れたように見えて、自分でも気づかずに心のどこかに隠しているそのようなものが、事あるごとに影響しているような人は、それは有効でしょう。 
原因を見つけて、解放する事ができるでしょう。 

一方で、その過去に縛り付けられ、しょっちゅう思い出してしまい、その度に自分にも他者にも嫌悪を抱き、まったく過去から抜け切れないという人には不向きかと思われます。 
そのような人は、その記憶をいつも繰り返しリフレッシュして鮮明さを失わず、かえって二倍にも三倍にも苦しみを増している人です。 

しょっちゅう誰かにウダウダとグチを言い続けている人を見た事があるでしょう。 
それは常に思い出しているのです。 
思い出すから言い続け、言い続ける事で、その記憶をリフレッシュして消す事が無いのです。 
グチを言うのはストレス発散にはならず、かえってストレスを増幅して行く作業なのです。 

そのような人は、過去から抜け出す事がまず、大切なのではないでしょうか。 
過去は記憶であって、もう無いのだという事実を、しっかりと認識しなければならないと思います。 
また、それを体験した自分も、もう過去であり今は居ないのだと完全にわからなければいけないのです。 

今の自分は「今」に在る新しい自分。 
過去に於いて自分を威圧し傷を負わせた相手も、今見る彼らは新しい彼等です。 
終わった彼等と、新しい彼等は別の者である事を認識しなければいけません。 

いつだって新しいあなたは、新しい彼等と初めて出逢います。 
あなたの知っている彼等とは違います。 

こういうトライアルをしてみてください。 
嫌でしょうけど、その新しい彼等に、口に出さなくてもいいですから心で言ってみてください。 
「はじめまして」 
顔を見る度に、今日も明日も、そのように「はじめまして」と唱えてみてください。 

新しいあなたは過去ではないから笑顔です。 
笑顔で言ってみてください。 

でも、無理と思われるなら、やめてください。 

さて、トラウマの解放と目覚めは別物ですから、トラウマが昇華されても目覚めるとは限りません。 
がしかし、それがきっかけで、気づきが起こる事もあると思います。 
目覚めるなら、トラウマの解放、すべてを許す、すべてを愛する、そのような事が同時に起こります。 

許せない状態の自分が、目覚める事はできるのか? 
自分は許せない質の自分だと意味づけるのを、まずやめる事です。 
過去の彼らの行為により、今、目覚める事への出会いがあったのです。 
それなくして、覚醒の道というものがあるのだと知る事ができたでしょうか? 

全ては自分のために導かれ、運ばれている、それを忘れてはいけません。 
たとえ、辛い過去であっても、みんなそれぞれに、役目を果たした結果なのだと、思えませんか? 

小さな気づきが、覚醒への呼び水となって行くのです。 
気づく事に慣れていくって言うのか、気づきへの潤滑性が働き出します。 
許すのが先か、目覚めるのが先か。 
そんな事を思うそれは、お馴染みの思考の罠です。 
そんな事を考えていたら、その事が目覚めの障壁となるかも知れませんよ。 

過去から抜け出し、いつも新しく生まれているのがいいのではないでしょうか。 
 
花岡修平