わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

神酔い 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎ Hさんからいただいた記事です。
 
神酔い
 
今までは。

神に逢いたいと思っていました。

でも今は、神の方から呼びかけてくれます。

かつては次々と現れる試練、その辛さに、やり場のない怒りに、ただ耐えて、普通の人を装っていました。
絶対誰にも、この辛さを打ち明ける事などしませんでした。
ため息の毎日、過換気症候群パニック障害、見える世界が白い霞で塗りつぶされ、モノクロームの映像に見える事もありました。

でも神は溢れる愛と慈悲を以て、わたしを救い上げてくれました。

この自分を、神への生贄として差し出した事によって、神は憐れみをもって救い上げてくれたのです。
その時、確実にわたしは死んで、神の言いなりになる道具として新しく生まれたのです。

日常にあっても、ひとり居る時は必ず、ハートを愛と慈悲で満たしてくれます。
溢れても溢れても、おかまいなしに湧き出してくるのです。

これに酔いしれながら、満ち足りた至福の中で、彼に感謝を捧げる。

そのような、知り得なかった真実の幸せを、今味わい、神と共に生きるという喜びを手に入れたのです。

これ以上の何が、わたしに必要でしょうか。
もはや、必要なものなど何もありません。

悟り?

そのようなものは自動的に、必要な場面で現れてしまいます。
智慧とは、そのようなものです。

人の言葉を見て、ほんとうに目覚めた人かどうかがわかってしまいます。

それだから、かつての聖者達が言っていた事は、ほんとうに真実だったと思い知らされるのです。

仏陀ムハンマドもイエスも、真実を語っています。
ただ受け取る側が、真実を知らないから、手を余しているだけです。

わかってしまえば、その説く真理の見事さに感嘆せずにはおれません。
感謝せずにはおれません。

根本仏教大乗仏教との違いなど、どうでもよくなります。
真実が語られているかどうか、それだけが問題だと気づきます。

日常の中で。
ラジオ、テレビ、本や雑誌、ビデオ媒体、あるいは人との会話の中に、真理の言葉が時折現れる事があります。
そのような時は、何をしていようがハートが敏感に反応してしまいます。
ジワジワと、湧いてくる至福に、眼は涙でいっぱいになり、喜びを感覚し、抑える事ができなければ酔いになってしまいます。

神酔いです。

はぁ~、ふぅ~状態になって、そうなったら味わい尽くすしかなくなります。

このブログに興味を持った人や、精神世界に関するサイトをブックマークしている人、きっと自分の意志で閲覧しているのだと思っているかも知れませんが、そうさせられているのかも知れません。
意志は、既に決まっているストーリーをトレースしているだけかも知れません。

内なる真実の自分が、自我の「わたし」に呼びかけているのかも知れません。

自分を明け渡し、みこころを受け入れる。
日常において、真我に、神に憧れ、近づこうと手を伸ばしている姿勢。
怒りを制御する事。
無償の愛を分け与える生き方。
欲に気づいていて、その執着を解き放すよう努める。
思考を止める時間を持つ。
そのような事が、更に目覚めに近づかせます。

中道とか瞑想とか、難しくてわからないという人も、そうして毎日を暮らすならきっとそうなると思うのです。

神は、なんでもお見通し。
それは、あなたそのものなのですから見ていないはずがないのです。
誰に何が必要かなど、わかっています。
そのように、順次、与えられ、みんな自分が行為していると思い為しながら、行為させられていきます。
その過程で人が作り出す想い、感情、愛、慈悲、それを神は観ているのです。

そして、それらが成熟し、人が完全に神に明け渡すという、尊い献身を観て、神は恩寵を与えてくれるのでしょう。

あなたも目覚めます。

そして、この神酔いを体験するでしょう。

欲も執着も、自分の何もかもを明け渡すなら、そうなるのです。

きっかけが無ければそうは出来ないという人には、そうなる出来事が起こってしまいます。

あなたの物語は、完璧です。
今、どんなに苦悩していようが、迷いの道を歩いていようが、後には間違っていなかったとわかるでしょう。
それは、神とあなたの共同作業の道なのですから。
あなたが選んで神から受け取ったのですから。

明け渡す日は、近づいています。

恐れる事はありません。

明け渡しても、日常がいきなり変化するわけではありません。
ただ、未だかつて知らなかった宝を受け取るだけです。
 
2012-12-10

 

 

【読者TS】はじめまして

初めまして、沖縄に住むTSという者です。 
全部ではないですが、花岡さんのブログ拝読しています。一つ一つの言葉が丁寧で、花岡さんの優しさが伝わるブログだなと、ボキャブラリーのない私は、いつも感心、感動ばかりです。 
神への明け渡し、とても勇気がいりますね! 
守るもの、守るべきものが年を取るたびに多くなると正直、私はどこまで覚悟ができているのか? 
いや、全然できていないのが現実です。 
いつか花岡さんの様に、神の愛を言葉だけでなく 
感覚で感じたいです。いつも見守ってくださる神様に失礼ですね!このポッカリ空いた心の穴を感じながら生きていくのが私が私である為に必要なのだと信じていましたが、その反面、いつかこんな自分でも目覚める時が来るのではないかと期待している自分もしっかり居て、不安定な毎日を送っている状態です。 
ブログの更新楽しみにしています! 
ではまた、お体ご自愛ください。



【読者Y】神酔い

するのが楽しみです。(^ω^) 
いつもありがとうございます。 
これからもさらに歓喜に満ちた 
毎日を過ごされますように☆

 

 

【花岡】ありがとうございます

TSさん、はじめまして。 

コメントありがとうございます。 
これからもよろしくお願いします。 


Yさん、いつもコメントを寄せてくれてありがとうございます。 
お心遣いにも感謝申し上げます。 


Mさん、素敵なコメント頂きました。 
感激しました。 
ありがとうございます。 


余裕が無くて、きちんとお礼も申し上げられなくてごめんなさい。 
みなさん、これからもよろしくお願いします。

 

 

【読者H】 経験してみたいです

こんにちは、Hです。 

先日の大きな気づきが訪れてから 
あまりの衝撃に、暫くはワクワクとした高揚を感じていましたが 
今は落ち着いた日々を過ごしています。 

いつも頻繁に騒いでいた思考と心は驚くほど静になり 
自分の中に静寂があります。 
色々な概念がスコンと抜けた分、空白が出来た感じです。 

ただただ「空」の中で、思考や五感を使い 
見える物や、感じる物に、あれやこれやと勝手に解釈を付け 
苦楽を自作自演していただけだと心に浮かんできました。 
そして、私は自作自演の苦楽を進んで楽しんでいたと言う事がわかりました。 
とてもとても楽しんでいたのです。ある意味一番の娯楽の様でした。 

こんなに巧妙な自作自演ができるなんて凄い能力を授かったもんだと一瞬は思いましたが 
そんな事が分かりだしてから 
静寂の中に、少しの虚しさの様な、ちょっとテンションが下がり気味な 
でも穏やかな、なんとも言えない気持ちになっています。 

神酔いをされている花岡さんが、ちょっと羨ましいです(笑)

【読者A】気づき

Hさん 

「大きな気づき」が訪れた原因として、何か思い当たることはありますか? 
(例えば、「こういう瞑想をした」とか) 

あるいは、ふつうに日常を送っていて、突然そういうふうになってしまったのでしょうか? 

>見える物や、感じる物に、あれやこれやと勝手に解釈を付け 
>苦楽を自作自演していただけだと心に浮かんできました。 

私の状態(苦悩)も 
きっと、Hさんから見れば、そうなんだろうなあ、とは思うのですが、 
実際のところ、自分ではどうにもなりません。 

そういう境地に憧れます。 
(苦しみから解放されるんだろうな~と)

 


【読者H】Aさんへ

Aさん 

大きな気づきが訪れた原因として思い当たるのは 
■この花岡さんのブログを拝見していた事と 
(とにかく花岡さんのブログが気になって仕方がなく、何度も何度も同じ記事を拝見したりしていました)
■花岡さんにコメント欄を通じて個人的にアドバイスを頂いた事 
(2012-10-20の記事:ダグラス・ハーディングのコメント欄です) 
■そして、アドバイスを実行しようと 
無意識に色々と考えない様に気をつけて生活をしていた事です。 
無意識に色々と考えてしまっていた時は、何故考えてしまったのかを観察しました。 
そして善悪や常識と言う固定概念に縛られているから 
固定概念をあまりに重視しすぎていた為に、物事を判断し考えてしまったんだと 
気づき、固定概念を一つ一つ見直し、消して行く事もしていました。 
■それと映画マトリックスを見た事が関係しているのではと思っています。 
マトリックス第一作は特に目覚めへの細かい事が描かれていますよね。 
これは偶然見る事になり、自分で見ようとした訳ではありませんが、関係している様に思えます。 

固定概念は人間(自分)の思考が作り出したもので、本当は無いんです。 
固定概念を一つ消す度に、思考はどんどん減って行き 
自然に、考えない時間が増えて行きました。 

思考と感情も本当の自分ではないんです。 

そして、約2ヶ月程たった12月8日に 
大きな気づきは、お茶を入れようとしている時に訪れました。 
パッといきなり違う視点から自分を見る事が出来た様な感じで 
一瞬でしたが強烈でした。 

もしかしたら花岡さんのおっしゃる「明け渡す」が少しは出来たのかな 
と、今は感じています。 

今は、随分と楽になりましたが、まだ判断してしまっている時があります。 
善悪や常識と言う固定概念は、社会生活をおくる中での協調・調和を保っている 
役割もありますので、それらを忘れて過ごしている訳ではありません。 
以前は固定概念が自分の上にありましたが、大きな気づきが訪れてからは自分の下に 
固定概念がある感じでコントロールができるんです。 

でも本当は一つの真我があるだけで、大きい意味では全てが自作自演。 
他人も自分もないんです。 
Aさんと私は繋がっている仲間です。 
表面的には違う自我(自分・個性)をもっていますが、同じ真我なんです。 
花も木も空も風も。 

今は、そう感じています。

 

 

【読者A】 固定概念

Hさん、ありがとうございます。 

>無意識に色々と考えない様に気をつけて生活をしていた事です。 

さっき、Hさんのご返信を読みながらも、全く別のことを無意識に考えてしまっている自分に気づきました。 
そういえば、他の人の話を聞いているときにも、ついつい「うわの空」で、別のことを考えてしまっていることがあります。 
これに気をつけることがポイントですね。 

>何故考えてしまったのかを観察しました。 

ただ、これは私にはできないような気がします。 
具体的にはどのようなことがありましたか? 
もしよろしければ教えて下さい。 

>善悪や常識と言う固定概念に縛られているから 

「固定概念」というと、具体的にはどのようなものがありますか? 
差し支えない範囲でなるべくたくさん書いていただければ、分かりやすくてありがたいのですが・・・。 
お手数おかけして申し訳ありませんが、よろしくお願いします!

 


【読者H】Aさんへ

Aさんへ 

■何故考えてしまったのかを観察するとは、原因に気づくと言う事です。 

これは思考と感情も本当の自分ではないと分かる前の、主な私の思考の止め方です。 
思考と感情も本当の自分ではないと納得できた今は、それを思い出すだけで 
殆ど思考が止まってくれます。 

例えば 
何かが起こり「○○で嫌だな」と無意識に色々と考えてしまった時 

その場で思考を無理やり止めてしまうと、あとでふとした時に復活してくる事が良くありました。 
そこで、無理やり思考を止めず、なぜ無意識に思考してしまったのかの原因を探しました。 

私の場合 
「○○でなければならない」と言う強い固定概念があるか 
「嫌な過去の記憶を引きずっている」場合が多くありました。 

それらの思いが強ければ強いほど、思考が止まらなくなる傾向が私にはありました。 
どんどん、どんどん思考が走り、しまいには連想ゲームの様になり 
最終的には、最初と全く関係ない事を考えていたりしました。 

しかし、原因に気づけばそこで全てが消えて行きます。 

これは慣れると物凄く早く出来るようになりました。 
原因を考える、と言うより観察する、見るに近い感覚で 
無意識の思考に気づくと同時に、原因にも気づけると言う感じです。 

そして気づけば気づく程、静寂が訪れました。 
もう同じ原因で無意識の思考を繰り返さなくなって行ったからです。 



■私の考える固定概念とは 

常識や道徳から始まり、善悪、優劣、 
最終的には「○○でなければならない」「○○だから○○だ」などと強く固定した考え方全てだと 
私は捕らえています。自分に対しても、他人に対しても、対象は関係ありません。 

例えば 
・礼儀正しくしなければならない 
・常に笑顔でいなければならない 
・泣いてはいけない 
・逃げてはいけない 
・女性だから 
・男性だから 
・年上だから 
・年下だから 
・社会人だから 
・子供だから 
・店員だから 
・客だから 
・夫だから 
・嫁だから 
・親だから 等です