わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

「たましい」 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。最後にコメント欄から読者の反応をピックアップし、添付しました。
 
「たましい」
 
多くの人は、人の身体には魂が宿っていて、死後それは肉体から離れて、何処か知らないけれど遠い世界へ飛んでいく、あるいは旅立っていく、と思っているのではないでしょうか。

そして、輪廻、あるいは転生という形で魂が再生される、と考えてもいるのではないでしょうか。

そう捉えていても、そうでなくてもどうでもいいし、そんな事がわからないでも問題はない。
その理解は人の救いにとって、あんまり意味はありません。

そもそも魂という概念は、長い時代に渡って言い伝えられた根拠の無いものではないでしょうか。

ある研究者は、人の臨終に際して身体の重量を計測したら、わずかばかり減った事を観測したという話もあります。
しかし、そうであってもそれをして魂の抜けた証拠とするのは無理があるのではないでしょうか。

質量を持つものは物質に過ぎませんし、またわたしは単純にそう言っているのではなく、電磁波あるいは光も真空中を伝搬されるという事実から、真空であっても伝搬媒体で満ちている、というより、この次元場の何一つ移動する事無く、次元場構成単位がそれに変化するだけなのに、そのように時間空間の要素を適用して考えるなら、そのように見えるというだけなのではないかと言っているのです。

何もどこにも行かない。
そのように映し現しているだけ。
人の本質として皆が捉えている魂が、離れてどこかに行ってしまうという事はない。

なんかめんどくさい事を言っているのは自分でも納得しています。
こんな事は何の役にも立ちません。
しかし、様々な事を信じ切って、言葉を信じる事に慣れてしまうと、わかるというこのちからに、あるがまま見るという事に、更に遠のいてしまうのではないかと思うのです。

人はそれほどまでに、暗示に容易に従いやすいと言っているのです。

前述の光の伝搬は、波動であり粒である光の単位が場を移動して行くのではなく、場がそれに変化しているから伝搬しているように見えるという事を言っています。

つまり、テレビのドットマトリックスのように、スクリーンはあくまでもスクリーンであるけれど、そのいちいちの画素が赤になり緑になり、あるいは無発光になり、結果的に画像が動いているように見えているのと同じで、この物質世界を映し出す意識下にそれが現れているだけであり、真実は何も動いておらず、それはただ場のいちいちの単位が変化しているだけなのではないかと言っているのです。

これは、500メートル先のコンビニ行くのに、ほんとうはコンビニに行くのではなく、順次コンビニがここに現れ来ているのではないか、と言っているのです。

なぜなら、自分はいつだって、ここに居るからです。

ここと言うのは、単なる "here" ではなく、意識の存在するこの「ここ」であり、それは場所でもなく空間でもなく、「ここ」の事です。

申し訳なく思いますが、こう言うのが限界です。
自分はいつだって「ここ」に在り、身体がどこに行こうが、「ここ」は「ここ」でしかない。

表現される方が「ここ」に現れてくると言う事です。

認識する自分が「ここ」にあり、いつだってそうであるならば、表現はどうであれ、つまり生きていようが死んでようが、自分は「ここ」にあるのです。

ですから、人の共通の疑問。
「亡くなったあの人は、今どこにいるのでしょうか?」
あ、またこれかぁ・・・と思うのですが、このようにしか答えようがありません。

「ここにおられますよ」

魂が抜けて、どっか遠くの世界に行ったのではなく、最初から「ここ」にいたのであって、どこにも行ってはいません。

「ここ」がほんとうの事であって、世界も身体も生きているも死んでいるも、あの人たちも、あの山も川も、空も、それは意識にそう見えているだけで、それはまた他者との意識干渉によって何の間違いも矛盾もなく、偶然も無く、連動して出来事が現れているように見えているだけなのです。

「ここ」がその変化形態を取っているだけで、「ここ」は、ここと何の違いもなく、満ちている世界なのです。

だから、ほんとうは分離などなく、全部なのですよ。
と言っているのです。

「ここ」もここも、命で満ちている、区別しがたい同じひとつなのです。

我々は一本の木を見て、それに命を見る事ができます。(たぶんそうでしょう?)
同じように、それに続く空間が命で満ちているのです。

我々は、ひとつ、ふたつ、と数えるように世界を認識する癖ができているから、この事に気づきません。

しかし、全てがひとつなのです。

どこも「ここ」であり、「ここ」に気づく事は、死を超えるという事です。

以前は、わたしも魂という概念に捉われ、どこに行くのだろう、どうなるのだろう、そういう思いに浸りきっていた事があります。
しかし、なんと複雑で単純な事か、結局は「ここ」しかない事に気づいたのです。

「ここ」は限定された場所であるここ、とは違います。
「ここ」は、全てなのです。

「ここ」には何でもあり、何にもありません。

悟ったと言われるほとんどの方も、魂とおっしゃるようです。
それでもわたしは、魂を見た事も無く、洞察しても捉えられません。

ただ、「ここ」を感知できます。
「ここ」になんでもあるんだなあ・・・なら、これを魂としてもいいのかな、なぜなら自分の在り処だから、それでいいのではないだろうか、と今は思っています。

しかし、「ここ」は何処にも行かず、いつだって「ここ」です。

世界というものを、映し現すのを、続けるか、止めるか、だけの事なのです。

「ここ」に真我(神)が在り、それだからここにも、あそこにも神が在ります。

これは、自我から自由になって、はじめてわかる事です。

常識や宗教や思想や、あらゆる概念も、その元となっているものも一度全て捨てて、ひとつひとつ検証してみると、いかにそういうもので自我がガードされていたかがわかります。

見方が変わります。
あるがまま見るようになります。

発泡スチロールが水に浮くのではなく、水が発砲スチロールの下に沈むのだとわかります。
より質量のあるものが、下に沈むのは当たり前だとわかるのです。

「ここ」をわかるのは、そういう捉え方によるのだと思います。

しかし、こんな事はほんとうはどうでもいい。

現れ来るこの世界を、この奇跡の世界を、しっかりと生きる事のほうが、どれだけ尊い事か。

亡くなったあの人が何処にいるか、などより、自分がこの世界を体験する事の方がよっぽど意味のある事です。
その人を想い偲んで泣いて暮らしていてどうします。

悟る事より、まず、人生を生きて楽しみ、あるいはどんなに苦しいものであっても、終わるその直前に「ああ、楽しかったなあ」と言える学びをして欲しいと思います
 
2014-03-16
 
 

【読者S】

あ~ほんとうに。 
私の魂も愛もずっと変わらずにここにあるだけ 
涙があふれます 
ただ その涙だけを抱きしめていたい!

【読者M】 思考や感情について

花岡さんこんにちは。 
そろそろ雪解けも近くなりましたね。今年の冬は大雪でお疲れ様でした。 
いつもブログの更新を本当にありがとうございます!! 

最近、花岡さんのブログを拝見したり、 
他の方の本を読んだりして、 
自分の「思考」や「感情」を観ているもう一人の自分を 
少しですが、感じられるようになれました。 
その自分には時間も景色も感情もないです。空っぽです。。 

…それで思うのですが、思考や感情は 
どう制御しようと思っても私の中から産まれます。 
その思考や感情はほとんど「過去」や「未来」の事の内容です。 

で、もう一人の空っぽの自分がその思考や感情が出てきたなーって 
見つめます。 
そうすると何故か「今」に焦点が当てられて 
その思考や感情が消えて行きます。。 
不思議なのですが…。 

でも「過去」や「未来」を考える思考や感情は 
私でも抑えられずに湧き出て来るのです。 
これが抑えられたらずっと「今」に生きられて、 
もっとたくさん この地球の移り変わる自然の営みを愛でたり、 
自分の周りの人たちに多くの愛で接することができると 
思うのですが、どうしても 
思考や感情が 自分の意図なしで出て来てしまうのです。。 
しかも この「思考」や「感情」の内容を 
自分の意思で 心地よいものばかりにしようと 
選ぶことが出来ないのが不思議です。 
これが個性というものなのでしょうか? 

質問のようになってしまいました。 
長文を読んで下さりありがとうございました。 

【読者SS】 はじめまして

はじめまして。たまたまこちらのブログに辿り着き、なぜかコメントを書きたくなったので、書こうと思いました。 
今まで私の人生は苦しい事ばかりで、その苦しさを何とかしたいと精神世界や自己啓発を彷徨ってきました。もう人生それだけでした。 
そして、たまたま「誰が構うもんか」というラメッシ・バルセカールさんの本を読んで全てこれで良かったのだ、と思いました。 

なぜなら、この人生のお蔭で「私(エゴ)」はボロボロだからです。 

全ては「実在」の意志であり、私の意思でやった事なんか一つもない。 

例えば掃除をする時、「私」が何かを考えていても、身体は自動的に掃除を終わらせてくれます。料理する時も、アタマが考え事をしていても身体は自動的に料理を作ります。 

だから、こちらのブログで言われている事は、理解できるのです。 

殆ど理解できるのですが…、私には何の体験もありません。至福の経験とか、一体になった経験とか無いのです。 

自分は単なる「器」であり世界が現れるための「空間なのだ」と…確かダグラスさんの実験だと思いますが、わかるんです。 
だけど知識ばっかりわかっても実感と体験が無いんです。 
かといって、瞑想すると寝てしまうし、なんか瞑想には意味がないと思うんです。 

…しかし、…何かわかりませんが、私は何かがしたいと思うんです。 
だけど何がしたいんだかよくわからないんです。 

「悟りたい」と思うんですが、でも悟ったからとて何なんだと思うんです。だって悟りは「私の死」だから不幸もなければ幸せもない。 
悟り…たいと思って頑張ったのに、その終着駅が「私の死」であるなら…。「私」はどうなるのでしょうか。 
ここが「私」のハードルなのでしょうか。 

もう悟りの本は散々読みまくって疲れました。 
だからもう本もブログも読みたくないと思うのに、こうして悟りブログを見つけてしまい、コメントしてしまう。これも神の意志だと思うので、コメントさせて頂きました。長文すみません。
 
◎この読者のコメントに花岡さんは反応し、一つの記事にしている。「恋焦がれているなら逢いに行かないでどうします」(2016-02-05 本ブログに掲載)が、それだ。(ブログ管理人より)
 
 

【読者S】

あ~、SSさん 私も一緒です。 
言葉では上手く表現できませんけど「誰が構うもんか」 
これで すべてのツジツマが合い、 
ようやく本来の自分に落ち着くことができました。 
もう何も怖いものがないという気持ちさえあります。 
こちらのブログも在るがままというキーワードからたどり着き衝撃的でした。 
愛の確信に時々の迷いは生じても、もう見失うことはないでしょう! 
感謝しています。 
学びと共に生きる人生に…。
 
 

【読者W】 面白いですね。

花岡さん、いつも素晴らしい投稿をありがとうございます。 
花岡さんが、ここで言っていることは、Walter Russellが言っていることとほぼ同じで、ちょっと驚きました。 
彼は、人や物は、移動するのではなく、瞬間瞬間に構成されていると言っています。 

ただ、次の部分には、矛盾を感じます。 

>しかし、こんな事はほんとうはどうでもいい。 

>現れ来るこの世界を、この奇跡の世界を、しっかりと生きる事のほうが、どれだけ尊い事か。 

>亡くなったあの人が何処にいるか、などより、自分がこの世界を体験する事の方がよっぽど意味のある事です。 
その人を想い偲んで泣いて暮らしていてどうします。 

>悟る事より、まず、人生を生きて楽しみ、あるいはどんなに苦しいものであっても、終わるその直前に「ああ、楽しかったなあ」と言える学びをして欲しいと思います。 


。。。なぜなら、真我に目覚め、悟ることによって、この今生きている世界を奇跡と実感でき、どんなに苦しかった人生でも、ああ楽しかったと本当に実感できるからです。 

花岡さんご自身、このブログに書かれているような体験をなさらなかったら、このような文章は書けなかったはずです。 
たんに知的にのみそのように生きようと思っても、自我の中で生きている限り、無理です。 

花岡さんご自身が言っているように、 

>これは、自我から自由になって、はじめてわかる事です。 



では、また。
 
◎この読者Wの「矛盾」の指摘には、私も同意する。花岡さんの記事には、時々、このような「矛盾」が見られる。