わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

二値の世界 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。

 

二値の世界 

 

コンピュータの計算基本は、bit、あるいはバイナリーと呼ばれる二進数で行われ、つまり、有るか無いか、ONかOFFか、という二値で考えられる、この現象世界らしい理念です。

この現象世界は二元の世界、相対の世界です。
「わたし」という主体があって、「世界」という客体があるように、全ては二極に分離しています。
(分離しているように見えます)

でも、よくよく考えてみると、極と逆の極だけを捉えて断定しているにすぎません。

S極とN極と言っても、その中間も磁石です。
裏と表と言っても、それは全部で紙です。

そのように、善と悪、あるいは天国と地獄、天使と悪魔、

そのような二極の比較から、人を断定してしまいます。

そのような価値基準を、知らないうちに、頼みもしないのに植えつけられました。

ただあるがまま見るのであれば、ただある在り方が有るだけで、
それは善とか悪とか、断定しラベリングできるものではない事に気づきます。

仏陀は中道にありなさいと説きました。

中道というのは、極と極との中点という意味ではありません。
カピラバーストで王子としての何不自由ない生活に於いても、
出家して苦行にうちこみ、必死に悟ろうとしても、
それはどちらも極であり、偏りであることを、チュダリア・チュダータ(スジャータ姫)の歌によって気づきました。

この現象世界で、ただ生活して与えられる経験していくその中にこそ学びがあるのだと、やっと気づいたのです。
苦行を捨て、チュダリアの差し出す乳粥を味わう彼を見て、生ぐさだと非難する人もいたでしょう。
彼は、「肉食が生ぐさなのではない。貪り(むさぼり)が生ぐさなのだ」と言っています。

なんであれ、こうだああだと断定するのは、偏りです。
もしも、一方が悪であるならば、他方も悪に違いありません。
S極が磁石であるとするなら、N極も磁石であるに違いありません。

完全な悪人だと思われる人でも、カンダダのように仏心は持ち合わせているのでしょう。
完全な善人だとされる人でも、どこかに醜悪なものを隠しているかも知れません。
それでいいのです。
だれもが、極と極との間にあって、・・・ そうであっていいのです。

だれもが、その学びを経験してお互いの配役をしながら、お互いの気づきを助け合っているだけです。
極に偏り、比較する事によって、あの人を悪人と断定します。

人をジャッジする、その事がすでに、偏りです。

ですから、どうか、

だれをも、許してあげてください。

あなたが許さないから、あなたにとってあの人は、悪人なのです。
あなたが許さないから、あなたにとってあの人は嫌いな人なのです。

天国も地獄も、今この世界を捉えている偏りによって、この世界に展開されている、この世界の事です。
天使も、悪魔も、学びのためにそう思わせる神の召使です。

起こる事が起こっているだけです。
起こる事に決まっている事が、起こっているだけです。

あなたが許す時、そこに真実の愛が目覚めるのです。
愛にだけ、それができるのです。
そのような、条件などいらない、理由などない愛こそが、神そのものであり、あなたの本性です。

極に拘り比較するから苦悩に陥ります。
なんで自分だけ、という被害者の自分に陥ります。
それだから人を責めてしまう加害者の自分に落ちります。

自分を被害者にも、加害者にもしないでください。

何度でも言います。
いまそのままで、そのあるがままで、誰もが悟りに導かれています。
神はそれほどに、あなたが大好きでしょうがないのです。

なぜって、神とあなたは、いつだって離れてはいません。
いつだって共にあります。
あなたが欠けたら、神さえ存在できません。
神が無いことには、あなたも無いのです。

本当は二つの極など無いのです。
みんな、本当は全部であってひとつです。

あなたのあるがままを、楽しんでください。
 
2012-03-24