境界性人格障害を持つ読者の質問と答え:パーソナル障害と、自我と、悟り 花岡修平 「真我が目覚める時」
◎Hさんからいただいた記事です。コメント欄の読者とのやりとりも付け加えておきました。なお、タイトルの前半部分は、内容に即して私が付けたものです。
パーソナル障害と、自我と、悟り
ご質問を頂きましたので、お答えというより、見解を申し上げます
【質問者K】
私は自分の自我というものに全く自信がなく、というか明らかにそれが未成熟なことは知っているので、自分に都合よく「悟りということと自我がどうあるかということは関係がない」くらいに考えていたのですが、これはとんでもない間違いということでよいですか?
まずは自我が人生の様々な浮き沈みを経験して味わい尽くし、歪みが正され、完成されないかぎり、悟りや覚醒もまた起こらないということでしょうか?
またこの自我ということと、いわゆる人格ということとはだいたい同じものと考えてもよいのでしょうか?さきほど私が自分の自我は未熟であると言ったのは、自分が境界性人格障害だからです。
こういった人格障害の人間というのは、やはり自我に未熟だったり歪みがあるのではないかと思う(少なくとも自分の場合には歪みまくりで人間関係がどうにもうまくいきません)のですが、そうした場合そのままでは悟れないということでしょうか?まずは自我の歪みを正すために必要なプロセスとして、人格障害を克服しないことには源泉に目覚めるということもできないのでしょうか?
実はちょうど今も、あまりにうまくいかない人間関係(あらゆる人間関係が致命的に決裂・破綻してしまう)に嫌気が差し、自分はもう変わらないようだとあきらめてしまい、逃げるように自分の唯一人間関係が存在した場所から全部終わらせてきてしまったのですが、この記事を拝読していて、「いろんな自我のあちこちを、完全に補正し、埋め尽くして完全球体の自我にするために、人と人との関わりの中で、人と社会の関わりの中で、人と現象の関わりの中で、人と起こる事の関わりの中で、味わう体験をしている」ということでしたので、自分は本当はもっとそこで苦しみ続けなければいけなかったのに早まったことをしてしまったのだろうか?また別のところで別の人間関係を築いて同じような過ちを繰り返して苦しみながら少しずつ自分の人格的な問題を矯正してからでなければ、悟るということもできないのだろうか、と気になってしまいました。
長くなってしまい、まただいぶ以前の記事へのコメントになってしまい大変恐縮なのですが、ご回答いただけましたら幸いに存じます。
何卒よろしくお願い申しあげます。
自我がどうあれば悟れる・・・という事ではないのです。
あるいは、自我がどうあれば悟れる・・・という事も言えなくもありません。
「わたし」の置き処を、自我の中に埋没させず、自我が立ち現われ来る起源、根本、そちらに移行し留まる事で「ほんとうの事」が、五感を超えた理解が起こる、という事です。
ところが、自我の構成要素の、いくつかの突出した働きにより、「わたし」はそれに捉われ、それに縛り付けられ、内側の、つまり、自我に展開される現象世界を映し出す根源である「ほんとうのわたし」に気づきもしないのです。
自我のなかに「わたし」を置き、その中で繰り広げられる現象がリアルであり、それ以外には無いとするから、「わたし」と「わたし以外」と、それら現象との関わりとに強く反応し、自我構成要素の突出した作用に翻弄されてしまいます。
これは、いくつかの突出した自我作用、つまり「かたより」、「ひずみ」、の対極をバランスよく成長させる事で相互抑制が働いてパーソナリティの不具合は解消されていくかも知れません。
自我の完成とは、二極に分かれた両方がバランスのとれた状態に落ち着く事のようにも思うのです。
しかしながら、自我の成長段階において当初から均等に自我が発達する事は希であって、たいていは片寄ってしまうのです。
幼児などを見れば、嫌な事は徹底して嫌で、好きな事は徹底して執着し、叶えられない願望には地団太踏んで泣き叫び、物は放り投げ、大声を上げてわめき騒ぎます。
我慢ならないのです。あるいは、我慢することで自分を隔離してしまいます。
そして、自分は愛されてない、阻害されてる、孤立している、認めてくれないと主張し、騒ぎ疲れてくると、言いようの無い虚無感、不安感、焦燥感、寂しさに襲われる子もいるでしょう。
我々はたいてい、大人になってもそうなのです。
自我の不完全さを引きずって生きているのです。
もちろんわたしもそうでした。
そうであるうちは、こだわりも、執着も、思い込みも捨てられず、また思い込みである事に気づく事もありません。
「わたし」と自我の、強い癒着によってそこに留まっています。
個性、人格、とは、自我に置かれた「わたし」が、何をどれだけ掴んでいるか、その志向性によって「わたし」そのものが作りあげている質です。
ひとつひとつ学びきる事により、クオリティが向上します。
大きな心、大きな器になって行きます。
自我がバランスよく完全になるなら、幼児であっても内側に「気づき」が現れるかも知れません。
自我の完成によって、自我はただ在るものだと気づき、それはもはや暴れることはありません。
そのとき自我と真我の境界が消え、真実が明るみに出ます。
ところが自我の完成というのは、真我の目覚め以上にやっかいです。
誰もそのような人に出会った事も無いでしょう。
どこに非の打ちどころのない完全な人が居るでしょうか。
およそ希と言える事の中でも、更に希な事でしょう。
自我の完成によって、真我というものがあるのだと知れるなら・・・どうでしょうか?
自我を手放す事によっても真我を見出せるのではないでしょうか。
我々は、「わたし」というものの実体を見出せず、自我という「仮のわたし」を主体だと思い込んでいたのです。
そうであるなら、不完全な自我を抱えたまま、抱えている自我を手放せばいいのです。
自我も何も、あらゆる現れは、内なる真我によって映し出されている事を見抜くのです。
その見抜く事が、「悟り」そのものです。
それに至るために、「ほんとうのわたし」、真我に強く憧れなければいけません
この身体の、この中央に注意を集中し、熱心に、一心に、迷子になった幼子が親を見つけて走り出すように、それを探るのです。
そういしているうちに、身体の中央に、胸に、ジワッっとした何かを感覚するでしょう。
それは、回を重ねるうちに確信となり、言いようの無い満たされた幸福感を味わう事になります。
その幸福感は、「ほんとうのわたし」である真我、根源、唯一、あるいは神と呼ばれる真の実体から波及される愛そのものです。
それさえ知ってしまえばもはや、もはや、もはや、自我やパーソナリティなど、どうでもよくなってしまいます。
他者とのトラブルもなくなってしまいます。
なぜなら!・・・全てを許せるからです。
全てを受け入れられ、認めてあげられる自分がそこにいるのです。
もう断定によって自分をだめな人間だと思う必要もありません。
断定によって彼は嫌な奴だと思う事も、どうだっていいと思えます。
怒りに自分をまかせてしまう事もありません。
これが本当の自分なんだと、歓喜する事でしょう。
確かに自我を完成させ、そこから悟る人もいるでしょう。
しかし、自我が未熟でも、自我を手放す、明け渡す事で、ショートカットで真我に気づく事もできるのです。
恩寵が与えられるのです。
神からの、すばらしい愛です。
この愛に満たされるなら、どのような障害など、ものともしません。
虚無は愛によって隙間なく満たされてしまいます。
寂しさは愛によって喜びに変わるのです。
ほんとうは、最初から愛の中に在った事を知るのです。
だれも、置き去りにされた人などいなかったのです。
あなたという人は、ほんとうにそうなのだから、自信を持っていいのです。
これは事実であり、真実です。
すぐにそうならないでも、いずれそうなります。
ただ、今はその途上にあるだけです。
そうであるから、言うのです。
「なにも間違っていません」
あなたが選択した事は、後になって、実は運ばれていたのだと思い知るのです。
神に愛されている事は、すべてに愛されている事です。
それだから、全てを愛しなさい。
それが、心の治癒力の正体です。
2012-09-21
花岡さん、こんにちは。MMMです。
Kさんのご質問も拝読いたしました。
最近、わたしは、「自我(エゴ)というものは、実は自分を一所懸命に守っているものである」と思うようになりました。
たしかに、自分を一番にしようとか、一番得になることをしようとか、他者との人間関係においては、やっかいであることを起こす原因になることもあります。
しかし、「わたし」が、他のモノから分離した存在で、その「わたし」を守ろうとすると、自我(エゴ)は、善悪・損得あらゆる手段を尽くそうと考えているのだとおもいます。
エゴは、「わたし」を誰よりも愛し、誰からも守ろうとしている存在である、私を生かそうとしている存在であると認識すると、エゴが何をしようとしているのかが少しわかった気がしました。
今は、エゴにも感謝できるような気がしています。
なりふり構わず私を守ろうとするエゴは、少し愛らしい感じです。
おいおいそこまでするなよ と時にはバランスをとるように対話できれば、うまく付き合えるかもしれません。
「明け渡す」というキーワードはなかなか難しいのですが、何度も「もっと大切な話をします」の記事を読み返しています。
まだまだ、目覚めには程遠いけれど・・・。
花岡さんのブログ記事を読んでいるときも、胸のあたりがあたたかくなります。きっと、私の中の真我が、そのとおり!と言っているのでしょう。
ありがとうございました。
「自分は愛されてない、阻害されてる、孤立している、認めてくれないと主張し、騒ぎ疲れてくると、言いようの無い虚無感、不安感、焦燥感、寂しさに襲われる」というのはもうそのままもう子供という年齢ではない私のあり方そのもので、やっぱりこんな自分には悟りだなんだということは無縁なのだろうかと思いましたが、「自我が未熟でも、自我を手放す、明け渡す事で、ショートカットで真我に気づく事もできるのです。恩寵が与えられるのです。神からの、すばらしい愛です」のお言葉を読んでいて本当に感動してしまいました(大げさかもしれませんが親鸞さんの「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を思い出しました)。
こんな私だからこそ、自分の自我の未熟さに何度も苦汁をなめてきた私だからこそ、もしかしたら思い切ってそんな自我を明け渡すこともできるのかもしれない、ととても希望が持てました。本当にありがとうございました。
ただあまりこれまで花岡さんはそうしたアプローチについてお話されたことはなく、「それに至るために、「ほんとうのわたし」、真我に強く憧れなければいけません。この身体の、この中央に注意を集中し、熱心に、一心に、迷子になった幼子が親を見つけて走り出すように、それを探るのです。そういしているうちに、身体の中央に、胸に、ジワッっとした何かを感覚するでしょう。それは、回を重ねるうちに確信となり、言いようの無い満たされた幸福感を味わう事になります」とおっしゃられているので、特に神に祈ったり呼びかけたりする必要はなく、ひたすらこの胸の感覚を探し求め、そしてそれを見つけたらひたすらその幸福感に浸りつづけていればよいのでしょうか?私としたら、もしそれでその幸福感に浸りつづけているうちに、自分の厄介な自我を手放せ、明け渡せ、神(源泉)を知ることができるのならこんなに楽…かどうかはわからないけどこんなにありがたい話はないなあと思うのですが。
正直私の中には花岡さんが「祈りも瞑想も不要(無意味ではないとおっしゃられていたのは過去記事などで拝読させていただきました)、ひたすら胸の感覚を探し求めて、その幸福感に浸ることだけだ」と仰っていただければ、もう他のよけいなことを考えるのはやめてバカの一つ覚えのようにそれだけに専念しようという怠け心があるのですが、実際のところどうなのでしょうか?
繰り返しになりますが、私にとっては昨日のコメントでの質問に、今回更新していただいた記事で願っていた以上にご回答いただけた喜びでいっぱいです。本当に有難うございました。私もいつかいい報告が出来ればいいなあと思っています。今後とも何卒よろしくお願い申しあげます。
ありがとうございます。 胸が熱いです。
【花岡】お礼とお答え
CHさん、コメントありあとうございます。
これからも、よろしくお願いします。
Kさん、再び質問を頂きましたので、お答えします
> 花岡さんはひたすら念仏を唱えたり神の名前を唱え続ける方法に関してはどう思われますか?
> ひたすら胸の感覚を探し求めて、その幸福感に浸ることだけだ」と仰っていただければ、もう他のよけいなことを考えるのはやめてバカの一つ覚えのようにそれだけに専念しようという怠け心があるのですが、実際のところどうなのでしょうか?
念仏を唱える、神の名を呼び続ける、これらについて意味の無い事だとは申しません。
聖言オーン(ム)を発する、マントラを唱える、ムドラー、像を拝する、これらも同じ事です。
そうする事によって、内なる「これ」に確実に触れられるなら、つまり、唱える事でそれがキャリア(搬送力)になるのであれば、それは有効なのです。
キャリアとしてそれをするには、念仏を唱えながらも集中力そのものは内なる「これ」を捉えていなければなりません。
念仏が重要なのではなく、「これ」を捉えているかどうかが重要です。
念仏そのものは、その集中力を保持する立場、ブレを防ぎブロックする役目です。
親鸞は、弥陀の本願に委ね切れるなら念仏さえ不要なのだと申されました。
わたしも全く同意です。
唱えるという自我の助けを得ながら真我に触れるというのは、とてもわたしには難しい事です。
わたしはただ、いつでも出来る限り、「これ」を想い、慕い、忘れず、そこに留まり続けるだけです。
忘れてもすぐに「これ」に戻るように努めるだけです。
これがわたしの修行です。
こうしている事がわたしには喜びなのです。
神よ・・・と呼びかける事もありますが、それは感謝を捧げる時だけです。
喜びを味わう時、どうしても感謝を捧げずにはいられなくなります。
その時だけ、神よ・・・と呼びかけます。
それは、わたしにとっては、その御足にひれ伏す事と同じなのです。
もう一つのわたしにとっての修行は、時折確認する事です。
明け渡し切っているだろうか?
神を信頼しきっているだろうか?
すべてを受け入れる覚悟は崩れていないだろうか?
そのように確認し、神を裏切っていない事を確認するのです。
しかしながら、人の気づきは様々な手法(アプローチ)によって現れます。
その人に、最もシックリくるやり方があるでしょう。
だから、これはいけないとか、これがいいのだとかは、明言できません。
人は、その人に最もふさわしいやり方が、衝動として現れ、突き動かされるはずです。
自分が選択していると思うでしょうが、それは選択させられているのです。
ほんとうは、その行為をカルマと言うのです。
カルマとは、デザインされた筋書に従わされている行為そのものです。
善いも悪いもなく、悩むものでもなく、ダルマ(正義)でもアダルマ(不正義)でもありません。
祈りが必要だと思うなら、純粋な心でそれをやる、その事に果報を疑う理由はありません。
ただ、完全に離欲する事は必要です。
離欲した心こそ、純粋な心です。
【読者K】
花岡さん、こんばんわ。連日の質問恐縮なのですが、お時間をつくっていただけたときにご回答いただけたら幸いです。
人を許すのはどうしてこんなに難しいのだろうという話なのですが。私は安アパートでずっと暮らしています。なので当然壁も薄く生活騒音などはかなり漏れてしまっています。私は一人暮らしですし自分ではおとなしく暮らしているつもりなのですが、隣はギターをアンプに繋いで練習したりその他諸々のかなりの騒音が聴こえてくることがありますが、まあそういうもんだしお互い様だからしかたがないと思って今日も我慢していたのですが、そのあと自分が音楽を聴いていたら(そんな音量でもない、と思うのですが)「うるせーぞ」と言わんばかりに壁をドンドンされてブチ切れそうになりました。そして今度お前らがうるさくしたらこっちも壁をドンドンし返してやる‥と復讐を心に誓ったのでした‥。
すいません、完全にただの愚痴になってしまったのですが、お聞きしたいのはどうしてそれでも人を許さなくてはいけないのかとか、どうしたらそんな奴らを許すことができるのだろう、ということです。
花岡さんのブログの記事を拝読させていただいているときは、私もあたたかくて愛に満ちた文章の力でいい気持ちになり、「そうだ!愛だ!」みたいな感じになるのですが、その自分がいざ現実に帰ると隣人に壁ドンされたといって逆恨みをしては復讐の念に取り憑かれ、とても隣人愛の実践どころではありません。
こんな私はダメなのでしょうか?というか、こんなことでは悟りだの神を知るだのできないでしょうか。こうしたどうしようもなく感じてしまっている怒りや憎しみをどのように処理すればよいのでしょうか。
花岡さんの「他者とのトラブルもなくなってしまいます。なぜなら!・・・全てを許せるからです」の言葉に激しく憧れを覚えます。早く私もそうなりたいと心から願っているつもりです。でも現実として今まだそのように思えない私がいます。それでも許さなくてはならないのでしょうか。といっても許せないものは許せないのでどうしても心の上辺だけのものになって怒りや憎しみを抑圧して我慢するのがせいぜいなのですが、そんな本当には許せていない我慢や抑圧にも意味はあるのでしょうか。
すいません、なんだかほんとにただの愚痴なんですが、ご回答していただけることに何か意味があると感じていただけたら幸いです。低レベルな質問だとは思いますが、低レベルな次元で生きている私にとっては切実な疑問のつもりです。ご回答いただけましたら嬉しいです。なにとぞよろしくお願い申しあげます。
【読者A】Kさん、ありがとう!
花岡さん、みなさま、お久しぶりです。
花岡さん、おいそがしい中、更新やコメントありがとうございます。
最近、Kさんがご質問をされていて、私も非常に共感を覚えています。
Kさんの疑問や悩みは、Kさんだけのものじゃない。
私も、日々、気づいたら他人への恨み・怒りになってしまっていることが多いです。
「どうしたら他人を許せるか」
「すべてを許せたら、どんなに楽になれるだろう」
私もそう思います。
【花岡】おはようございます
家事、雑事にかまけて、レスポンスが遅くなりました。
> どうしてそれでも人を許さなくてはいけないのか
> こんな私はダメなのでしょうか?というか、こんなことでは悟りだの神を知るだのできないでしょうか。こうしたどうしようもなく感じてしまっている怒りや憎しみをどのように処理すればよいのでしょうか。
「許さなくてはいけない」・・・という事はありません。
また、「許さなくてもいい」というのでもありません。
それは、「許そう」とすればいいだけで、選択するかどうかです。
そのスイッチは、ある時はONになり、ある時はOFFに戻ります。
あなたの中の神性がONに入れ、あなたの中の自己保存がOFFに戻します。
自己保存とは、相手の立場をわかってやる事も無く、認めてあげる事も無く、自分の事だけを主張し認めさせようとする事です。
真我はそれを見ていて、それでもなお筋書き通りの物語を映し出します。
OFFになっている事に気づいたあなたは、「こんなんでいいんだろうか」と自分に問いかけます。
人の自我というのは、そのような繰り返しで完成に向かって進んで行きます。
自分に問いかけるのは、真我に問いかけているのです。
そのような事を数えきれない程繰り返し、やがて「放棄する」という答えに辿り着きます。
「翻弄させる自我」を放棄するという答えです。
真我が自ら教えてくれるのです。
あなたを一番知りつくし、ただひとつの答えを知っているのは、その真我です。
それだから、「内なる真我を拠り所としなさい」と言うのです。
それこそが、あなたの真実の師、サット・グルです。
ですから、こんな私はダメなのでしょうか?などと、自分を否定してはいけません。
それさえも、既にデザインされた必要な筋書なのですから。
筋書に間違いはなく、あなたはそれに忠実です。
だれでも、そこから学ぶのです。
壁の向こうでイラッとしている彼は、あなたです。
その時、あなたは自分の中に、それを置いているのです。
そのような素因が、自分の中にあるから反応し、反応が更に引き寄せて行きます。
あなたが心の安息を求める時、同時に心をかき乱す対象もついてきます。
「わたしは心静かにしていたい」と思うのは、「わたしの心は騒いでいる」と宣言しているのです。
天使がいるから、悪魔は躍起になるのです。
それは、ふたつでひとつ、だからです。
相対の世界だから、それはしょうがないのです。
そのどちらかを選んで意味づけているのです。
求める事無く、ただ在り、「わたしは在る・・・それだけだ」と認識しましょう。
そうすれば、与えられるものが与えられるだけです。
間違いなく、神は、あらゆるものを既に与え、これからも与え続けます。
あなたを愛するが故に、与え続けるのです。
全てはただ、現れきます。
許せないやつだと意味づけずに、それが人という者である事を認めてあげましょう。
彼も、誰も、迷い迷いて途上に在るのです。
許せないのは、相手のせいではありません。
あなたの捉え方、意味づけ方、あなたの中の尺度、価値観であり、自分の中にもそのような素因がありながら、わかってやれない、認めてやれない「わたし」ではないでしょうか。
同じ苦悩を抱えいてるのです。
自分を励ますように、相手にもそうしてあげましょう。
相手を観て、相手に学びましょう。
そのような真我の呼びかけに、耳を傾けましょう。
慎み深い人でいて、優しい人でいましょう。
思いやりの深い人でいましょう。
そういしている自分を嬉しく思えるようになれば、スイッチはONのままになるでしょう。
【読者K】
花岡さん、お忙しい中ご回答くださいまして誠にありがとうございました。
許せない自分ごと真我に明け渡すことができたら楽になれるんだろうなあ‥と思いました。
しょーもない話ですが、一応愚痴ってしまったのでその後の報告をさせていただきますと、その後早速にも隣人にやかましく騒がれて復讐のチャンス!思い知らせてやる!‥と思ったその瞬間、どういうわけかちょうど読んでいた文章がなぜか「たとえどんなことをされても、たとえまたどんなことを云われようとも、仕返しを求めてはならぬ」だったので泣きながらあきらめました。その後もやっぱりうるさくされると「クソ!今度こそ‥」と思うのですが、やっぱりそのタイミングで読んでいる文章が「決して復讐などということを考えてはいけない」とかだったのでなんかもう最後は気が抜けて笑うしかありませんでした‥。
でももしあそこで怒りに任せて壁ドンドンしてたらそのときはすっきりしてもきっとのちのち関係の悪化とかいろいろ含めてもっと嫌な思いをすることになってたかもなって思いました。あと別に許せたわけじゃないと思うんですけど、怒りに任せて復讐したりせずに(たまたま読んでた文章に言われたままに我慢しただけなんですけど)いられたときなんか少し気持ちのいい感覚がありました。ただの自己満足の可能性が大ですが。でもひとまずは結果オーライという感じでした。
やさしい人、思いやり深い人、そういう人になりたいです。お忙しい中ご丁寧なご回答くださりまして誠にありがとうございました。
Aさん、お久しぶりです。共感していただいたみたいで恥ずかしいけどうれしいです(笑)、ありがとうございます。一緒に自分のことも人のことも許せるような人になれたらいいですよね!これからもよろしくお願いします。ありがとうございました。
【読者S】Kさん こんにちは
Kさん こんにちは。
拝読させていただいてとても共感しました。
私なんてとてもアドバイスできる境地ではないのですが、
同じように許せない自分に随分と苦しんだ一人としてなにかコメントできないかと思い出てきました(汗)
相手を許せないというよりも
相手を許せない自分に対して苦しんでいる・・・
それだけできのこさんは絶対に良くなっていくと思います。
そしていづれそんな相手をも許せるようになると思います。
私もこのブログで質問させていただいたことがあります。許せない人がいて・・・
でもその相手を完全に今では許すことができました。かなり葛藤しましたが。
自分で許そうって決めたら案外奇跡って起きるんだと思いました。
だからきのこさんもきっと大丈夫ですよ。頑張れ~♪
【読者K】
Sさん、ありがとうございます。
僕からするとかつて許せなかった人のことを今では完全に許せたというのは本当に素晴らしいと思いますしすごいです!そういう先輩がいるととても励みになります、ありがとうございました!
許せない気持ちを抱えていると自分が疲れるし嫌な気持ちになるし、そんな自分も嫌だしで本当にひたすら嫌になってしまいます。そういうしょーもない全部まるごと「下らない」って捨てられたらめちゃくちゃ気持ちいいだろうなあって思いました。
ご親切なアドバイスとても励みになりました。今後ともよろしくお願いします。ありがとうございました!
【読者U】初めまして
花岡さん、みなさん、初めまして
以前、花岡さんのブログをランキングで見つけて以来、とても興味深く読ませて頂いています。
花岡さんの言葉には真実があると感じています。
Kさんへのお返事も、深く心に沁み入ってきます。
特に
「 許せないのは、相手のせいではありません。
あなたの捉え方、意味づけ方、あなたの中の尺度、価値観であり、
自分の中にもそのような素因がありながら、
わかってやれない、認めてやれない「わたし」ではないでしょうか。」
というあたりは、私自身腑に落ちているわけではありませんが、
そうなんだろうなと思います。
私もKさんと同じように、嫌悪感を感じる人や許せないと感じる人はいます。
以前は、その相手を正そうとしたり、正すことさえ出来ない相手であれば
怒りを忘れようとお酒を飲んだり、過食したり、誰かに愚痴をこぼしたりしていました。
でも、最近は、「なぜ、私はこんな反応をするのだろう?」と、内側に問いかけるようにしています。
少しずつですが、感情に大きく翻弄されることが少なくなり、
感情的反応を離れて観られるようになってきました。
そして、これは私のテーマでもあり、日々、内側に問いかけているのですが、
Kさんのご質問と関連づいている気もするので、ご質問させてください。
「人に嫌われている気がして怖い」
この思いは、私の内側の何を私は観ているのでしょうか?
【花岡】Uさん、はじめまして
コメントありがとうございます。
> 「人に嫌われている気がして怖い」
この思いは、私の内側の何を私は観ているのでしょうか?
孤立に対して怯えているのではないですか?
人は世界に「わたし」という主体を置いた瞬間、客体に対して依存するのかも知れません。
認められたい、愛されたい、心を満たしてほしい、それを享受できれば安心なのです。
蔑まれる、拒否される、嫌悪されるということに我慢ならないのです。
それはとても辛く悲しい事です。
虚栄とかプライドが、そのような感情を生み出します。
自分は嫌われるべき人間ではないと、主張しているのです。
あなたが観ていて、実は観ていないのはそれだと思われます。
結局外(現象世界)に住んでいれば、だれでもそうなるのです。
客体に依存し、客体との相互反応によって、より良い関係にありたいと思うのです。
より良い関係とは、自分がより優位であるという関係の事です。
感情は心からたち現われます。
そして思考がそれを行為に駆り立てます。
おべっかを使ったり、内心は否定しているのに言葉で同意したふりをします。
そうしておけば、とりあえずそれよりは悪い関係にはならないと思うからです。
それはそれで、自分の惨めな立場を自分で認めてしまう事になり、やりきれない気持ちになります。
どうしようが、孤立への怯えは消え去りません。
でも、それらは全て自分で創りだしている物語です。
自作自演の思い込みのリアルです。
人はそうでなくも生きられるのです。
嫌われている事が、なんぼのものでしょう。
それは、あなたの問題ではなく、彼等の問題です。
あなたがゴーヤは苦くて嫌いだというのは、あなたの問題です。
この事がわかるでしょうか?
他人の問題に対して、あなたの虚栄心、プライドが怯えているのです。
その事を観てください。
虚栄やプライドは、大事なものでしょうか?
それがあなたに戦わせているのです。
戦かわせて、苦悩を味あわせているのです。
虚栄心やプライドが、エゴに縛り付けているのです。
それを手放せばいいのですよ・・・とわたしは言っているのです。
アホになりましょう。おバカになりましょうと言っているのです。
そうなれば、もはや自由なのです。
自分がこんなにも天心であった事を理解できるのです。
もう、嫌われている事を、恐れたりしません。
解き放たれた喜びを味わう事になるのです。
もう一度、自分の中を観てください。
虚栄心はありますか?
プライド(自尊=自分は蔑まれるはずの者では無い)がありますか?
それがあるうちは、「仲間外れ」に対する怯えは消え去りません。
【読者U】ありがとうございます
花岡さん、お答えくださり有難うございます。
こんなにもはっきりと核心を指摘されたのは、初めてです。
確かに私はプライドが高いです。
そんなに特別に能力が高いわけでも、才能があるわけでもないのですが、
どこかで人より優れていると思い込んでいます。
だから、人に出来て自分に出来ないことがあれば、大きく動揺して、出来るようになろうとしたり、
出来ない理由を考えたりして、出来ない自分をそのまま認めることがありません。
その虚栄心、プライドが人に嫌われる怖さを作り出しているのですね。
それから、人が私を嫌うことと、ゴーヤが苦いから嫌いだというのは、
同じだということは話としてはわかります。
でも、感情的には、誰かからゴーヤが苦いから嫌いだと言われたら、ふーんという感じで受け入れやすいのですが
私が育てたゴーヤが嫌いだと言われると、ちょっと引っかかりますし
私が嫌いだと言われたら、もしくはそう思われているのではないか?と考えたら、かなり動揺します。
以前と比べかなり冷静になっているので、動揺したからといって、なんとかしようと慌てふためくことは
あまりありませんが、それが今の私の正直な状態です。
まだ、プライドや虚栄心にメリットがあると、どこかで信じているのかもしれません。
私も花岡さんのように自由に生きたいので
虚栄心やプライドが、どのように働いて、私に何をもたらしているか観察してみます。
また質問させて下さい。
お忙しいところわかりやすく教えてくださり、有難うございました。
ブログの更新を楽しみにしています。
【読者E】はじめまして
今回はじめて花岡様のブログにたどりついたのですが、検索ワードが「妄想性障害と悟りの関係」からでした。
以前、精神科医より妄想性障害との見立てをいただき(私自身は、治ったと感じてから病名を聞いたのですが)、以後経過を見ておりました。
今回とりあげられているパーソナリティ障害とも関係があると思われる症状の病気です。
この記事を読ませていただいたしばらく後に、いわゆる「悟り」の感覚がおとずれました。
以前から薄々と感じてはいたのですが、この感覚の対極にあるものが妄想性の病状です(いわゆる現実という妄想のさらにひどい認識)。
今になって、この「病気」だったという概念も真我の位置から見ますと「悟り(健全さ)」の投影だったということに気がつきました。
言葉の使い方はそれぞれですので、ご指摘を受けるような表現だったかもしれませんが、とにかくこのような病状に苦しんでおられる方に「絶対大丈夫だよ」と知ってもらいたくて今回書かせていただきました。
私自身もこれから、よい体験をシェアしたくてブログ等で発信することでしょう。
今回のきっかけを与えてくれた、花岡さまの存在にも感謝申し上げます。
ありがとうございました。
花岡さん、ご丁寧なご回答ありがとうございました。すごく納得できました。
また花岡さんご自身のやりかたも教えていただき大変参考になりました。
最もふさわしいやり方をデザインされた筋書き通りに選んでいくということですが、花岡さんのこちらのブログに会うことができ、こうしていろいろご丁寧に教えていただけたことが私にとっての縁だったのかなと思います。
「わたしはただ、いつでも出来る限り、「これ」を想い、慕い、忘れず、そこに留まり続けるだけです。 忘れてもすぐに「これ」に戻るように努めるだけです」ということに一番心引かれるものを感じましたので、私もその通りにやってみようと思います。
いつもブログでいろいろ教えてくださったりコメントでの質問にもご丁寧なご回答くださりまして誠にありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。ありがとうございました。
【読者K】