わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

啓示によって人は準備を促される 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんからいただいた記事です。質問者のお礼の言葉も最後に付け加えておきました。

 

啓示によって人は準備を促される
 
今日も質問の答えです。
答えになっているかどうかは、・・・どうなんでしょうね。
ただ、このように知らされたから、このように答えます。
 

【質問者IK】できるなら教えていただきたい。

花岡さん,はじめまして 
不躾ですがお尋ねしたい事があります。ご容赦ください。 
私は55歳になる男性です。以前「今ここ」の阿部さんのブログのコメントを拝見しネットで調べこのブログを知りました。理屈よりご自身の体験をご自身の事実を述べていられる事にわかりやすさを思います。 
実は私は以前40歳代にとてつもない「愛」を感じたことがあります。ほんの一瞬,何分か時間はあったように思いますが胸の奥から湧き出る「愛」無償の「愛」全てがなくても有る「愛」 。
しかし,その一瞬だけで私はその後10年以上,暗い怒りの中で人生を過ごしています。私が感じた「愛」は意味のないもの偽物だったのでしょうか? 
私にとってその意味はなんだったのでしょうか?あの時のあの感覚を感じたくて,そのまま生きたくて、 人生に切羽詰まっています。 
よろしければ お教えください。

ほんの一瞬、無償の愛を感覚する。
そのような事がある日ある時、ある人には起こります。
しかも、かなり多くの方がそのような体験をされています。

数分の間そうなり、跡形もなく消えてしまう人もいれば、一日のうちに何度か現れたり、そのような感覚が三日ほど続いたりしますが、たいがいは忘れ去られてしまいます。

心が騒いだりせず、リラックスしている時や、とても喜ばしい感動を目の当たりにした時、一瞬霧が薄らいで自我の拘束を離れる時があります。
そのような時に、真我の愛が木漏れ日のように注がれるのでしょう。

しかし、そのような愛に馴染みの無い我々は、信じて疑わない執着の愛を手放す事はできません。
自我に作り出される現実に、思考によって、想念によって、すぐに引き戻されてしまいます。

あの時、どういう状態に自分はあったのかさえ、思い出す事すら、もはやできません。

そうして、あれはいったい何だったのだろうと、時折思い出しながらも、現実の、つまり自我意識に現れる日常に、今日もまた自分の都合によって意味づけして生きる毎日を送るのです。

しかし、どうでしょうか?

一瞬たりとも、そのような無償の愛、理由を必要としない愛、条件によらない愛を体験したのです。
そうであるならば、あなたにそのような真実の愛が存在している事にはならないでしょうか?

それに気づき、それを喜ばしく感じる何かが、あなたの中に存在するのです。
ならば、再びその真実の愛に出会えるし、そうしたいのであればこの後、それに浸りきって日常を暮らす事も可能なのです。

それでも、とりあえず、「わたしの物語」は既にデザインされています。
起こるべくして起こる現実を体験するように出来ています。

そうであるから、課題である怒りや、悲しみなどの苦悩を体験させられます。
学べ!学べ!と言わんがごとく。
それをカルマと言うのです。
どうしても行為に走らせられます。

しかし物語のデザインは、ひょっとしたら、今、深い洞察によって、それらを学びきる局面に来ているのかも知れないのです。
もしもあなたが、強い熱意と憧れをもって、その真実の愛を再び味わい、その中に安らぎたいと思うのであれば、デザインは書き換えられるかも知れません。
というよりも、それがデザインの方向性なのかも知れません。

自我の執着をぬって、一瞬知らされる真実の愛の光は、あなたにとっての啓示かも知れないのです。

真実の愛は、真実の自分である真我からの波動です。
自我に映し出される森羅万象は、それによってたち現われ、あなたに必要な全てを見せているのです。
そのいちいちに、あなた自身が意味づけし、反応し、物語の主人公を演じているのです。
言ったら、あなたは真我によって配役された座長を務めているのです。
真我はそれを、我事のように見ながら、楽しみ、同時に励まし、絶対切れる事の無い絆で繋がっているのです。
それだから、リーラ(神の戯れ)と言われます。

「わたし」というのは、真我から物語の世界に体験すべく飛び出してきたポッドのようなものです。
やがて、真実の自分、真我に、源泉に帰還すべきものです。
人生という激流を超え、あの岸に、彼岸に、ニルヴァーナに辿り着くべきものです。


いや、こういう事がわからないでも、いつかはそうなって行くのでしょう。
それだから、その準備をすべきです。
そのように促されているのです。

今、本当の自分、真我、神、この唯一、そこに「わたし」の立場を置き、そこから自我、思考、想念、それらを観察しながら生活するなら、再び真実の愛に包まれると思います。

真我に立場を置くというのは、絶対的な信頼を傾け、起こる全てを受け入れきる事です。
それらに文句を言わず、受け入れるのであれば、あなたがそれらに「気に食わない」と意味づけていた事がわかるはずです。

真我は自我のあなたを、完全に信頼しきっていて、愛しきっているに違いありません。
だからあなたが在るのです。
これ以上の証拠はありません。

そのように、いや、それ以上に、真我を信頼しきって、そのみこころのままに受け入れるなら、間違いなくあなたは真実の愛で満たされます。

既に啓示があったのです。
言ったらそれは、予告編のようなものかも知れません。

それだから、準備をすべきです。

自分の全てを、真我に明け渡すだけです。
真我を信頼しきって、受け入れるだけです。

なにも恐ろしい結果にはなりません。
完全無にもなりません。
必要なものは与えられます。
真我とは、あなたの事なのですから。
 
2012-10-07
 
 

【質問者IK】ありがとうございます。

花岡さん 誠実なお答えありがとうございます。 
何回か読み返し自分を観て考えてみました。 
あの「愛」は確かに真我の木漏れ日のようであったように感じます。 
啓示であろうという言葉ありがとうございます。 

学べ学べと何度でも押し寄せてくる状況をいつも「拒否」という答えで返していたようです。 
恐れと怒りで自分を縛っていたようです。 
今少しだけですが心が受け入れようとしています。 
ありがとうございます。