わたしは誰か?(ラーマナ・マハルシ)【再掲】 花岡修平 「真我が目覚める時」
◎この記事「わたしは誰か?」は、以前、掲載したもの(2015-11-05掲載)。Hさんからいただいたこの記事にはコメント欄が付属しており、その中である読者と花岡さんとの間で非常に興味深い問答がなされていました。花岡さんは、今まで私が不思議に思い知りたかったこと(「花岡さんは覚醒が生じる前まで、悟り等については無知だったと言っているが、なぜ、こんなにも知識豊富なのか?」)をその中で述べています。 読者の質問も非常に興味深いものです。非常に真摯な求道者ですが、方向を誤っていたようです。私にも思い当たる節があります(笑)。
というわけで、前掲記事よりも遥かに豊かな内容を含んだ記事として再掲することにしました。カッコ内は、この記事のキーワード。私が付けたものです。
わたしは誰か?
削除した記事ですが、読んでいなかった方からリクエストがございましたので、内容を一部修正して再度掲載致します。
既に読まれた方には、新鮮味がないでしょうが、勘弁してください。
さて、「わたしは誰か?」
ラマナ・マハルシの教えの中核をなす、言葉です。
わたしは誰か?と問いかける事で、わたしは身体に由来する存在ではない事をまず理解します。
ところが、わたしは誰か?と、昼も夜も問い続ける事では、望んでいる答えは見出せません。
誰だろう・・・誰だろう・・・と思い出す作業を始めるなら、要点を外しているのです。
もしも、宗教として、ラマナを崇拝し、信じ、彼の言葉に忠実に励もうとしているなら、それは、彼の言葉を全く理解していない事になるのです。
信じる事、崇拝する事が、言葉の奥にある深い意味を洞察する事を妨げるからです。
信じるから、そこで止まり続けます。
ラマナが言っているのは、わたしは誰か?、その誰かを探せという事ではないのです。
言葉に、言葉以外の、実に様々な意味を見てとれる事を、我々は経験で知っています。
ところが人は、未知のものであればあるほど、言葉に忠実になろうとします。
わたしは誰か?と問いかける事で、その誰かである「わたし」を見つけようとします。
その誰かである「わたし」は思考を発しているその「わたし」である事は、誰にも明白です。その「思考者であるわたし」を、一生懸命見つけようとしているのです。
ただそれだけのために、ラマナがそのような事を言うはずはないのです。
しかも、
その行為自体が思考そのものである事に、まったく気づきません。
ここでも、おなじみの、無限ループに陥ります。
誰か?と問い続ける事で、あたかもその、誰かが、見えてくるかのように思ってしまいます。
わたしは誰か?と問いかけ、その誰かである「わたし」を見ているその、
見ている「わたし」に気付きません。
わたしは誰か?と問い、その誰かである「わたし」を見るのではなく、
その誰かである「わたし」を見ている「わたし」を知るのです。
思考者の「わたし」を見ている、観察者の「わたし」です。
見る者は、見られる者である。
そうまで言っても、その誰か?にこだわり続けます。
何がなんでも、誰か?が重要なのだと、信じて疑いません。
わたしは誰か?など、どうでもいいのです。
誰か?と問い、思考している「わたし」を見ている「わたし」に気付いたなら、
速やかに、その見ている「わたし」に向き直りなさい!と言う事です。
それが静寂であることを、まず気付かなくてはなりません。
ところが、またまた、誰か?に戻ってしまいます。
すなわち、その静寂に気付いているのは誰か?と言い出すのです。
思考がどうしても、思考に引き戻します。
自我のレベルでは感覚できる事ではありません。
思考している「わたし」を見ている「わたし」に気付いたら、
それに向き直り、そこに留まって、あとは一切、言葉を思い浮かべてはいけません。
そこに留まって、無思考でいて、沈黙し、静寂を感覚していなければなりません。
たったこれだけの事なのに、
たったこれだけの事が成し難いのです。
思考の癖とはそういうものです。
自我の巧妙な手口です。
もしも人間に、言葉というものが無かったなら、なんと容易に静寂に落ち着くことが出来たでしょう。
言葉があるから、いろいろなものに、意味づけをしたがります。
定義したがります。
断定してしまいます。
わたしは誰か?と問い続けなさい・・・と言われれば、その事が重要だと断定します。
そうであるなら、問う事など止めるべきです。
真我に気付く方法は、別の方法もあるのですから。
それは、いわゆるサレンダーです。明け渡しです。
至高なる存在、神、あらゆるものの源泉に、全てを明け渡すのです。
ところが、これもできないと言うかもしれません。
独特の「恐れ」を感じるのです。
明け渡したとて、何も不安の素など無いというのに。
恐怖すべき何事も起こらないと言うのに、にも関わらず明け渡せないのです。
明け渡せば、こんなにも楽になれると言うのに。
愛着が、執着が、それを許しません。
失うことへの恐れが、それを許しません。
どちらも、自我の恐るべきちからです。
たったこれだけの事が、なんと成し難いのでしょう。
不思議です。とても不思議です。
ラマナも、自らが真我であるのに、全く真我に気付かなことは、不思議でしょうがないと言います。
この小さな自我に、比べられないくらい大きな真我が太刀打ちできないとは・・・
言葉を捨てなければいけません。
ただ、感覚してください。
言葉で、知識でわかろうとしてはだめなようです。
学問ではないのですから。
また、宗教でもありません。
だから、言葉を覚えていない幼子になりなさいと言っているのです。
言葉がなくても、彼は「わたし」なのです。
しかし、彼は「わたし」を知りません。
そういう自意識がないのです。
そのような幼子の彼は、全く「真実のわたし」によって在る「わたし」なのです。
あなたが、「わたし」と言える「わたし」ではなく、
「わたし」が全くいない、「真実のわたし」の事を言っているのです。
感性にまかせてください。
それを信頼してください。
2012-05-03
既に読まれた方には、新鮮味がないでしょうが、勘弁してください。
さて、「わたしは誰か?」
ラマナ・マハルシの教えの中核をなす、言葉です。
わたしは誰か?と問いかける事で、わたしは身体に由来する存在ではない事をまず理解します。
ところが、わたしは誰か?と、昼も夜も問い続ける事では、望んでいる答えは見出せません。
誰だろう・・・誰だろう・・・と思い出す作業を始めるなら、要点を外しているのです。
もしも、宗教として、ラマナを崇拝し、信じ、彼の言葉に忠実に励もうとしているなら、それは、彼の言葉を全く理解していない事になるのです。
信じる事、崇拝する事が、言葉の奥にある深い意味を洞察する事を妨げるからです。
信じるから、そこで止まり続けます。
ラマナが言っているのは、わたしは誰か?、その誰かを探せという事ではないのです。
言葉に、言葉以外の、実に様々な意味を見てとれる事を、我々は経験で知っています。
ところが人は、未知のものであればあるほど、言葉に忠実になろうとします。
わたしは誰か?と問いかける事で、その誰かである「わたし」を見つけようとします。
その誰かである「わたし」は思考を発しているその「わたし」である事は、誰にも明白です。その「思考者であるわたし」を、一生懸命見つけようとしているのです。
ただそれだけのために、ラマナがそのような事を言うはずはないのです。
しかも、
その行為自体が思考そのものである事に、まったく気づきません。
ここでも、おなじみの、無限ループに陥ります。
誰か?と問い続ける事で、あたかもその、誰かが、見えてくるかのように思ってしまいます。
わたしは誰か?と問いかけ、その誰かである「わたし」を見ているその、
見ている「わたし」に気付きません。
わたしは誰か?と問い、その誰かである「わたし」を見るのではなく、
その誰かである「わたし」を見ている「わたし」を知るのです。
思考者の「わたし」を見ている、観察者の「わたし」です。
見る者は、見られる者である。
そうまで言っても、その誰か?にこだわり続けます。
何がなんでも、誰か?が重要なのだと、信じて疑いません。
わたしは誰か?など、どうでもいいのです。
誰か?と問い、思考している「わたし」を見ている「わたし」に気付いたなら、
速やかに、その見ている「わたし」に向き直りなさい!と言う事です。
それが静寂であることを、まず気付かなくてはなりません。
ところが、またまた、誰か?に戻ってしまいます。
すなわち、その静寂に気付いているのは誰か?と言い出すのです。
思考がどうしても、思考に引き戻します。
自我のレベルでは感覚できる事ではありません。
思考している「わたし」を見ている「わたし」に気付いたら、
それに向き直り、そこに留まって、あとは一切、言葉を思い浮かべてはいけません。
そこに留まって、無思考でいて、沈黙し、静寂を感覚していなければなりません。
たったこれだけの事なのに、
たったこれだけの事が成し難いのです。
思考の癖とはそういうものです。
自我の巧妙な手口です。
もしも人間に、言葉というものが無かったなら、なんと容易に静寂に落ち着くことが出来たでしょう。
言葉があるから、いろいろなものに、意味づけをしたがります。
定義したがります。
断定してしまいます。
わたしは誰か?と問い続けなさい・・・と言われれば、その事が重要だと断定します。
そうであるなら、問う事など止めるべきです。
真我に気付く方法は、別の方法もあるのですから。
それは、いわゆるサレンダーです。明け渡しです。
至高なる存在、神、あらゆるものの源泉に、全てを明け渡すのです。
ところが、これもできないと言うかもしれません。
独特の「恐れ」を感じるのです。
明け渡したとて、何も不安の素など無いというのに。
恐怖すべき何事も起こらないと言うのに、にも関わらず明け渡せないのです。
明け渡せば、こんなにも楽になれると言うのに。
愛着が、執着が、それを許しません。
失うことへの恐れが、それを許しません。
どちらも、自我の恐るべきちからです。
たったこれだけの事が、なんと成し難いのでしょう。
不思議です。とても不思議です。
ラマナも、自らが真我であるのに、全く真我に気付かなことは、不思議でしょうがないと言います。
この小さな自我に、比べられないくらい大きな真我が太刀打ちできないとは・・・
言葉を捨てなければいけません。
ただ、感覚してください。
言葉で、知識でわかろうとしてはだめなようです。
学問ではないのですから。
また、宗教でもありません。
だから、言葉を覚えていない幼子になりなさいと言っているのです。
言葉がなくても、彼は「わたし」なのです。
しかし、彼は「わたし」を知りません。
そういう自意識がないのです。
そのような幼子の彼は、全く「真実のわたし」によって在る「わたし」なのです。
あなたが、「わたし」と言える「わたし」ではなく、
「わたし」が全くいない、「真実のわたし」の事を言っているのです。
感性にまかせてください。
それを信頼してください。
2012-05-03
[読者KZ]
7年ほど前、ラマナさんの本の表紙の目に惹かれて、「私は誰か?」と、エゴの私が問いました。
「身体じゃない、思考じゃない・・・」と、全てを切り捨てて、ハートの奥へ奥へと入っていきました。
歩いていても外はぼんやりしていて、頭もぼんやりしながら、ただただ奥へ奥へ・・・・。
奥は広がり、もう追えないくらい沈み込んで行く感じが続きました。
ある日、尿が止まり1年半くらい続き、死にかけました。
出ないのに気だるくたまらないのに苦痛ではなく、
そして生きている、
フシギな状態でした。
「テレビ」
近寄って見つめると、ただの光の点でした。
さらに近づくと何もなくなりました。
光の点の解釈は、私の過去の記憶、そしてそれが合わさって画像になりました。
今、ダグラスさんの実験をしています。
際限なく、感覚で追えない何もなさの空間の中に、楕円形の、私の五感が作る世界。
しかし近寄ると形は崩れ、やがて空間の中に没して行きます。
空間の中に現れた蜃気楼。
私の身体も思考も感情も・・・。
ラマナさんのときのようなぼんやりではないですが、
それでもこの世界への現実味は薄れてきていて、
かと言って歓喜も高揚もなく、ただただ淡白でクリアさだけがあります。
現実生活は、興味関心が薄れてきていて、何かにしがみつく根拠がない感じです。
身体が世界の中に置いてきぼりの感じがあって、
またまずいことになるのかな?と、
一抹の不安を感じます。
だるさや動きがたさが起きています。
それも流れならしょうがないかとも思うのですが・・・。
花岡さんは、こんな感じになられた事はありますか?
どこかに不均衡、バランスの悪さ等があるのでしょうか?
御教示いただけたらとてもうれしいです。
「身体じゃない、思考じゃない・・・」と、全てを切り捨てて、ハートの奥へ奥へと入っていきました。
歩いていても外はぼんやりしていて、頭もぼんやりしながら、ただただ奥へ奥へ・・・・。
奥は広がり、もう追えないくらい沈み込んで行く感じが続きました。
ある日、尿が止まり1年半くらい続き、死にかけました。
出ないのに気だるくたまらないのに苦痛ではなく、
そして生きている、
フシギな状態でした。
「テレビ」
近寄って見つめると、ただの光の点でした。
さらに近づくと何もなくなりました。
光の点の解釈は、私の過去の記憶、そしてそれが合わさって画像になりました。
今、ダグラスさんの実験をしています。
際限なく、感覚で追えない何もなさの空間の中に、楕円形の、私の五感が作る世界。
しかし近寄ると形は崩れ、やがて空間の中に没して行きます。
空間の中に現れた蜃気楼。
私の身体も思考も感情も・・・。
ラマナさんのときのようなぼんやりではないですが、
それでもこの世界への現実味は薄れてきていて、
かと言って歓喜も高揚もなく、ただただ淡白でクリアさだけがあります。
現実生活は、興味関心が薄れてきていて、何かにしがみつく根拠がない感じです。
身体が世界の中に置いてきぼりの感じがあって、
またまずいことになるのかな?と、
一抹の不安を感じます。
だるさや動きがたさが起きています。
それも流れならしょうがないかとも思うのですが・・・。
花岡さんは、こんな感じになられた事はありますか?
どこかに不均衡、バランスの悪さ等があるのでしょうか?
御教示いただけたらとてもうれしいです。
[花岡] Re: タイトルなし
KZさん、こんにちは。
不均衡?不安定?アンバランス?
そのような身体的、不整合的感覚になる人もいらっしゃるのかも知れませんね。
わたしの場合は、本当に幸運でした。
わたしはこれになる前は、幼少の頃イエスの迫害を受けながらも人々の幸せのために各地を遍歴した物語を読んだのと、成人してからも主に仏教と言っても、中村元先生の邦訳を読んだだけです。
マハルシも、ダグラスも、ニサルガダッタも、他のインドの聖者も、何も読んだ事はないし、知らなかったのです。
それでも、どこかから現れてくる真実を知りたいという欲求と、各宗教からの頻繁な接触に、「なんでだろう?」と不思議に思っていたのです。
それで、自分の精神的内部はどうなっているんだろう?と、昔から探る癖のようなものがあったので、啓示や理由の付かない奇異な現象が現れる事もありました。
かつてのある朝、耳がとても痒くて目がさめました。
なんだろうと思って確かめると、顔中が濡れていて、それが耳にまで入って痒みとなって眼が覚めたのです。
気づけば、なんと枕が絞れば水がしたたる程に濡れていました。
それは涙でした。
眠ったまま、バケツで水をかけたほどに涙が流れていたのです。
夢を見ていたわけでもないのに。
その時、わたしはどこに居たのでしょう。
何があったのでしょう。
今でも理由はわかりません。
ただ、その時の目覚めが、とてもとても爽やかだったのを覚えています。
そして数十年、内観途中に突然クンダリーニが起こり、恐れの故にもがき、失敗した後、程なくして自分を手放せざるを得ない状況、その巡り合わせに、為すすべ無く、最後の最後の拠り所、神に全てを委ねたのです(注1)。
意識的に精神を集中してどうのなんて事はしていません。
ただ、その最後の拠り所、それだけが真実なのだという、直観的理解によってそれに飛び込んだだけです。
飛び込んでいいんだと思った瞬間、引き込まれたという感じです。
それから徐々に、わかりたいと思う事が、次々にわかって行き、聖書の内容も、仏典の真理も、最初から知っていたようにわかってしまったのです。
マハルシや、マハラジ、クリシュナムルティ、聖典ギータ、エックハルトの言葉に触れたのはその後からです。
それは面白いほど共感でき、わかり、頷きながら理解できました。
特にエックハルトの体験は、まるで自分と同じではないかと、ほんとうに驚愕の思いでした。
それよりも何よりも、このハートの泉から湧き出す至福感が、わたしから戦う骨を抜き取ってしまったのです。
エックハルトも、きっとそうなのです。
なんでも許せる。
なぜなら、何も間違っていないのだから。
そして、この至福感こそが、愛そのものの波動なのだと知りました。
ですから、不均衡や、違和感など感覚する余地などありません。
神を思えば、すぐに引き込まれます。
俗世に僅かばかりの愛の場面に触れると、そうしようと思う事も無く、神は呼びかけてきて、わたしを泣かせてしまいます。
それはまるで胸を掻きむしりたくなる程に。
その時はきっと、「わたし」という自我が見ているそれを、神自らも見たくてそうしているのだろうと思う事にしています。
いつだって、今死んでもぜんぜん普通にそれでいい、そのように思っています。
死ぬ時にしか、人は死ねないし、死ぬときは約束が(死ぬと言う定めが)成就される時だから受け入れられます。
まったく、自分に執着する事も無く、ただ「在る」状態。
何かがわかる事よりも、この神と一体で在る事、この無罣礙(むけいげ)(注2)で、自由な自分。
これで居られる事が、我々の本来の在り方だと思うのです。
たぶんKZさんの今の目標というか、覚醒というもののアウトラインからは、かなり開きがあるでしょう?
それでも、これが真実なのです。
何かがわかる事よりも、この「ひとつ」この「在る」と不可分の状態である事が、今、世界を創り出している「人」にとっての覚醒なのです。
不均衡?不安定?アンバランス?
そのような身体的、不整合的感覚になる人もいらっしゃるのかも知れませんね。
わたしの場合は、本当に幸運でした。
わたしはこれになる前は、幼少の頃イエスの迫害を受けながらも人々の幸せのために各地を遍歴した物語を読んだのと、成人してからも主に仏教と言っても、中村元先生の邦訳を読んだだけです。
マハルシも、ダグラスも、ニサルガダッタも、他のインドの聖者も、何も読んだ事はないし、知らなかったのです。
それでも、どこかから現れてくる真実を知りたいという欲求と、各宗教からの頻繁な接触に、「なんでだろう?」と不思議に思っていたのです。
それで、自分の精神的内部はどうなっているんだろう?と、昔から探る癖のようなものがあったので、啓示や理由の付かない奇異な現象が現れる事もありました。
かつてのある朝、耳がとても痒くて目がさめました。
なんだろうと思って確かめると、顔中が濡れていて、それが耳にまで入って痒みとなって眼が覚めたのです。
気づけば、なんと枕が絞れば水がしたたる程に濡れていました。
それは涙でした。
眠ったまま、バケツで水をかけたほどに涙が流れていたのです。
夢を見ていたわけでもないのに。
その時、わたしはどこに居たのでしょう。
何があったのでしょう。
今でも理由はわかりません。
ただ、その時の目覚めが、とてもとても爽やかだったのを覚えています。
そして数十年、内観途中に突然クンダリーニが起こり、恐れの故にもがき、失敗した後、程なくして自分を手放せざるを得ない状況、その巡り合わせに、為すすべ無く、最後の最後の拠り所、神に全てを委ねたのです(注1)。
意識的に精神を集中してどうのなんて事はしていません。
ただ、その最後の拠り所、それだけが真実なのだという、直観的理解によってそれに飛び込んだだけです。
飛び込んでいいんだと思った瞬間、引き込まれたという感じです。
それから徐々に、わかりたいと思う事が、次々にわかって行き、聖書の内容も、仏典の真理も、最初から知っていたようにわかってしまったのです。
マハルシや、マハラジ、クリシュナムルティ、聖典ギータ、エックハルトの言葉に触れたのはその後からです。
それは面白いほど共感でき、わかり、頷きながら理解できました。
特にエックハルトの体験は、まるで自分と同じではないかと、ほんとうに驚愕の思いでした。
それよりも何よりも、このハートの泉から湧き出す至福感が、わたしから戦う骨を抜き取ってしまったのです。
エックハルトも、きっとそうなのです。
なんでも許せる。
なぜなら、何も間違っていないのだから。
そして、この至福感こそが、愛そのものの波動なのだと知りました。
ですから、不均衡や、違和感など感覚する余地などありません。
神を思えば、すぐに引き込まれます。
俗世に僅かばかりの愛の場面に触れると、そうしようと思う事も無く、神は呼びかけてきて、わたしを泣かせてしまいます。
それはまるで胸を掻きむしりたくなる程に。
その時はきっと、「わたし」という自我が見ているそれを、神自らも見たくてそうしているのだろうと思う事にしています。
いつだって、今死んでもぜんぜん普通にそれでいい、そのように思っています。
死ぬ時にしか、人は死ねないし、死ぬときは約束が(死ぬと言う定めが)成就される時だから受け入れられます。
まったく、自分に執着する事も無く、ただ「在る」状態。
何かがわかる事よりも、この神と一体で在る事、この無罣礙(むけいげ)(注2)で、自由な自分。
これで居られる事が、我々の本来の在り方だと思うのです。
たぶんKZさんの今の目標というか、覚醒というもののアウトラインからは、かなり開きがあるでしょう?
それでも、これが真実なのです。
何かがわかる事よりも、この「ひとつ」この「在る」と不可分の状態である事が、今、世界を創り出している「人」にとっての覚醒なのです。
(注1)「最初期のエピソード集」(2019-04-10掲載)参照。
(注2)無罣礙(むけいげ): 般若心経の中にある言葉。何も妨げるもののない自由な心の状態のことを指す。
[読者KZ]
どうもありがとうございます。
私は、社会的なモノがうまく手に入らないので、
「覚醒」というモノを手にしたかったのですね。
エゴが別のモノを欲しがった。
外の代わりに内だと思っていた方向に手を伸ばし、
外のモノを掴むのと同じ要領で手に入れようとして失敗した、
そんなふうに感じました。
愛も感謝も、正直、私には分からないですね。
何となく息苦しくて、束縛に感じます。
親との関係でできた概念で理解してるだけだからですね。
今のまま、普通の生活を普通にしていく方向がいいですね。
一度全部止めてみることにします。
意識を、与えられているものに向きを変えて、
そこで生活していこうと思います。
私は、10年ほど、今・ここ、内だと勘違いし、
外・想像上の未来を指向してきたようです。
日常をおろそかにしすぎてきました。
思い切ってお尋ねしてよかった・・・。
本当にどうもありがとうございました。
私は、社会的なモノがうまく手に入らないので、
「覚醒」というモノを手にしたかったのですね。
エゴが別のモノを欲しがった。
外の代わりに内だと思っていた方向に手を伸ばし、
外のモノを掴むのと同じ要領で手に入れようとして失敗した、
そんなふうに感じました。
愛も感謝も、正直、私には分からないですね。
何となく息苦しくて、束縛に感じます。
親との関係でできた概念で理解してるだけだからですね。
今のまま、普通の生活を普通にしていく方向がいいですね。
一度全部止めてみることにします。
意識を、与えられているものに向きを変えて、
そこで生活していこうと思います。
私は、10年ほど、今・ここ、内だと勘違いし、
外・想像上の未来を指向してきたようです。
日常をおろそかにしすぎてきました。
思い切ってお尋ねしてよかった・・・。
本当にどうもありがとうございました。