わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

思考の支配者【完全版】 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この記事は、以前掲載した記事「思考の支配者」(2015-11-02掲載)の完全版になります。以前の記事は、私が手書きでノートに写したものを元にしており、内容は同じですが、行替えの仕方が私流になっています。今回の記事は、Hさんからいただいたオリジナルのコピーですので、「完全版」としました。また、この記事に付属していたコメント欄でのやりとりも最後に付け加えておきました。

 

思考の支配者

 

思考を止めきれるなら。

見えるものに、聞こえるものに、何も定義を貼りつける事無く、ただ見ているのです。

そのとき。

ありのままが見え、ありのままが聞こえているでしょう。

それは、完全に「今」にいるのです。
これは、完全に「ここ」を感覚しているのです。

思考は、「今」「ここ」から、あなたを既知の記憶の時に、記憶の場所に連れ出そうとします。
思考の言いなりになるから、いつでもこの瞬間の「今」「ここ」を見たことが無かったのです。

思考を止め、見えるものを見えるがままに見るのです。

そうするなら、過去でもなく未来でもなく、「今」にいるのです。

我々は意識して、そのような状態に入る事ができます。
しかし、時として全く意識より前に、作為なくその状態が現れる事があります。

例えば、大自然の、初めて見る美しい景色に眼を奪われる時。
その神々しさに我を忘れ、見入ってしまう時。
過去に入る事も無く、ただ「今」見えている眼前の絶景に心を奪われているような時です。

少ししてから、「ああ、なんて美しい」という評価が出てきます。

その評価が出てくる前の、新鮮な驚きの時に、思考からはずれ「今を楽しむ」瞬間があります。

そのように何も考えず、思わず、定義せず、評価もする事無く、ただ見えているまま見るのです。

わざわざ遠くに出かけ、大自然の懐に入らなくても、普段の街並み、あるは部屋の窓から眺める風景であっても、そのように「あるがまま」見るのであれば、なんと見え方が違って見える事でしょう。

いつものように見ていながら見ずに、常に意識は過去をさ迷っている状態とは違います。
勝手に起こる思考のノイズを聴きながら見ている意識感覚とは違います。

しっかりと「今この瞬間」を見ているのです。

それは瞬間瞬間、いつも新しく、初めて現れる世界です。

身体の眼はそれを見つつ、内なる眼は内なる絶対者に集中しているなら、見ている「わたし」は消えています。
その時、全てが「わたし」になっているのです。

「わたし」と世界との境界が消え、あるもの全てがただ、ひとつの存在になっているのです。

「わたし」という主体も無く、世界という相対の客体も無く、ただ、在るものとして、ひとつを感覚できるでしょう。

そうであるなら、「絶対者」という根源から、「現れ」という見えている位置まで、完全に連なる真理に気づくのです。

そうして、「絶対者」以外の、「現れ」までの全てがマーヤ(幻想を見せる力)によって創造、解体、再構築されている事にも気づくのです。

マーヤが産み出し、マーヤが死へと送り届け、再びマーヤによって生み出されるのです。
それだから、マーヤはあらゆる存在の母(マー)だと言うのです。

今まで個として有ると思い為していた「わたし」でさえ、マーヤなのです。
それだから、「絶対者」なる根源にまで意識を繋げるなら、「わたし」は消えてしまうのです。

現れはマーヤの力。

全ての母。

偉大なる母。

それだから、ゴータマ仏陀の母は、「マヤ」と名付けられているのかも知れません。
それだから、イエスの母は、「マリヤ」と名付けられているのかも知れません。

「絶対者」たる根源は父、幻想を産み出す力は母。

太陽を思うとき、光を抜きにして考えられないように、光を思うとき太陽を抜きにして考えられないように。
「絶対者」とマーヤは共に神であり、その作用力、精妙な聖なるエネルギーは純粋な慈愛なのです。

「わたし」は、ほんとうは産み出された幻であり、ほんとうは神の中に抱かれている事を知るべきです。
そのようなもので出来ている我が身の中に神が遍満している事を知るべきです。

神の中にあなたが抱かれていて、あなたの中に神が在るのです。

そうであるなら、あらゆるものが神自身である事を悟るでしょう。

そうしてより一層、世界が違って見えていく事を楽しむでしょう。

なんと喜ばしい栄光に、世界は包まれているのでしょうか。

所有や虚栄や憎しみ、恨み、悲しみ、不安、恐れ、野望、そのようなチッポケな洞窟に住んでいないで、解放するべきです。
あなたの内なる神を、そのハートに解放してあげてください。
洞窟の壁を壊して、そのハートに神を満たしてください。

そうするなら、もう何も心配などしなくていい。

満ち足りた幸せと安らぎ。

それを味わい続けるでしょう。

思考の奴隷をやめ、思考の支配者になればいいのです。
 
2013-01-23
 
 
 
 
[読者KT] 初コメントです。
花岡さんはじめまして。ブログ、いつも、何度も、読ませていただいております。 

このブログの文脈から伝わってくる安堵感にやられて、すっかりこのブログのリピーターです(笑)はじめてコメントさせていただきます。特に内容があるわけではなくて、ただ、感想まで。 

花岡さんの紡ぐ言葉は、このエントリもですが、すごく詩的。ほんと、うっとりする。朝起きてすぐ、仕事の合間、夜寝る前、なぜか読んでしまいます。特定の宗教の信者ではありませんが、聖典とかってたぶん、こういうことなんだろうなと思います。 

マーヤとか神とか。 
そんな単語が嫌に聴こえなくて、すんなり耳に入ってくるのってなんでだろう。不思議です。 

同じ言葉で同じことを語られていても、あぁ、この人の言ってること本当だわ・・・ってわかります。なんでだろう?嘘偽りの類の匂いが一切しないからかもしれません。この「わかる」感覚って説明しずらいですけど。 

最近、このブログで再三仰っているようにハートに意識をもっていき、日常を送るよう心がけています。 

練習のような気持ちでやっていたら、本当に核みたいなキューとふくらむところがあることに気づいたり、思考と意識の違いが明確にわかるようになったりさまざまな発見があって嬉しいです。 

メソッドというか、そういう類は嫌いなんですけどね(笑) 


・・・すみません、とりとめもなくつらつらと書いてしまいました。普段は読んでばっかりなのですが、なぜか今日はコメントしたくなったので。 

記事更新、いつも、たのしみにしています。 

感謝を込めて。 



[花岡] Re: 初コメントです。

その「わかる感覚」を大事にしてください。 
それに気づける人さえ希なのです。 
やがてそのハートに、味わった事の無い反応を、喜びを感じるようになるでしょう。 

素性の良い人はそうなって行きます。 

素性の良いとは、何処に住んでいるとか、親が親類縁者がどうのとか、そういう事ではなく、今までの魂の遍歴において触れてきた理解を内に持っているという事です。 

つまり、過去の学びを無駄にしていなかったという事です。 

それが今生でも役に立っていくでしょう。 

「わかる感覚」がナビゲートしてくれます。 
はっきりとした言葉にしなくてもいいのです。 
「わかる」というのは、言葉を超えているのですから。 

これからもどうぞよろしくお願いします。 

 

[読者KT] 答え

花岡さん、こんにちは。 
レスありがとうございました。 

感想だけ・・・と思ってましたが、どうしても質問したいことがあります。厚かましくて申し訳ないのですが、どうか、胸を借りさせてください。 


僕達が捜し求めていた、「本当の自分」「自己の本質」きわゆる「私って何だろう?」問題の答えである「何」って、その「自分・私感覚」を認識させている「これ」・・・ですか? 

その僕が表したい「これ」、たとえば「時間など存在しない」「今ここ」といった表現や、般若心経で表されているような、生まれもしない、死にもしない~といったのもそうですし、何と言うか、古今東西、様々な人が指し示してきたもの、言われてきたものの性質と完全に合致してるんです。 


いや、「これ」のことを文字にして、言葉にして、さらに質問するということ自体ナンセンスなのは重々わかっています。 

もっと言えば正直に言うと、質問をしておきながら、自分の理解に確信がないかと言われれば・・・それも嘘になるというのが本音でもあります。 

なぜなら、それはこれを書いているいまも、ここに、どうしようもなく、事実としてあるので。。 


「じゃあ答え合わせみたいな質問をするんじゃないよ、答えは外から与えられるものとでも?」という気持ちもすごくあります。 

ただ誰にも通じない、話せない、理解してもらえない「本質だけが欲しい」というわけのわからない欲求に苛まされ、なぜかこのような哲学的な世界ににベクトルに向かされ孤独な作業をずっとやってきた今までの人生があって、それが正直、苦るしかったから、この「理解」を理解のある人に一度晒したいという気持ちがあります。 

このような事は誰に話すというものでもない、独りで内側を掘っていくものと思ってきました。その反面それでも一度、聞いてみたいという気持ちもありました。 

そんな思いがあったで、ナンセンスだとわかりながら質問させていただきました。何かこの文章をみて思うところがあればレスいただけると、嬉しいです。 

あとこれは先のコメントに関してですが、ありがとうございます、日増しにハートから甘い、愛おしいような感覚がちょっと、苦しいくらいに湧いています。 

仕事をしていてもふとした拍子にそのスポットを探ると、感じることができます。なんだか給湯器みたいですね。 

これで充分救われているんですが。 

長々と失礼いたしました。 
ありがとうございます。 
 
 

[花岡] Re: 答え


「これ」で充分救われているのは、とてもよくわかります。 
「これ」は救いであり、喜びであり、智慧でもあります。 

今まで生まれてこの方、病によって一度も光を、世界を見た事の無い人が手術によってある日世界を初めて見る事ができた。 
「これ」は、その初めて見るを味わった眼です。 

湧き出てくる喜び、純粋な愛は、その光です。 

眼も光も創り出している実体、それが真我にあり、眼を与えられ光を与えられている自我のわたしがあります。 
全てが真我によって創り出されているのであれば、自我のわたしも彼によって、彼の要素を変化させて表現されています。 
そうであるなら、わたしという者は、彼と離れてはいません。 
結局、彼はわたしである、となります。 

しかし、これは答えではありません。 
ただの言葉による思考です。 

一切の言葉を、思考を差し挟む事無く、内なる感受能力が知覚する崇高な理解、それは「わたし」とか「自己」とかどうでもよく、ただ「在る」にあるとき、それが真実のわたしなのだと思います。 
五つの次元で構成される現象世界では捉えられない「在る」であるけれど、次元を超えてそこに行く事はできるのです。 
忘我の自己です。 
もちろん再び現象世界に戻ってきます。 

さて、 
問題の答えである「何」って、その「自分・私感覚」を認識させている「これ」・・・ですか? 

認識させているそれは、マーヤです。 
マーヤが活動するフィールドが自我意識です。 
「わたし」も「真実のわたし」も、マーヤです。 
しかし、一瞬の閃光が走るように、気づきます。 
全てが、わたしです。 

そのように言葉による思考による推理ではなく、瞬間それがわかるのです。 

わたしのもの、など何もないけれど、全てがわたしのものなのです。 
 
 

[読者MA] ありがとうございます

花岡様 KT様 ありがとうございます。 

今の私はKT様のコメントに共感するところがあり、全てに感謝をしている毎日です。 

未だ木漏れ日の中にいますが、、花岡様の言葉でこのままでいいのだとわかりました。 

わかる感覚を大事に、苦しみさえもありがたく思える日々がずっと続くことを願っております。
 
 

[読者M] 暖かい感じ

こんにちは。 

思考の渦に巻き込まれていましたが、 
どうせ死ぬときは死ぬ、死なないときは死なない 
どうなってもいいじゃないか 
恐れって幻なんだろう?と開き直ったら 
思考を観察できるようになってきました。 

このブログを読んでいると、 
体の中からお茶をこぼしたように 
胸や背中がじゅわっと暖かくなります。 

このブログを読んで気付きに至る人 
気付きのヒントになった人が 
たくさんいらっしゃるんですね。 
本当に喜ばしいことで、花岡さんに感謝です。 
私もたくさんのヒントをもらっています。 
いつもありがとうございます。
 
 

[花岡] Re: ありがとうございます

なんと喜ばしい事でしょう。 

遠くなく、目覚めは起こると思います。 

心からの感謝は、愛そのものです。 

智慧は、わかる感覚を目指して押し寄せてきます。 

 
 

[花岡] Re: 暖かい感じ

Mさん。 

開き直りは大切です。 
前を向いて歩いていく原動力になります。 

たびたび訪問していただき、ありがとうございます。