わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

神と相互リンクするのです(欲望、自由意志、神の意志)【完全版】  花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この記事は、以前に掲載した記事「神とリンクしている」(2015-12-13掲載)の完全版。Hさんからいただいたこの記事は、タイトル、行替えの仕方などがオリジナルの記事のまま。タイトルのカッコ内は、私が本文から抽出したキーワード。コメント欄での読者とのやりとりも最後に付け加えておいた。執拗に質問していく読者たちと、それに誠実に答えていく花岡さん。そのやりとりが本文の理解を大いに助けると思う。「セッションなどはしないのか?」という読者の質問に対する花岡さんの答えが、いかにも花岡さんらしいもので興味深い。

 

神と相互リンクするのです

 

多分、みんな自分は自由に意志を持ち、その意思に従って行動していると思っているでしょう。

自分の意志は全く自由だと思っているのです。

「わたしがやっている」と思うのです。

でも、自分の意志どおりに事が運ぶ事は、あるでしょうか?

いくら理想を掲げても、そうなっては行かない。
お金たくさん欲しいと思っても、そんなにうまくは行かない。
病気になんかなりたくない、と思っても、病気になって行く。

もっと美人に、イケメンに生まれたかった・・・けど、そうじゃない(これは単なる憶測です)

結局、自分の意志は、反映されてなどいないではないでしょうか?

自分の行動、意思、それが何に基づいているのか・・・

それは、欲・願望・虚栄、そのようなものによって湧いてきていませんか?
しかも、そんな事さえ自分は意識する事無く、自動的に為されていくのです。
コンビニでお弁当を買う時でさえ、意思が選んでいるのではなく、欲が選んでいるのです。

しっかりと欲によって行動意思を起こしているのに、その事に気づく事がないのです。

また、意識的に強烈に「自分がやっているんだ」と思い続けても、同じです。
思い通りに行きません。

何一つ、自分を含めた世界のあれこれを、コントロールできないのです。

意思が欲によって決定選択されようとも、それは全く悪いのではありません。
世界の経済は、欲を満たすという原理原則に基づいて、見事に成り立ってるのです。
それが結局は、人々の生活の用に供しているのです。

起こさせる根本によって起こる事が起こり、それに反応する素因を人々が一様に持っていて反応し、それを自分の意志だと疑わずそれに従って「わたしがやっている」と思い為し行動させられる。

なんと見事な神の御業でしょう。

欲とはつまり、人が生きるための大切なコントロール装置であり、それがあるから生きていたいのです。
しかし、そんな事を人は深く考えません。
それはどんな事も「わたしがやっている」と思い為す根本的暗示に皆がかかっているからです。

それだから、とてもスムーズに、「わたしがやっている」と思える社会活動が流れて行くのです。

たとえば「過剰欲」によって、犯罪や狂気が一部に起こっても、それにうまく対応した「わたしがやっている」が現れていくのです。

しかし、「わたしがやっているのに」なんでこう思い通りにならないんだ・・・という場面にもしょっちゅう向き合います。

どんな場面でも「わたしがやっている」が、基本にあるから、悩み苦しみ、悔しい思い、悲しい思いに陥ります。
「わたしがやっていた」事実などほんとうは無かったのにです。

わたしは自由意志で行為しているという、その事が、「実は不自由そのものなのだ」と、みなさん、いつ気づいてくれるでしょうか?

「自由意志」という観念が、まったく「不自由」を生んでいるのです。

起こる事、見える現象、社会の流れ、世界の成り立ちが全て、神が起こしてるという真実を受け入れるのです。

行為者は神であって、わたしはただの道具に過ぎない。
わたしは欲によって、リモートコントロールされているだけだ。
それを、自分の自由な意思だと思い込んでいただけだ。

それを見事に悟ったなら、もう「自由意志」に責任など持たなくてもいいのです。

その事こそが「不自由」を「自由」に変えてくれるのです。

全て神の御業、御心、思し召しによるものであり、生きていくための基本的欲をエゴが支配しているから見えなかったのです。

基本的欲もエゴも、神から頂きました。
それは体験から学ぶための、文房具に過ぎません。
わかったら、もう意味を成しません。
神にお返ししましょう。

欲もエゴも、すべて、神に差し出すのです。

行為者は神、それ以外は全て、神の道具。

自由意志も、それ以外の意志も、もうどうでもいい事です。

神の道具である自分を、喜んで受け入れられたら、その時からもう、神と太い絆で結ばれます。
この身を持っていながら、いつだって神とリンクしているのです。

そのハートで神とリンクされているのです。

なんという幸せな事でしょう。

嬉しさで、顔がほころんでくるでしょう。

ハートを通して、神と相互にリンクしているのです。
それを感覚できますか?
してください。

絶対それがわかるはずです。

神はなんと偉大で素晴らしいか、また、そのような言葉で賛美しきれない程大きな存在であるかが知れるでしょう。
「わたし」など、ただの点です。

「わたし」も含めて、全ては・・・神の中に在ったのです。
 
 
2013-04-05
 
 

[読者M]

前回は詳しい説明をありがとうございました。ひとつひとつ自分の思い込みに気付けているような気がしています。 
このブログを見ていると子供の頃から漠然と胸に抱いていた憧れや喜びや祈りが具体的に文章になっているような、そういう感覚になります。 

>しっかりと欲によって行動意思を起こしているのに、その事に気づく事がないのです。 
本当に気付いていませんでした。欲が私の意志をすべて作りだしています。そうですよね、この欲は私が作った訳ではなく、元々そう生まれただけですね。私も欲もエゴも神様の道具だとは、なんて素晴らしい事なんでしょうと感激です。神の道具!すべて御心のままですね!なんて喜ばしい!
 
 

[読者TM] こんばんは。

初めまして、TMと申します。 
記事をいくつか読ませてもらいました。 
私は、悟るとは違うと思いますが、大きな自己の視点や胸からあふれ出る愛や恍惚感等の経験を持っています。 
それ故になのか、一般の人たちとの価値観や感覚が理解できず、小さな時からなんで?と考えて考えて、それでも理解できない苦しみを持ち続けてきました。 
でも、最近エックハルト・トールという人の動画を観る機会があって、それから悟りというものにすごくインスピレーションや恍惚感が蘇るような感覚を感じました。 
でも、それでもみなさんが言ってるようなワンネス等を経験できず、この感覚をなくしてしまいたくないという恐れを持っています。 
できれば、この感覚を深めていきたいと思っています。 

それで、質問があるのですが、二つよろしいでしょうか? 
一つは、価値観や感覚が一般と違いがあり、多くの人のようには行動できないことが多いのは、大きな自己などの経験があるからなんでしょうか? 
会ったこともないのに、難しい質問をすみません。 
何か、ヒントが頂けたらと思いさせてもらいました。 

もう一つは、ある悟った人に言われたのですが、この世界のものはただ情報に過ぎず、情報を知るためにこの世界にきた、そして、全てが愛だと言われました。 
でも、私にはどうして残酷なことが神の情報にあるのか、それがどうしても理解できません。 
例えば、動物の家畜の現状のひどさや動物実験や、戦争やひどい拷問等です。 
それらは、ただ経験するためにあるのでしょうか? 
それらも、ただあるがまま受け入れるということなんでしょうか? 
できれば、お答えお願いします。 

 

[花岡] Re: こんばんは。

TMさん、はじめまして。 
コメントありがとうございます。 

> 一つは、価値観や感覚が一般と違いがあり、多くの人のようには行動できないことが多いのは、大きな自己などの経験があるからなんでしょうか? 


ほんとうに申し訳ない事ですが、よくわかりません。 
あなたの世界で起こっている事です。 
そして、価値観、感覚がなぜ違うのか、その理由を知る事が、たいして重要とは思えません。 

ミルフィーユを味わっている時に、なぜわたしはミルフィーユを食べているの?などと、思う必要があるでしょうか。 
ミルフィーユを食べながら、和菓子とかプリンとかの味ばかり考えていなければならない理由があるでしょうか。 
ミルフィーユとはこういう味わい、このような手触り、このような喜び、このような満足、これなんだ!、これがミルフィーユなんだ!という理解に進むべきではないでしょうか。 

重要でない事柄に、とっかかっていてもしょうがないないので、みんな違うのだと思いましょう。 
実は、みんながそうじゃないのに・・・と思いながら妥協してたりするのです。 


> 私にはどうして残酷なことが神の情報にあるのか、それがどうしても理解できません。 


わたしは、悟った人というものがどういう人なのかはわかりませんので、その悟った人に伺うのが最もいいと思うのです。 

神の情報というのは、その方がおっしゃったのでしょうか。 
どうにもわたしには未熟なために理解が及びません。 

神はただ現しているだけであって、それに意味づけしているのがあなたの中の「わたし」です。 

残酷なことが神の情報(?)にあるはずがないのですか? 
では、非残酷な事は、神の情報にあるのでしょうか。 

神は情報を提供しているのではなく、あなたの中の「わたし」が、残酷だという評価をしているのだと思うのです。 
あなたの中の価値基準、ものさしがそのようであるからです。 
神はなんのミスをする事も無く、現す事を現すだけです。 

あなたが、残酷と評価し、残酷と非残酷との違いを創り出しているのです。 
残酷を知らないうちは、非残酷も知り得ないからです。 
そのようにして、ただの現れに、意味づけして世界を二つに分けるのです。 

残酷も非残酷も、ただあるだけの現れに、偏りと一方の偏りの間を、無数に、無限にレベル分けし、そのうちのどこかを指しているだけです。 
無数に分けたレベルポイントに、「こだわり」という、フックを掛け、ロープでぶら下がっているのです。 

与えられたなら、受け取るしかないでしょう。 
ところが善い悪いの評価によって、受け取れない、許せないから、苦しむのです。 

現れに、残酷だという評価意味づけをしているのは、あなたの中の「わたし」です。 

ここに、腹をすかせたライオンがいたとして、彼が一頭のガゼルを襲い、まさに今、その喉笛をかみ切ろうとしています。 

ガゼルにとっては残酷、ライオンにとってはラッキー。 

しかし、ガゼルは一瞬のすきをつき、ライオンの牙から逃れました。 
ライオンは最後の力を使い果たし、死に絶えました。 

ガゼルにとってはラッキー、ライオンにとっては残酷な自然。 

でも、そのような命たちの営みが、現れているだけです。 


[読者TM] こんばんは。

返信、ありがとうございます。 

そうですね、私の場合は妥協というレベルではなく、自己否定さえして周りや社会的感覚、常識を自分に押し付けてきました。 
それでも、馴染むことはできず苦しんできました。 
ミルフィーユという、わかりやすい説明をありがとうございます。 
私は、理解できないことがあると、どうしてもわかるまで考え続けてしまう癖があって、なので今までは感覚などの違いやなぜ違うのだろうという疑問が私の中の大半を占めていました。 
でも、説明してもらえてなんだか考えなくてもいいのかなと、新しい視点を知れた感じがします。 

それと、残酷のことに関して、文字のみのやりとりなので伝わりにくいかとは思いますが、悟った人と同じことを言われてると感じました。 
善悪などは本来はなく、私が意味付けして喜怒哀楽を作り、善悪も作り、残酷非残酷も作っているんですね。 
それは、今の私にはなかなか理解するのは難しいです。 
その悟った方も、その感覚は悟らないと難しいだろうと言われていました。 
でも、しつこいようですが一つ伺わせてください。 
私たちも、神が現わしたものであるなら、なぜただあるものに判断基準を作りだすようなことをされたのでしょうか? 
お答えいただけると、有難いです。 
よろしくお願いします。 

 

[花岡] Re: こんばんは。

TMさん、説明下手でごめんなさいね。 

> 私たちも、神が現わしたものであるなら、なぜただあるものに判断基準を作りだすようなことをされたのでしょうか? 


判断基準は、もちろん神が創りだしたものではなく、人が創りだしているのです。 
自分の都合に合わせた基準です。 
その都合というのが、保身、自己保存、「わたし」を守る作用からくる基準です。 

つまり、エゴがある以上、それはどうしても創りだされるのです。 

人から押し付けられた基準、刷り込みによる基準も、自分に都合がよいものは、違和感なく使われていきます。 

現れる世界、現象は、実はその基準に働きかけて物事を進めて行くように企られています。 
基準が真であるか、偽であるか、確かな洞察をした者だけが、真実を知る事となり、洞察する事無くエゴの言いなりになっている者は、つまり自己保存の暗示を解けない者は、真実を知る事ができません。

知ったなら、まったく生き方が変わります。 

しかし、知らなければならないというものでもありません。 

また、知るように誰もが導かれていきます。 

どうであれ、世界の現れは、誰が真実を知ろうが知るまいが、それぞれにベストマッチした状態で整合されて行きます。 

仮に、あなたが真実を知り、生き方が変わろうとも、その変化は全てに及んで整合されて行きます。 

実は、とても信じられない事でしょうが、世界の中心は、あなたなのです。 


[読者TM] こんにちは。

返信、ありがとうございます。 

とても、難しいですね。 
読んでると、細かなところで、いろんな疑問が湧いてきて、これはどういう意味なのだろうと考えてしまいます。 
できればでいいんですが、もう少し具体的に教えてもらえると助かります。 
でも、何度も答えてもらって悪いので、気が進まなかったら気にしないでください。 
すみません。 

花岡さんは、セッション等はされていないのでしょうか? 

 

[花岡] Re: こんにちは。

とても簡単なのですが、難しいですよね。 
難しいと言っているのは、自分が行為していると主張する、その主体、「わたし」です。 
その人には、ぜったいわかりません。 
その人の事を、別名でエゴと申します。 

エゴを捨てる事が、わかる状態になる必須条件です。 

エゴを捨てるというのは、エゴを消し去る事ではありません。 
エゴとは別の存在に気づき、そちらの方の立場に立つ事です。 

たったそれだけの事です。 
それだけで、あらゆる「わからなければならない事」が、わかってしまいます。 

これは教えられてわかる事ではありません。 
だから、学問でも知識でも伝承でも無いと、いつも言っているのです。 

自らわかってしまうのです。 

具体的にと申されましても、そもそも、何を知りたいのでしょうか? 
その事が、明確に、あなたの中にあるでしょうか? 
それは、悟りですか? 
そのようなものが、何かの役に立つのですか? 

悟りなど無いのです。 
それだから、悟りなのです。 

何言ってるのだ?と思うでしょう。 

このパズルがわかるためには、どうしても神に会う必要があるのです。 

神に会うためには、一切のエゴ、「わたし」を捨てる必要があるのです。 
エゴを捨てるために、苦悩を飽きるほど、嫌というほど味わう必要があるのです。 

みんなそうやって、神を知ったのです。 

そうでない人は、たぶん今、幸せなのです。 
幸せは、神の本願そのものです。 
つまり、そのままでいいのだという事です。 

頭の良い人ほど、わからないのです。 
なんの能力も無く、ただ受け入れるしかない人が、悟るのです。 

ますます難しくしてしまったでしょうか? 

さて、セッションについてですが、たぶん誰かが教える役目をする必要はあるでしょう。 
しかし、それは花岡修平という人には無理な事です。 

セッションをするには、お金がかかります。 
手伝ってくれる人に日当も払わなければなりません。 
それら費用を参加者から徴収しなければなりません。 

しかし、神の真理を伝えるために、世俗の最も穢れた、お金というものを持ち出す事は、わたしには出来ないのです。 
世俗の見返りなど、わたしは欲しくはないし、お金と聞いただけで沈んでしまいそうになります。 

かと言って、無料でセッションやらリトリートやら、やってあげられるだけの余裕などありません。 

わたしが参加者を募るやり方など考えられません。 
例えば、招かれて伝えるという手法もあるかも知れませんが、介護という献身の務めを放棄できませんのでそれも無理です。 

わたしは、師としての立場には、なれないのです。 
他の賢者、方々にお任せ致します。 

TMさんは、身近に悟り人がいらっしゃるという事ですので、なんと恵まれている事でしょう。 
どうか導かれますように。 



[読者TM] こんばんは。

返信、ありがとうございます。 

私の場合は、逆に働いたように感じます。 
苦しんで苦しんで苦しみぬいたからこそ、私の様な傷つく人がいてほしくないという気持ちから、考えて考えて、もう理性でさえ平和はこないことを知りました。 
だから、その先を求めたんです。 
それは、私の中にもエゴとは違うものがある感覚を知っているからです。 
だから、それを求めずにはいられなかった。 
あの、幸福感や感覚を。 
私のそれが、悟りに繋がるものかはわかりません。 
でも、悟りについて話している人たちの言ってることが、何かを感じさせるんです。 
だから、私は悟りというものを求めているのかなと思いました。 
だけど、そういった気持ちなどもあるんですが、ただ私はあの感覚に戻りたいだけなのかもしれません。 

セッションについて、了解しました。 

根気強く、答えてくだっさってありがとうございました。 

 

[読者MK] こんばんわ

自分も最近になって自由意識というものは存在しないように思うようになりました。 

といっても自分の経験では当然なく、あらゆるマスター達がそう言っているのを聴いて、そうんだろうなぁ、くらいの認識ですが。 

ただアファメーションとかってどうなんでしょう。 

よく、起こる原因は自分の思考にある、とか、現実は自分が創造するとか聞きますが、それってどうなんでしょう? 
花岡さんの見解を伺いたくコメントいたしました。 
 
 

[花岡] Re: こんばんわ


アファメーションは目指すべきものではなく、結果として導かれるものではないでしょうか。 
願望自体が願望を阻むという思考の罠に気付くのは、大切かと思われます。 
また、そのような事に注意力を奪われているなら、もっと大切な何かを見落としているのです。 

起こる原因は、起こるというその事の成就のために、起こるという事が不顕性ながら既に置かれているのであって、過去に何かその元があるとか、人の思考がそのように運ぶとか、いうものではありません。 
起こるという、その事が既に、原因でもあるわけです。 
その成就のために、過去がそうであった・・・というだけです。 

それだから、偶然も、たまたまも、無いのです。 
すべて、それだから間違いなく整合されて、起こる事が起こるのです。 
起こらないはずの事が、起こりようもありません。 

そのような事に、人の思考があれやこれや意味づけし、色付けし、自分なりの現実という幻を見ています。 
これは、このエゴの世界における現実の捉え方という意味です。 

また、別の視点から言うならば。 
自分に用意された、自分に必要な現実が、つまり起こる事が、自分のために既に置かれたのであって、それは間違いなく、そのように運ばれていくのです。 
現実が自分のために創造されていく、という意味合いであれば、自分が創造していると言えなくもないわけです。 

なぜなら、自分に用意された自分が受け取るべき現実であるならば、自分がまずなければならないからです。 
そうであるなら、自分が関与している事は、明らかです。 

しかしながら、自分はほうんとうにあるのでしょうか。 

みこころが、そうなっているだけです。 

現実を自分が創ると思うから変えようと思うのです。 
変えられない現実を変えようとするから、摩擦(苦悩)が起こるのです。 

あるがまま、受け入れるなら、みこころを味わう事でしょう。 

それは、至福であり、甘露の味です。 

足りている事に満足するなら、アファメーションを目指す理由など無くなります。 

 

[読者MK] 度々すいません

花岡さん 

丁重なコメントありがとうございます。 

あるがままを完全に受け入れられたらどんなに幸いか、神の計らいだと全てを受け入れられたらとんなに素晴らしいことか、 

頭では分かっていても、実際、大変難しいです。 

はっきり言ってしまえば 
僕のレベルでは単なる理想論です。 

おそらくその域まで達していたらこんな質問はしないでしょう。 

ちょっと内容が僕には難しいすぎたので質問をもっとシンプルにします。 

実際、質問はいたって単純なのですが。 

例えば癌に犯された人がアファメーションによって完治した経験をもつ人の話をよく聞きます。 

この癌を治したのは、思考の現実化とか、思考が現実を創造する力とか言われている、その力なのでしょうか? 

どうも理解力が乏しくて申し訳ありません。 


[花岡] Re: 度々すいません

答えもシンプルです。 

全ては神の意図に拠る。 
これだけです。 

思考が壁となり、それを見えなくしているのです。 
それで思考が思考に惑わされるのです。 
思考が現実を創る、思考が創造する、そのように倒錯するのです。 

思考の壁を越えて、真実を検証するべきです。 
思考を観察し、思考が何によって現れるのかを見るべきです。 

言葉の使い方、思考の方向性を変えて、人生が変わっていく、病気が改善されて行く、確かにそのような事はあります。 
それでは、自分の思考の在り方を変えて、癌を治癒したのであれば、自分に感謝するのでしょうか。 
それとも思考に感謝するのでしょうか。 

思考そのものが癌を治癒したのではなく、思考の影響をより軽減させる事で治癒力を頂けたのです。 

その人がそのように動いて行ったのではなく、そのように運ばれただけです。 


我々は、いつだって現象世界に暮しているから、疑う事も無く現象世界を享受しているけれど、現れているという事は、現されているから現れているのです。 
そして誰でも、何年か後、現されなくなります。 

 
 

[読者MK]

花岡さん 

このような質問をするのは、現実的に最近、奇跡的にツキがなく、すべては神の御意志だとしても、自分の中で改善するべき点があるのではないか? 
ネガティブな思考が現象世界に影響を与えている可能性はないか知りたかったからです。 
僕にとって非常に重要な質問であることをご理解ください。 
ところで、癌が治った場合、誰に感謝するかと聞かれれば、もちろん神様と答えます。 
しかし、神という観念がない人に聞けば、潜在意識とか、集合的無意識と答えるのではないでしょうか? 

では潜在意識とはなにか? 
それが神なのか? 

しかし、質問がクドすぎるのも花岡さんに失礼にあたるのではと思うのでやめておきます。 


ご回答に感謝いたします。