わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

瞑想と眉間に関係はないと思うのです 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎KTさんから頂いた記事です。

 

瞑想と眉間に関係はないと思うのです

 

瞑想では眉間に集中する、とおっしゃる方がとても多いようです。

たしかにそこは特別な場所であり、見えない意識のセンサーでもあり、意識の放出部分でもあります。

そのチャクラは危険を察知するのがとても得意なようです。
危険を察知して、敏速に反射的に身体への防御信号を起動するように感じます。

人差し指を眉間に向けて、その間を10mmほど近づけて、指先を上下左右少し振ってみると、あるいは指先を回転させてみると、はっきりとした違和感を、反応するのを感じるでしょう。

指先では無く、鋭利なもの、例えばナイフの切っ先のようなもので同じ事をすると、もっと離れた位置からもより強く感じるでしょう。

但し、なんとなくこれは脳と精神の健全に良くないように思われます。
あまり、その実験をなさらないようにしたほうがいいかも知れません。

眉間から意識を飛ばし、特定の誰かを振り向かせるという技は、大きな確率で可能ではありますが(きっと皆さんそうだと思います)、瞑想でそこに集中するという作業が、何に役立つのかは、わたしにはわかりません。

わたしはそのようにはしていません。

ある宗派では、そこから幾らか離れた部分に月輪(がちりん)を観ずるように集中するという修法があるようですが、それが何の効果があるのかも、わかりません。

ある日数、わたしは実際に試し、月輪も観ました。
また、小さな発光点が現れ、細かく動き回った後、グーッと広がったかと思ったら、真昼間の明るさの別の知らない風景の中に居たのです。
驚きのあまり、僅か数秒で現実に戻りました。

その後日から、目を閉じると明暗の幾何学模様が、例えば縞模様とか、不定形の絶えず形を変えるものとかが現れ、その明るい部分が見ているうちに集合して行き、ひとつの完成された何か、機械的な道具のようなものや、家具や、使い道のわからない器具や、様々なものに形を変えていくのが見えました。

あるときは、見知らぬ女性、男性、こども、そのような顔にもなって行きました。
また、知らない部屋の廊下を、どんどん進んでいき、ある程度行き着くと、そこに見た事も無い人工物が置かれているのを見ました。

時には、ただ丸い洞窟のようなトンネルを、ただ進むだけの事もありました。

それらはほんとうにSFチックで、何でこんなものが見えるのだろうと不思議でした。

このような事を聞く読者さんの中には、すげえ!みたいに思われる方もいらっしゃるかも知れません。
あるいはまた、似たようなものが見える方もおられるかも知れません。

だけど。

だからどうなのよ?

って事な訳です。

眉間に集中するという手法は、えらくエネルギーを消費する、しんどい作業でもあります。
しかも、それは人の救いに、何も寄与しません。

見知らぬ人々の顔が次々と現れたり、強烈な光が見えたり、未知なる未来的な道具や機器が見えたりしても、それは意識、思考が、松果体に映像を作り出したに過ぎないのです。

全て、わたしの自我、そのエゴによって見えるそれらを作り出して見ているだけです。
今ではそんなものどうでもいいし、見ようと思う事もありません。

瞑想は、「わたし」という意識が消え去り、ただ静寂でありながらも、そこにはっきりとした存在感、あるいは実体感、ただ在る以外ではない状態である事に気づいており、なおかつ安らぎや幸せや愛を感知していて、思考想念という騒がしい動きが無い状態に留まる事です。

それは眉間に集中するという、しゃにむに行う極めて自我的行為によって入れるものではありません。
瞑想は、何か思いもよらぬものを見る事ではありません。

眉間のチャクラは、そのような用途には向きません。
そこは識別能力のようなアクティブな事に向くチャクラだから中枢の近くにあるのです。

そこから解放感は訪れません。
至福も訪れません。

「在る」に通ずる門は、ハートです。

全てそこから現れ、天頂を貫いて展開されます。

ハートで「在る」を、感覚を超えた感覚で感覚しなければなりません。

一切思考を鎮め、ハートを観じ、そこに沈み込み、かつその広がりを観て、その広がりが無辺に及ぶのを観てください。
エネルギーを消費する行為ではなく、手放し解放して行く事で、穏やかにそれに入ってください。

あなたの実体はそこに在ります。
それ以外は、全て、あなたの頭として理解しなければなりません。

宇宙を宇宙として見るのではなく、あなたの身体そのもの、あるいは頭脳そのものであると観なければなりません。

現実とは、その宇宙に、あなたが体験すべき、形態を持ち名付けられる物質相が見えていくだけです。

もちろん、その物質相が織りなす世界は意味なく見ているのではなく、教えられているのです。
そのあなたの実体、「在る」が、真実尊いものを教えるために、見せているのです。
人生を通して、人は学問では知り得ない事を知って行きます。
そのような事が、あなたの真我(在る)から波生し、自我に及んで展開され、自我が意味づけして行く錯覚や思い込みの交差の中で、答えに辿り着いて行きます。
その過程が、その体験が、いかに尊いものであるか、遂には思い知らされるのです。

瞑想は、その「在る」に周波を合わせる、シンクロさせる作業の事です。

そうであるなら、そこに喜び、至福、真実の愛、満たされる安らぎを味わう事ができなくてはいけません。
そういうものが、そこには在るからです。

そこに留まり、味わう事が大切です。
それが定に入るという事です。

宗教的な儀式、手法、作法というものを、持ち込まないでください。
それをするのは、宗教に執着を持つが故であり、誤った信じ込みをしている故であり、そこに入るには、そのようなものとは無縁でなければならないのです。

エゴを、執着を、そこには連れていけないからです。

一度それに触れたなら、味わえたなら、あなたが逢いたい時に、それに逢えます。

というより。
向こうから呼ばれます。

事あるごとに、物質世界で何か尊いものを学ぶ瞬間には、必ず、呼ばれます。

あなたは人並み以上に、人の機微(きび)に反応するようになります。
つまり、よりセンシティブになるという事です。

ささいな事にも喜び、涙を流してしまうようになります。
自分の事より、人のそれらのほうが、より嬉しく感じるようになります。

人というものが、また、どのような他の命をも、愛おしく思えるようになります。

それは、神から真実の愛を常に頂いてしまうようになるという事です。

わたしは、瞑想の功徳というものは、実に、これに限ると思っています。

悟りは、求めずともそうなるでしょう。(たぶん)

そんなものではなく、この事をわたしはどうにかして伝えられないだろうかと、いつも想っているのです。

常にいつだって、神から真実の愛を頂いている状態。
この幸せこそが、最もわかってほしい、わたしの訴えなのです。

瞑想を、何かを得る目的に使うのではなく、神の愛を頂くために、して欲しいのです。

神はもちろん、あなたがそうしないでも、愛を与え続けています。
それだから、あなたは在るのです。

その事を、はっきりとわかって欲しいのです。
悟りなる智慧よりも、神を悟る事。

これを、わかってもらえるでしょうか。

そして、神と共に、喜び合える、幸せ。

あなたと神との、この近さを、わかってもらえたらと思います。

 

2013-11-02