わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

希望とか夢とかについて 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎KTさんから頂いた記事です。

 

希望とか夢とかについて

 

起こる事象は、全て神のみこころによって起こって行く。
人に現れ来る事を、またそれに関わって行く自分の運命を、人は自らコントロールできるでしょうか。

そのような起こって行く事になるであろう法則を、我々は拒否できるでしょうか。

神のみこころで起こって行く全ては、間違ってなどいません。
それは完璧に、起こるべくして起こって行きます。

しかし人はそれに対し、利己的な意味づけで解釈し、利己的な動機で事を為そうとするでしょう。

「この地球を調和の取れた、争いの無い平和な星にする事が、わたしたちの目標です」と、旗印を掲げる宗教団体は少なくありません。
そのような事が可能でしょうか。

地球に人類が起こり、その最初から戦いがあり、長い時を経た今なお戦いは無くなりません。
聖書を読めば、その歴史はそのまま戦いの歴史でもあります。

きっと誰もが、戦争のない平和な世界を望んでいるに違いないのに、そうはなりません。
なぜでしょうか。

それはきっと、そうであるように組み立てられているのではないでしょうか。
対極同士、拮抗して現れる二元の世界で、平和だけの世界は出現困難なのです。

平和な世界という理想、それへの希望、夢は、ちがう世界にあるのではないでしょうか。
我々が、ニルヴァーナあるいは、神の世界といっているそこにこそあるのであって、この二元世界は、対極する二つがあって、それで何も不自然な事ではないのではないでしょうか。

一方で、「争いの無い平和を勝ち取る為に我々は闘う」と、おかしな事を言う革命家もいたりします。

みんな、自分のエゴが自らに課している不自由の故に、自ら苦悩を作り出している事に気づく事無く、その責任を誰かのせいにしているのではないでしょうか。

そうしてついには、「神はなんと残酷なのだろう」と、神のせいにしてしまう愚かな思い込みさえしてしまいます。

争いの無い平和な世界を望んでいる。
それを希望と称している。
それを勝ち取ろうとする。
無闘争を得るための闘争。
そのような倒錯に、なぜ人は陥るのでしょうか。

なんであれ、人は放棄したくないのです。

放棄は自分の負けを認める事であり、我慢ならないのではないでしょうか。

エゴの正体がそこにあるのではないでしょうか。

希望、夢、そのように言えば、何か輝かしい何かが未来に待ち受けているような気がします。
確かに、輝かしい未来はきっと待ち受けているでしょう。

しかし、人が作り上げた価値観による希望によって、それを見る事が出来ないのです。
つまり、真実輝かしいものに気づかずに、自分の利己的な理想で見ようとするから見えないのです。

希望、夢を、持ちなさいと成功者は言います。
それは確かに原動力となるかも知れません。

しかし、我々は、希望、夢、それを一度精査して見てもいいのではないでしょうか。

それは何を指しているのでしょうか、それは自分の何に由来しているのでしょうか。

利己的な欲心によって、希望を抱き、夢を持つのであれば、それは戦い勝ち得るしかなくなります。
つまり、誰かを追い落とし、傷つけて、その位置に立つと言う事です。

希望、夢を持つと言う事が、今、神のみこころによって現される事象、置かれる場所、それを拒否し、利己的な価値を意味づけた利己的な理想を追い求めてはいないでしょうか。

人が誰もが、そうであるなら、希望、夢の為に、人は闘い続けていくでしょう。

地球は調和が取れていないのでしょうか。
地球は美しく、我々に多くの恵みを与えているにも関わらず、不調和だと言うのでしょうか。

調和が取れていないのは、人々の心の在り方であり、希望、夢、そのようなものが利己的な願望から湧き起る、すさまじいエネルギーによって自分主体の、あるいは自分だけの理想に偏っているからではないでしょうか。

国も企業も、地域も、個人も、そのようではないと言い切れるでしょうか。
そうであるから、原子力発電という危ないものを作り、人々を危険に晒しているのではないでしょうか。

希望、夢を持たないでも、運ばれるべき場所へ導かれていきます。
希望を持たないのであれば、絶望も味わう事はありません。

希望、夢を持って、もし叶わなかったら、それは闘いの大きさだけの、大きな絶望を味わいます。
それは我慢のならない、悲しみであり、神さえ呪うかも知れません。

希望、夢を持って、あるいは叶った人がいて、その人は自分が闘い、勝ち取った栄冠だと鼓舞するでしょう。
しかし、神のみこころによって、運ばれるように運ばれただけです。

それは真の成功者とは言えません。
勘違いしているだけなのです。

例えば、夢を叶えて大リーガーとなったプレーヤーが、引退して後の末路は、あり得ないほどの極貧生活をしているという事もあるかも知れません。
栄光のチャンピオンベルトを巻いた人が、怖い組織の手先になっているケースもあるかも知れません。

我々は、希望、夢、そのようなものを、利己的な満足のために持ってしまっている事に気づく必要があるのです。
今、与えられているものへの不満が、どこにあるのかを、何がそうさせているのかに気づく必要があるのです。

あなたの夢が、今を思い込みで歪め、苦悩を作り、そこからの逃避によるものであっては、余りにも切ない事です。
「おれの人生は間違いだらけだった」などと言うのは早すぎます。
そこに、あなたにとっての重要な意味があるのかも知れないのです。

自分が利己的な一切を放棄して、あるがままの現れを見るときにだけ、それがわかります。

神は全てを与え、人々の行為全てを許します。

あるいはまた、希望、夢、この魅惑的な言葉によって、それを持つのは大切だと位置付けても、それが間違いだと言うのでもありません。
それも、許されているからです。

それを持ち続けたい人は、それでも、間違っていないのです。

また、希望や夢には、利己欲のからまない、純粋な愛や慈悲に依るものもあると言うのであれば、そのとおりですが、叶う叶わないはそれでも、まちまちです。

ドリームジャンボの当選者は、当選する事に決まっているのです。
たとえ、当選金を全部被災者の為に投げ出そうと思っていてもです。

この世界は、そのような倒錯や非倒錯が入り乱れている世界であるから、どのようであっても尊い学びが潜在されているのです。

もしもあなたが、利己的な全てを放棄して、真実の愛、真実の慈悲によって、あまねく人々の救いを想うなら、次にあなたが見る世界は、真に調和の取れた、真に輝かしい世界となるでしょう。

あなたはそこへ還るのです。

それこそ希望と呼べるものです。

それが真の成功者ではないでしょうか。

人と、社会と、世界と、それらと戦って勝ち取るよりも、まず、自分の利己的な欲心に負けない事です。

清らかな者になった者に、調和の取れた世界が用意されています。

次々と現れる、愛し好む対象への誘惑に負けない事です。

それは、悟りそのものについても、同じ事です。

悟りを得たいという、そこに利己的要素が働いているなら、修行と言う形で闘うでしょう。
悟りは闘って得るものではなく、与えられるものである事を、忘れてはいけません。

闘いを放棄しない事には、与えられません。
闘おうとする利己心を放棄した時、それは与えられるでしょう。

放棄は負けではありません。

闘いに敗れる事が負けなのです。

闘わないなら、負ける事がありません。

負けない事は、闘わない事です。

闘いたくなるのは、利己欲を隠し持っているからではないでしょうか。

神が全てを許すように、我々も、全てを許せる理解を持たなければなりません。

 

 

2013-11-20