わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

プンダリーカの花 花岡修平「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

プンダリーカの花

 

サッダルマ・プンダリーカ・スートラと言われるお経があります。
蓮華経と漢訳されています。
この部分だけを抜き取って、新興的に興った一派がある事は、皆さん知らない人はいないと思います。

プンダリーカというのは、白い蓮。
色の着いた蓮は、パドマと言います。

さて、衆生は救いを、グルを手本に見ようとします。
そうであるならば、プンダリーカは、お釈迦様の事だろうとか、如来様の事だろうとか思うわけです。

しかしですよ。

お釈迦様や如来様の立場からすれば、決して自分の身の上話をしているわけではありません。
衆生に向かって述べられる事は、衆生について言っているのです。

そうであるなら、その意を汲まなければなりません。

白い蓮は、汚れの付いていない、生まれたばかりの赤子を象徴しています。
その純粋無垢な、真っ白な在り方を言っているのです。

汚れで満ちた現象世界、物質至上主義の泥の社会。
このような泥の社会であっても、衆生たちよ、あの泥から生まれて泥に染まらず、
純白の輝く花が凛と咲いているではないか。
そのように、自らの汚れを落としなさい。
生まれたばかりの赤子のように、本来の姿を思い起こしなさい。
衆生たちよ。
本来の我とは、そのようなものである。

というほどの意味でしょうか。
蓮華経の原文には、このような事は記述は無いと思いますが、
伝承というのは時に欠落され、時に意図的に付加され、推し量る事は困難です。

色のついていない真っ白な見事な花が、泥の中から咲いてくる。
(白は色ではないのか?などと、マインドのノイズが起こる人・・・それを見つめ、見つめている者に気づいてください)
色にも、香りにも、染まる事無く、真実の自分がこの内側に輝いている。

水の玉が、ころころと転がり、汚れを落としていくように、
執着、思い込み、あたりまえ、我欲、価値観、愛着を離れ、真我に気づいてください。

どこを探しても、わたしのものなど有りはしないのです。
一切の所有を捨てるのです。

この家?この土地? お借りして、使わせてもらっているだけです。
このお金? 巡りくるものが巡り行くだけです。蓄える余剰などありません。
この食べ物? 与えられるものを、与えられる分だけ、ありがたく頂いているだけです。
与えられないなら、それでも満足です。
この命? ただただ生かされているだけです。いつ失おうとかまいません。

神?真我?源泉?根源? それに気づけない者が、どうやってそれを捨てられましょうか。
まず、自我にまつわる、あらゆる一切を捨てて、その後に捨てられるなら捨てましょう。
「ただ在る」になるのなら、捨てられる何物も無い事に気づくでしょう。

そして、ついに「わたし」そのものは消え去るのです。

捨ててしまった解放感。執着のない喜び、溢れ出る愛、どうして再び元に戻れるでしょうか。
楽で、幸せで、満たされているのに。

プンダリーカの花が、ハートに咲いている。
知覚してください。
言葉を忘れて、ただ在る。

在る。

・・・。

 

 

2012-04-23