わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

真我に帰るという事【完全版】 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この記事は、以前掲載した同名の記事(2015-11-03掲載)の完全版になる。以前の記事は、私が手書きでノートに写したものが元になっており、私流の行替えになっている。Hさんから頂いた記事です。

 

真我に帰るという事

 

ほんとうは過去も未来も存在しません。
「瞬間の今」があるだけです。
今が次々と現れては消えていきます。
それを我々は順次、記憶に仕舞い込みます。

何かを見たとします。
その何かを定義づけるために、記憶をまさぐり、程よいものを引っ張り出してきます。
桜を見れば、記憶に入り、形態の一致する「桜」という定義を拾ってくるのです。
その定義を、今見ているそれにまた定義づけます。

あの人を見たとき、記憶に入り、名前、年齢、住所、人間性、好き嫌い、善い悪い、酒癖や、経歴や、数日前にこんな事をしているのを見たそれとか、いろんな情報を拾い集め、あの人に、適用します。
それで、前と同じあの人として定義するのです。

それがあなたが創る世界という意味です。

嫌いな人を意味づけて、嫌いな人をまた受け取るのです。
どうしてその定義を疑わないのでしょうか?

人は記憶に生きているのです。過去に生きているのです。

過去に生きてしかも、過去のあれこれを予測データとして未来に適用します。
記憶の中に、嫌悪や、恐れや、苦痛を見出しては未来に備えようとします。
そのように人は、過去か未来か、どちらかしか見ようとしません。

今起こっているこの「今」を見ていながら、見ていません。
今起こっている事どもに、意味づけをしたいがため、記憶に入り、過去に戻ります。
恐れの記憶によって、未来を予想したいがために、過去に戻ります。

そのようにして絶え間ない記憶への没頭が、ついに、常に記憶に生きる事になります。
記憶に生きているから、今がとても速く過ぎ去ります。
見ていながら見ていなかったからです。
記憶データの蓄積が多ければ多いほど時間が早く過ぎ去ります。

子供は、さほど記憶データはありません。
拾ってくる記憶が無いから「今」に生きています。
今やっている何かに定義づける記憶が無いから、今にいるしかありません。
それだから時間の経過はとても遅いのです。

とても空腹なので、カップ麺を食べるとします。
蓋を少しあけ、お湯を注ぎ、蓋を閉じて、3分そのまま・・・
はやく食べたいから、今か今かと麺がお湯を吸い込むのを待っています。
3分は、意外と長い・・・と思ったりします。
ところが記憶に没頭していれば、麺はどうしようもないほど膨らんでしまいます。

もっと時間の経過が遅く、スローモーションのように感じる時もあります。

わたしの体験です。
車がすれ違うのがやっとの雪の山道。左側は6mの谷底っていう道路で、スリップして止まれなくて突っ込みそうになりました。
谷底に落ちたら、大惨事です。凍った道路は、軽いブレーキでもタイヤがロックされエンジンが止まります。
その時、見てる世界の時間はスローモーションになります。
周りの色も薄くなって、まるでマトリックスの映画で、銃弾をかわすシーンのように、スローモーションになるのです。
その一瞬の時間の、ゆっくりした時間の中で、別の自分が手を貸すように、
冷静にクラッチを踏み、イグニッションを回し、アクセルを踏み込んで、エンジンの回転をタイヤに伝える自分がいます。
そうやって、ロックしたタイヤを回復させ危機を逃れたのです。

危機状況の中では、記憶に戻っている余裕はありません。
今、この瞬間の状況を把握しなければならないので、一切の想念は希薄になり、世界の色さえ薄くなります。
世界の色なんか創り出している余裕などなくなります。
色はもうどうだっていいやって、適当にやってしまいます。
ある人は、見える世界がモノクロになったと言います。
このような経験は、多くの方がしているかと思います。

限りなく今に近い状況を別の例で言えば、例えば極限の怒りの中にあるとします。
マインドの中は、怒りでオーバーフロー状態です。
記憶に入り何かを探す余裕も無い程怒りに燃えています。
その時、怒る自分を冷静に観察する別の自分に気づきます。
そう、やや左側の、やや上方に、それを見てしまいます。
その時、見られる怒る自分と、見る冷静な自分と、どちらも認識します。

ところが平常時では、常に記憶をまさぐり、過去に生きています。

本当は、あの人は、今瞬間、新しく現れたあの人です。
記憶から定義する何も拾ってこなければ、実は好ましい人かも知れないのに。
パワーハラスメントの上司は、本当は、叱咤激励している人かも知れないのに。
記憶が嫌悪を拾ってきて、意味づけしてしまいます。

あらゆる事が誤解です。

マインドに潜む、根が(カルマ)、嫌いを探し、好きを探し、意味づけを引っ張り出してきます。
記憶に生きてるからです。 過去に生きているからです。

そうやって人は人を好きになり結婚し、新婚旅行の途中で、そうやって人は人を嫌いになり、次の日から他人同士に戻ります。
あらゆる事が勝手な意味づけです。
そのように自分の物語は展開されていきます。

記憶に入らず、定義しようとせず、今にただ在って、あるがまま見て、あるがまま聞いて、その「今」に真実の自分を観てください。。

ただ、「今」に在って、記憶に戻るのを止めるだけです。
言葉は記憶にあります。だから言葉も浮かんできません。
思考は記憶へのアクセスです。だから思考さえ止まります。
その状態なら、ただ真我の中に在るのです。
瞑想とは、それを練習する、メソッドです。

そう、ただ記憶に戻るのを止めるだけでいいのです。
必要な時、思い出せばいいのです。

真我に気づけたら、世界は自我意識が自我意識に展開している事を知るでしょう。
真我はわかっています。分身である自我は必ずこの真我に帰ってくるとわかっています。
だから自我に辛い物語を体験させているのです。
しかし、いつだって励まし、愛しているのです。
きっと帰ってくると疑うことなく。
あれやこれや思い為すのは、自我だけです。
真我は何も思わず、ただ在るだけです。
ただ愛によって自我を見つめ、自我を許しきっています。
それにシフトする事が真我に帰るという事です。

 

 

2012-05-02