「わたし」と母の関係 花岡修平 「真我が目覚める時」
◎コメント欄でのある読者との問答をつけ加えておいた。Hさんから頂いた記事です。
「わたし」と母の関係
「わたし」に対する「わたし」の理解は立場によって異なります。
「わたし」に完全に陥り、そこで「わたし」を観察する理解。
その「わたし」とは何処か違う立場で「わたし」を観察する理解。
この二つの観察の違いがわかるでしょうか。
慣れ親しんできた自我の中の「わたし」と、そこから立場を変えた場所にある「わたし」と。
その違いを知ってください。
工業製品に、発泡スチロールというものがあります。
衝撃を吸収する緩衝材として梱包などに利用されたり、熱伝導が極端に悪いために断熱材として使用されたりします。
発泡スチロールを水の中に沈めて手を放すと、それは水面に浮いてきます。
しかしこれは、発泡スチロールに浮力が有るのではありません。
水の分子が、発泡スチロールの下に沈んで行くから水に押し上げられているに過ぎません。
水の方が質量が大きい(単に重さと考えてもいい)ためにそう見えてしまうだけです。
質量が大きい方が、より下に沈む。
そうであれば地球のコアは、そのような質量の大きな物質で出来ているのでしょう。
きっと金やプラチナ、未知の物質があるかも知れません。
発泡スチロールの立場で見るから浮力があるように感じる訳です。
水の立場で見るなら、発泡スチロールを押し上げていると見るでしょう。
地球のコアの立場で見るなら、全て質量比で平等に引き寄せていると見るでしょう。
発泡スチロールは自我の「わたし」で、形あるわたしです。
水は「わたし」を別の立場から見る、その立ち位にあって、形無く遍満するわたしです。
地球のコアを神とするなら、つまり諸現象の根源とするなら、ちからが現象を作り出す作用は、マーハーマーヤです。
立場を変えて見る事により、真実が見えてくるという事です。
マーヤが生み出す現象を、我々は「わたし」の立場で見るから現実として感じ、その中だけで判断し、思います。
全くの幻ですが、幻である事に気づかないから執着します。
幻であるから我々は騙されているのだと言う事ではありません。
神が在ろうが、マーヤがどうであろうが、その幻の物語を、現実として生きていく事が意味のある事だという事です。
意味があるから現れているのです。
生きにくい世界を、苦労しながら、悲しみや喜びを味わいながら生きていく。
そのような尊い体験を、我々はしているのです。
これこそ奇跡そのものです。
人生を体験するのは、神を見出す事より、ずっと大切で意味のある事です。
苦労して生きていく先には、必ず愛と慈悲への気づきが待っているのです。
そしてやがて誰もが神を知るに至ります。
マーヤは神の属性であり、生み出す作用であり、生み出す力です。
同時にそれは、破壊でもあり、消滅でもあります。
我々の誰もが、生きとし生けるもの全てが、このマーヤによって生み出されました。
「わたし」と思い為すこの主体さえマーヤによって作り出されています。
ミクロからマクロまで、その法則さえマーヤです。
マーヤは全ての母なのです。
それだから、翻弄されているとしても、それは何であれ、母の愛、無償の愛から出来ているのです。
それだから、我々の本質は愛だと言えるのです。
そして愛が湧き起る源泉、それを神と言っているのです。
現実は幻想だけど、それは愛の表れであり、また真実存在する実体は、神しかないのだと言う事です。
だから気づきが起こり神を受け入れて生きるのも、神を全く知らずに生きるのも、どちらも間違っていません。
発泡スチロールが「わたし」だという立場でも、ぜんぜんいいのです。
どちらにしても、神とマーヤの愛の中で、我々は生きています。
マーヤは母の愛。
マーよ(母よ)と、呼びかけてごらんなさい。
マーは、我子に呼ばれる事がどんなにか嬉しいかわかるでしょうか。
愛によって抱きしめずにはおれません。
呼びかけてごらんなさい。
きっと、あなたのハートに、何かが起こるかも知れません。
心から呼びかけるのであればきっと。
根源、神はハートの向こう側。
でも、マー(母)は、この現象界に現れています。
そのようにして、神の臨在を届けているのです。
2012-12-15
【読者MMM】幻の物語
>幻の物語を、現実として生きていく事が意味のある事だという事です。
生活の中で、「幻の物語」に翻弄されているMMMです(笑)。
さて、母の愛として、物事は、起こるべくして起こっており、それを経験し味わうことが大切である旨、ご教示いただきありがとうございました。
さて、またまた質問なのですが、
この体験をするときに、受け身の姿勢で、何が起こるのだろうと待って経験する立場と、とりあえず(何が起こってくるのか分からないので)、こちらから何かの行動を起こし、積極的に起こるものなら起こってみろと働きかけるような姿勢では、違いがあるのでしょうか?
私は今、起こってくることにどんなメッセージがあるのか(うまく読みとれてはいませんが)、ある出来事や人に会うということが起これば、それを拒否せず「受け入れて」「行う」という立場でいます。
やり方としては、「受け身ー肯定」という立場。
その他のやり方としては、「受け身ー否定」:起こってくるのを待ち、それにかかわらないようにする立場。
「能動ー肯定」:とりあえず何か行動を起こし、そこで起こることをすべて引き受ける。
「能動-否定」:積極的に行い、何が起こっても、気にせずにガンガン進む立場?
このような出来事に対する個人の姿勢というものは、私たちにとって、こうした方がよい・・・というものがあるのでしょうか?
(たぶん、その姿勢も、「決まっています」かもしれませんけど)
【読者MMM】ちょっと補足を
私は、いま「受け身ー肯定」という立場でいると書いてますが、それは、自分を制御してその立場にいると思います。
会社員の癖で、絶えず動いていないと、自分が怠け者のような気がしてしまう自分が実際には、自分の中にいまして、「「能動」をした方がいいんじゃない?」と絶えず問いかけているようで・・・。
ただ、「能動」を始めると、出来事に気付くという肝心かなめのことが疎かになり、出来事自体に囚われ(マインド主導)になってしまうと思ってます。
それで、受け身でいることを自分で肯定したり批判したり・・・どうするのがよいのだろうと思ったり・・・。
という自分の中での堂々巡りに対しての質問でした。
以上質問の意図について、補足です。
【読者MMM】 あ痛たたた・・・補足2
どうも私は、「より良い方法(より効率的な方法)がある」という信念に凝り固まっているようですね。
ようく自分を観察すると、焦り?効率的であること?良い方法?といった、「いま」から離れた場所で、くるくる回っているようです(笑)。
妙な質問で済みませんでした。
【花岡】 Re: あ痛たたた・・・補足2
確かに焦っているようですね。
効率を考えるのは、目覚めたいという現れなのでしょう。
さて、どうである姿勢が好ましいか?というのが思考であり、マインドの働きなわけです。
起こる事は起こってしまいます。
どうしようがあるでしょうか?
日常では、こうしたい・・・と思った事に肯定も否定もする必要はありません。
肯定しようが否定しようが、物事は起こり、変化は進んでいきます。
しかし肯定しても否定しても間違いではありません。
質問の二者を、状況に合わせて使い分けてもそれでもいいのです。
考える事が始まると、あっという間にループに引き込まれます。
我々は起こる事柄に思考を以って定義しよう、意味づけようとしているだけです。
その思考をほっといて、真実を見てみましょう、と言うのが、いつも言っている事です。
何者が行動しているでしょうか?
「わたし」が行動していると思ってしまう、そう思わせるマーヤ、そしてそうさせる指令(みこころ)を出す存在。
真実行動しているのは、その三者の誰でしょうか?
知識としてそれを覚えるのではなく、実際にそれをわかるのであれば、思考のループに捕まることはありません。
真実の行動者と同じように、「わたし」もその行動を楽しめるようになるのです。
花岡修平の言う事を全て捨ててください。
そして、自分で探り当ててください。
それしか、「わかる」は現れないのです。
ただ、真っ正直であるべきです。
そうすれば、気づきに必要な「起こる事」が起こってしまうでしょう。
それは苦脳を伴う出来事であるかも知れないし、そうでないかも知れません。
どちらにしろ、その時はじめて、「完全に受け入れる」立場が必要になるのです。
【読者MMM】ありがとうございました
お返事ありがとうございました。
ループから抜けたと思うとループにまたはまる・・・。
われながら、おもろい奴っと言う感じです。
素直に経験し、正直に自分を見て、自分で「わかる」ように探ります。
神様を日常に感じられるように。
本当にありがとうございました。