わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

ハートが開く【完全版】 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この記事は、2015-10-21掲載の同名の記事の完全版になる。以前の記事は、私が手書きでノートに写したものが元になっており、一部抜け落ちている部分があることがわかった。Hさんから頂いた記事です。

 

ハートが開く

 

あの瞬間。

サバイバルを放棄し、自我という牢獄に存在するあらゆるものを手放し、
内なる神、源泉、真我にシフトした時現れた、この胸のハートの振動。

第四のチャクラが、
この聖なる場所が開いた時に溢れ出した例えようのない至福と解放感。
知る事のなかった、真実の愛に満たされた喜び。
暖かな安らぎの、まあるいオーヴのような・・・

それは、内なる神を絶対的に信頼しきり、自分の全てを明け渡した結果起こった事。

自我の暗示にかかり、かたくなに掴んでいた虚偽の価値観が溶け出す。

それは、いわゆる「こころ」と言うものとは違う。
「変化しない永遠」につながる場所。

「こころ」というのは、受容器官が受ける刺激情報や、周りから押し付けられた価値観で、様々に変化していく。
向上心、天心、真心、あるいは、下心、疑心、虚栄心など、文字でも現される。
プラスとマイナスにカテゴライズできるように、常に変化する。

この胸の、この場所から溢れ出るものは、「ただ在るもの」で、変化することはない。
それには理由も、条件もない。

ここから溢れ出る愛は、まったく理由などいらない。
見返りなど、一切望む事がない。
親子だから、夫婦だから、恋人だから、好きだから・・・そのような条件がいらない。
ただ愛であって、それ以外ではない。

知る事のなかった真実の愛。
それがハートに目覚める。

あらゆる過去の自分を許し、過去の誰をも許し、過去の罪の一切を浄化させてくれる。

その時、わかってしまう。

なんという事だろう。
神は愛そのものだった。
真実在るのは、ただそれのみだった。

わたしはその、愛である神のエレメントだった。
だれもが、それの要素であって、
だれ一人欠けても、それは在ることができない。
全部でひとつだから、なにひとつ欠けても、それは存在できない。
そして、その唯一が無いことには、わたしも、誰も、無い。

それこそ本当の自分、真我であって、
神とわたしは、離れてはいない。
誰も離れたものではない。

ただ1があるだけで、あらゆる存在は、その1の中の、数限りない1だった。
我々は数を数えることができる。
しかし、どのように多くの数を数えようが、
それは、1の中の1を数えてるに過ぎない。

38591という数を数えても、
それは、38591に仮想分解した1を数えているにすぎない。
どのように考えようが、1から抜け出す事はできない。

(この表現は判りにくいかも知れない。もともと言葉では表せないのだから)

「わたし」という個の存在は、錯覚だった。
自分という主体も、世界という客体も、すべては幻だった。
しかし、同時に、その幻の大きな存在理由も知る事ができる。
それは愛ゆえの表現だった。

ああ、じつに、
その幻さえも、神の臨在による現れだった。
しかも、わかっていく事が次から次と、・・・
溢れてくる。

パニアパラミタ・・・内在された偉大なる智慧

これの事だろうか・・・。

 

 

2012-03-01