わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

許す愛:お答えします「境界性人格障害・2」 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この質問者Kは以前にも何回か質問し、花岡さんは、それを記事にして答えている:

shikoutoshi.hatenablog.jp

shikoutoshi.hatenablog.jp

さらに、これは、コメント欄でのKの質問と花岡さんの答えを私が記事にしたもの:

shikoutoshi.hatenablog.jp

コメント欄でもさらにやり取りが継続しているので、他の読者のコメントと共に最後につけ加えた。タイトルの前半部分は、私が本文から抽出したキーワード。Hさんから頂いた記事です

 

お答えします「境界性人格障害・2」

 

Kさんからの質問です。

> 久しぶりに質問させていただきたいのですが、
以前にもお話させていただきましたが私は境界性人格障害です。

慢性的な虚無感や自殺念慮、無力感に支配され、働きもせずに借金を重ねながら毎日をだらだらと過ごすだけの日々を長いこと送っています。
仕事や人間関係も続かず、苦しくなって裏切るように一方的に絶縁してしまった人たちのことを思ってまた苦しくなったりします、自分でも本当にバカだと思いますが。

昔は自分をこんな人間にしたのは自分を虐待した両親だと思い、怨みに思う気持ちが強かったのですが、最近ようやく昔と比べればずっと許せるようになってきて、関係もかなり良好になってきました。
それでもいまだに父親に踏みつけられたり母親に裏切られる夢を頻繁に見て目覚めたりするので、やっぱり意識の深いところではまだ許せていないししこりがあるんだろうなーとも思います。

また、本当に幼稚でお恥ずかしいのですが、日頃ひとりで暮らしていてもちょっとパソコンの調子が悪くなったり思い通りにいかないことがあると、すぐに激しい怒りが込み上げてきて口汚い罵詈雑言を吐き捨てながらパソコンをぶっ叩いたりしてしまいます。

自分に奥さんや子供がいたりしたら絶対怒鳴ったり罵ったり暴力を振るってしまうんだろうなと思うと本当にぞっとします。
もちろんなので誰とも親密になる気はありませんが。
そのくせ毎日寂しくてどうにもならなくなったりもします。われながら本当にどうしようもないやつだなと思います。

私にはしあわせがわかりません。もちろんおいしいものを食べたときや、面白いテレビを見て笑っているときなど、悪い気はしないしその程度のしあわせであれば感じることもあるのですが、人生のしあわせというのはこんなものなんだろうか?と思ってしまう気持ちもあります。

いつまでもこんな借金生活で死んだみたいな毎日が続くはずもなく、お金を稼がなければと思うのですが、いまいち生きること自体にモチベーションがわかず、どうしてもめんどくささや怠け心に負けてお金を稼ぐことにも真剣になれません。
本当にお金があればしあわせになれるんだろうか?とか考えてしまいます。

下手に昔から悟りに憧れが強かったせいで、「本当のしあわせはこんなものじゃないはずだ」という幻想を強めてしまい、今あるしあわせを十分に認められなくなってしまっているのかもしれません。

しかしそれにしても、花岡さんが常々おっしゃられているような愛が私にはわかりません。
それさえわかれば私もしあわせになれるのではないか、と思っているのですが、そんなのは現実逃避的な幻想でしかないのでしょうか。

私にそれがわからないのは私はまだその段階になく、まずは自分のだらしない生活を立て直す必要があるのでしょうか。
そもそもこんな自分が本当にしあわせになれるんだろうか、自分はしあわせを感じる心が根本的に壊れてしまっているのではないか?という感覚が昔からあります。
自分になにかを愛したり愛を感じたりすることが十分にできるのか自信がありません。
こんな私でも本当にしあわせになれるのでしょうか。花岡さんがおっしゃられているような愛に気づける日が来るのでしょうか。
とりとめのないひどい乱筆乱文になってしまい誠に恐縮ですが、なにか忌憚のないアドバイスやお言葉をいただければ大変ありがたく存じます。


Kさん、お久しぶりです。

こんな私でも本当にしあわせになれるのでしょうか?

だれだってその事の為に、日々を生きているではないですか。
言い直せば、誰だって幸せになれるから、存在しているのではないでしょうか。
生きているのは、その為です。
幸せになれないはずなど、無いんです。

そうでなければ、存在理由などありません。

人が究極にみつけて、これ以上のものなど必要では無いと確信できるもの、それが「しあわせ」であり「愛」なのです。

みんな、それをみつけるために悩み、苦しんで生きています。
ところが、その悩み、苦しみを知らない事には、幸せや愛など、ほんとうに知るには至らないのです。

幸せや愛は、そこらここらに、ゴロゴロと転がっています。
でも我々は、それを見る事ができないのです。

なぜなら、知らないからです。
わたしがここで、何度も何度も、学ぶ事、知る事、それが大事だと言っているのは、その為なんです。

幸せってなんだろう、愛ってなんだろう。
知った人は知ったなりに、その魅力について語るでしょう。

でも知らない人にとっては、それはもう、夢のような事に思えてきます。

しかし我々は、潜在的にそれを知っているのです。
それがこの「わたし」、自我のレベルまで届いていないだけなのです。

どうすれば、自我のレベルまでそれを知る事ができるでしょう。

それを知る為に、逆の事が事が起こってきます。
我々は、逆の事から真実に気づくように出来ています。

悲惨な戦争を体験するから、平和の尊さが知れるのです。
誰かに心を傷つけらて痛みを知るから、人を傷つける事の罪深さを知ります。
災害でライフラインが止まるから、普段気にも留めない水の有難さを思い知るのです。

あなたはご両親の虐待によって、暴力を知り、憎しみを知り、悲しみを知り、痛みを知り、怒りを知り、そしてまた、あなたもそのような事をしたかも知れません。

しかし、あなたがそうしたのは、あなたの訴えだったのではないでしょうか。
暴力を受けるという事は、こんなに辛い事なんだぞ!と訴えるために、暴力を発動したのではないでしょうか。

一度発動した暴力は、怒りによって容易に再現されてしまいます。

肉体的暴力に対してだけではなく、言葉や態度による暴力、理不尽な事への訴えとして、それを使ってしまいます。

それは、受ける辛さの他に、加える辛さをも思い知る事になります。
受ける辛さを知っていながら、加えてしまうその辛さ。

そこであなたは、気づけたでしょうか。

あなたが欲していたのは暴力ではなく、人としての優しさ、思い遣り、ご両親の愛情、温かさ、穏やかな日々、笑いあえる日々、そのような事。

ほんとうはご両親も、自分達が幼い時から望んでいたのは、そのような事だったはずです。

ご両親とあなたは、同じ辛さ、痛みを持っているのです。
そしてまた、ほんとうに望むものも、同じです。
虐待しながらも、ほんとうは心の底では、申し訳なく思っていたんだと思います。
声に出さずとも、何度も何度も、あなたに謝っていたに違いないのです。

あなたはご自身の辛さを味わった。
そうであるなら、ご両親の辛さも、わかってやれるはずです。

あなたは、「許す」という事に言及していました。
許したから、関係が改善されたと言っています。

許すというのは、受け入れるという事です。

自分がそうして欲しい事を、相手にもしてあげる。
与えるものが、受け取るものだからです。
あなたが許すなら、あなたも許される。

また、許すというのは、こころのわだかまりが溶解してしまう事でもあります。

怒りを抑えるというのは難しいかも知れないけれど、人とはそういうものだから許してあげようと思うなら、怒りもどっかへ行ってしまいます。

許す事は、自分を平常に連れ戻す事なのです。

許せるなら、落ち着いた自分で居られます。
落ち着いた自分で居るなら、どうでしょうか、自分の中に思い遣りや優しさや、謙虚さや、いろんな素晴らしいもので満たされているのを見つけられるのではないでしょうか。

許せる喜びを知る事ができるなら、それは愛を持っているという事です。

許す事は、愛なのです。
許すとき、なんとも言えない喜びや、小さくても満足感や安定感が湧いてくるのを感じないでしょうか。
それはあなたの中にある、愛が振動しているからです。

それだから、許すという事は大事です。
自我の、へこみの部分を、ふくらましてくれる魔法です。
出っ張った部分を、平らにしてくれる魔法です。

許す事ができる自分、それは自信をもたらします。
もう怒る必要がありません。
許せるからです。

今、あなたは、「許せない事」を味わい知って、逆の「許す事」の尊さを学び知ったのです。

そうであるなら、自分をも許してください。
あなたは間違っていない。
みんな気づくまではそうなのです。

あなたは、許せるという、素晴らしい愛を持っているのです。
およそ愛のうちで、最も尊い愛は、許せるという事です。

それに喜ばなければなりません。
自分のハートが、そのようなもので出来ている事に、気づかなければなりません。
ほんとうは、あなたは愛そのもので出来ている事にきづかなければなりません。

それは欲や執着による愛、すなわち所有とは違う、尊い愛です。
真実の愛です。

そこから幸せというものも知って行きます。

おっしゃるようにお金があるから幸せなのではありません。
もう気づいているかと思いますが、真実の愛を知る事こそが幸せなのです。

それは買えるものではなく、気づくものです。
何かの見返りに使えるものではなく、それはもともと、あなたの中にあったのです。

「許す愛」、これがあなたに発動されました。
この事を、大切に大切に思ってください。
忘れる事無く、それを拠り所としてください。

やがて、全てを愛する者となるでしょう。

あなたがそうするなら、わたしは、あなた以上にそれについて喜びます。


(何も出来ない事について)

何も出来なくても、大丈夫です。
みんな、ほんとうは何もしたくないんです。
それは当たり前の事です。
人は基本的に、めんどくさがるものです。
だから出来なくても自分を責める必要はありません。

それでもみんな、出来るのは、「やりたくない」を思わずやるからです。
「やりたくない」を思わずやって、出来る楽しさを味わうからです。
出来る楽しさによって「やりたい」が出てくるのです。
それだから、達成感や充実感も味わえるのではないでしょうか。

仕事をするなら、なにも思わず、やってしまう事がコツです。
やってしまえば出来てしまいます。

「やりたくない」を我慢して、その思いを持ったまま仕事するから続かないのでしょう。
それはストレスにならないはずがありません。
思わないで、ただやれば出来るんです。

思わないでやる。
これを、実験してみてください。


あまり役に立つ事は言えなかったと思いますが、勘弁してくださいね。


2014-04-29

 

 

 

[質問者K]ありがとうございました

花岡さん、ご丁寧なご回答誠にありがとうございました。 

他の方の質問を読んでおらず、重なるような質問をしてしまったのですが、個別にご回答いただけて本当にありがたく思っております。 

愛としあわせを知るためにこそ苦しみや悲しみを経験している。 
なかなかその中にあるときはそんなふうには思えませんが、そんな日々をただ生きているだけでも心の深い部分ではちゃんとなにかを学べているのでしょうか? 

許しについても、日々現れてくるやさしくない人、悪意を持って人を陥れようとしたり、謂れのない誹謗中傷や嘘をついて人を貶めようとするような人たちに対して、どうしても怒りや侮蔑の念を感じてしまうことが多々あります。 

そういった人たちに対してはどのように考えればよいでしょうか? 
おそらく花岡さんのおっしゃられている許しというのは、そういう人たちのそういう行為まで許せということではないと思っています。 
ただその人たちに対する怒りや侮蔑の感情をどうにかして処理するということなのでしょうか? 

どうしてもまだ私の中で許しというと、憧れこそあるものの自然にできるようなことではなく、いろいろ理屈で考えたり自分自身に「許さなくては」と言い聞かせるようにしてする不自然さがあり、きっと花岡さんがおっしゃられている本当に心からの自然な許しとはまったく別物のような気がします。 

はじめのうちは許そう許そうと心がけていればいいのでしょうか? 

また、それに関連もすることなのですが、現状自分自身の中にある愛やしあわせに十分に気付けていない今、自分の中に愛やしあわせの感情があるとアファメーションやイメージングによって考えたり想像したりすることについては花岡さんはどのようにお考えでしょうか? 

所詮そんなものはただの妄想でしかなく、意味などないでしょうか? 

なにもやりたくないことについては、「やりたくない」という考えを捨ててしまうというご指摘にはっとさせられました。早速試してみようと思います。 

役に立つことは言えないなんてとんでもないです、いつも本当に感謝していますが、人を許すということについて、どうすれば過去の話などではなく、現在進行形で様々な嫌がらせをしてくるような人のことを許せばいいのか、また自分の中に愛やしあわせがあると考えたり想像することに意味があるかどうか、詳しくお聞かせいただければありがたく存じます。 

何卒よろしくお願い申し上げます。

 

[花岡]Kさんへ

コメント返信させて頂きます。 


> 愛としあわせを知るためにこそ苦しみや悲しみを経験している。 
なかなかその中にあるときはそんなふうには思えませんが、そんな日々をただ生きているだけでも心の深い部分ではちゃんとなにかを学べているのでしょうか? 


ただ生きていていようが積極的に学ぼうとして生きようが、どうしたって学んでいきます。 
ただ、いきなりわかる事は希です。 
体験の蓄積、小さな断片的理解の蓄積が、ひとつの理解へと繋がって行きます。 
同じ事の繰り返しのように見えますが、同じことを繰り返しているうちに、わかるようになります。 
分数がわからない生徒も毎日分数に取り組んでいれば、ある日わかるのと同じです。 


> 許しについても、日々現れてくるやさしくない人、悪意を持って人を陥れようとしたり、謂れのない誹謗中傷や嘘をついて人を貶めようとするような人たちに対して、どうしても怒りや侮蔑の念を感じてしまうことが多々あります。 
そういった人たちに対してはどのように考えればよいでしょうか? 
 おそらく花岡さんのおっしゃられている許しというのは、そういう人たちのそういう行為まで許せということではないと思っています。 
ただその人たちに対する怒りや侮蔑の感情をどうにかして処理するということなのでしょうか? 


そういう人たちの、そのようなものは、あなたの問題ではありません。 
その人たちが、そういう人であるのは、その人たちの問題です。 
関わらなくてもいい問題に反応して関わるから、あなたの問題になってしまいます。 
あなたが答えを出すべき問題は、あなたの問題だけでいいではないでしょうか。 
世間は、あなたの問題ではない事でいっぱいです。 
そのいちいちを、あなたの問題にしていたら、疲れてしまいます。 
その人たちも、そういう問題を抱えながら、知って行く過程にあるのです。 
人はそのように出来ていて、そうやって知って行くのです。 
その人たちも、その人たちのその行為も、どうにもならなくそうなって起こるのです。 
その両方を、許してください。 
今すぐ許せなくても、そういう方向(人生の意味の方向)へ向かっているのです。 


> どうしてもまだ私の中で許しというと、憧れこそあるものの自然にできるようなことではなく、いろいろ理屈で考えたり自分自身に「許さなくては」と言い聞かせるようにしてする不自然さがあり、きっと花岡さんがおっしゃられている本当に心からの自然な許しとはまったく別物のような気がします。 
はじめのうちは許そう許そうと心がけていればいいのでしょうか? 


今はまだ、そうなのだろうなと思っておりました。 
それでも、その自問自答も、心がけも、とても有効です。 
その真摯な態度が、導いてくれます。 
真面目で、とても立派な素質を持った人だと思います。 


> また、それに関連もすることなのですが、現状自分自身の中にある愛やしあわせに十分に気付けていない今、自分の中に愛やしあわせの感情があるとアファメーションやイメージングによって考えたり想像したりすることについては花岡さんはどのようにお考えでしょうか? 
所詮そんなものはただの妄想でしかなく、意味などないでしょうか? 


愛も幸せも、自我や頭で理解出来る事ではなく、どうしてもハート、つまり内なる奥底から起こってきて意識に反映されるものです。 
思考や想像で思い込むものではありません。 
しかし、その思考や想像が、愛に満ちたものであるときは、有効なものとなります。 
また、そうしてはいけない事でもありません。 
なんであれ、あなたが行う全ては、あなたの学びになって行きます。 


> なにもやりたくないことについては、「やりたくない」という考えを捨ててしまうというご指摘にはっとさせられました。早速試してみようと思います。 


「やりたくない」を捨てるのではありません。 
それはたぶん、捨てられません。 
そうではなく、持っていながら、「思わないで」やる、という事です。 
わかるでしょうか? この少しの違いが。 
この練習は、怒りについても、良い結果をもたらします。 
怒りは抑えつけて止めるのではなく、出さないようにするのです。 
抑えつけて止めるのは、外の働きであり、出さないのは内なる働きです。 
胸の位置に意識を置き、思考を止めてください。 
内なる働きで出さない練習は、ハートの活性化に繋がります。 
「わかる」も「愛」も「しあわせ」も、ハートから及んでくるものだからです。 


> 役に立つことは言えないなんてとんでもないです、いつも本当に感謝していますが、人を許すということについて、どうすれば過去の話などではなく、現在進行形で様々な嫌がらせをしてくるような人のことを許せばいいのか、また自分の中に愛やしあわせがあると考えたり想像することに意味があるかどうか、詳しくお聞かせいただければありがたく存じます。 


ほんとうは、既にしあわせであり、愛溢れる者であるのは事実なのですが、その事に気が付くタイミングがまだ巡り来ないだけです。 
これだけ無駄がなく、きちんとまとめられた文章を書くあなたは、洞察力も優れていると思います。 
日々を生きて、洞察し、知って行こうとする姿勢でいれば、愛も幸せも、やがてはわかります。 
自分だけがだめだ、自分だけが惨めだと思わないでください。 
みんな、だれもがそうなのですから。

 

[読者MKR]

花岡さんの丁寧な解説の後にしゃしゃり出てくるのは失礼かと思いましたが、 
同じように『許せない』という思いがたくさんあった私の気持ちを 
サンプルのひとつとして書いてみます。 

なぜ許せないんだろう? 
なぜ、許してはいけない、と思うんだろう? 
そう自問したとき、出てきた答えは 
『許すこと=存在を認めること。 
 あのような、社会的・道義的に間違っているものの存在を許すということは、  
 悪の蔓延に加担することになる! 
 私はそんなことはしてはならない!!』 
という、独善的かつ自分こそが正義!という思いでした。 

じゃあそうやって、許さなかったらどうなるの? と考えると、 
自分が心の中で怒りをいつまでも握り締めていても、何も変わることはない。 
自分が勝手に不快な思いを後生大事に抱え込んでイライライライラしてるだけ。 
………あれ? これって損じゃね? と(笑 

許すって、難しいですよね。 
許す=存在を認める=悪行の数々をなかったことにする 
そう考えると、う…と心が躊躇してしまう。 
だから私は『許す』の手前の段階で、 
許すも許さないもない、ただそこに、そういうことが『ある』『あった』 
と考えます。後はお任せです。 
何か問題があるのなら、神様が何かしら制裁を加えてくれるだろうし、 
そうじゃないなら、その行いは、その人自身、 
そしてそこに居合わせた人々に対して、何かしら意味があるのだろうと思うようにしたんです。 
ようわからんけど、それはそれで何か意味があるんだろ、と。 
意味に思いを巡らすと、世界ってホント深遠で面白いなと思います。 

悟りに達していない人間の俗っぽい考え方ですけど、何かのご参考になれば幸いです。 
一緒に精進していきましょう~ 
お目汚し失礼致しました。

 

[読者MKR]

先ほどコメントを投稿してから、『許す』とはどういうことか、改めて考えてみました。 
花岡さんのお言葉、許すことは愛…。 
そこでふと、今までの私の考えはただの思考停止。凍ったままの状態。 
でも、許すというのはエネルギーが環流することだ、ということに気づきました。 
花岡さんはがおっしゃってることは、そういうことかと。 
…ああ、だから私はいつまで経っても根源さんをみつけられないのかな、と…。 

もう少し自分の中で許すことについて思いを深めてみたいと思います。 
花岡さん、横からですが、重要な気づきをありがとうございます。 
Kさんも、気づきの機会を下さって、ありがとうございました。

 

[質問者K]ありがとうございました!

花岡さん、たびたびの質問にもご丁寧にご回答下さいまして誠にありがとうございます。 

今に始まったことではありませんが、どうしてお金をとるでもなんでもなく、ここまで時間や労力をかけて親切に相談に乗ってくれるのか、花岡さんにとっては当然のことなのかもしれませんが、私からすると本当にいつもありがたい思いでいっぱいです。 
いつも本当にありがとうございます。 

>そういう人たちの、そのようなものは、あなたの問題ではありません。 
その人たちが、そういう人であるのは、その人たちの問題です。 
関わらなくてもいい問題に反応して関わるから、あなたの問題になってしまいます。 

ここは人は人、自分は自分ということで理解しました。 
正直悪く言われる謂れや筋合いもないのに悪く言われたり嫌がらせなどされると嫌な気持ちになっていたのですが、あまり気にしないようにしてみます。 

そういう気持ちに関しても出てしまってから抑えこむのではなくて、そもそも出さないということ、難しい気もしますが意識してみようと思います。 

しばらくそれでやってみます!ご丁寧に本当にありがとうございました。 
また行き詰まるようなことがあれば相談させていただくことがあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。 

これからも花岡さんのブログを楽しみに拝読させていただきます!