道・その尊さについて【完全版】 花岡修平「真我が目覚める時」
◎この記事は、以前掲載した下記の記事の完全版になる。
以前の記事は、私が手書きでノートに写したものが元になっており、私流の行替えになっている。オリジナルのコピーであるHさんから頂いた記事には、コメント欄が付属していて、多くの読者の声が寄せられている。その中からいくつかピックアップして最後に付け加えておいた。クリスマス・イヴの記事です。
道・その尊さについて
誰であろうと、自分が歩いているその道が自分の道であって、それ以外の道があるのではありません。
気づかないかも知れないけれど、その自分の道こそが、神の道であり、仏の道なのです。
自分の道は間違っている、自分は道に迷っている、そのように思うかも知れない。
それでも歩くべきが、その道であるから、歩いているのです。
その道以外に道は無く、どのような道を思い浮かべたとて、別の道は見えては来ない。
その道は、道の態さえ成してはおらず、険しく、またぬかるんで、歩くのには難儀を強いられる、耐えがたい道かも知れない。
それでも、それは自分の道であり、その道を歩くように定められているのです。
時には択一を迫られる。
二差路、三叉路、多岐路、そこで歩みを止めて、どれかを選ぶ。
選んだ結果に、落胆するかも知れない。
それでも、その選択しかできなかったのだと、知らなければいけないのです。
それは、自ら選択したと言うだろうけれど、どの選択であろうが、導かれたのです。
その体験が必要だから、そのように導かれたのであって、それはそうなるようにしか準備されていなかったのです。
どの道を選んでも、苦しく、辛く、悲しい道。
他の人の道を見ては、そのなだらかな、綺麗に舗装された道に見えて、自分の運命を呪い、嘆き悲しむかも知れない。
しかしそれは、ただそう見ているに過ぎないのです。
真実彼の道が、平坦で、楽に歩けて、苦しみの無い道であるなら、彼は何も体験していないのです。
そうであるなら、何も知る事も無く、無駄に生を費やしているのです。
険しい自分の道を、嘆き悲しむ事を止めて、よく観て見なければいけない。
それは、知る事が出来る道なのです。
楽を楽しんでいて、どうして知る事ができましょうか。
どうして目的地に辿り着けましょうか。
険しいその道を、受け入れるのです。
分岐で選んだ道を、受け入れるのです。
苦を苦としているその、価値基準を、尺度を、思い込みを、意味づけを、見直すのです。
苦を苦としているのは、自分の都合に合致しないという、葛藤が作り出している事に気づかなければいけません。
自分のエゴによる理想が、利己的な自己保存が、それを生み出している事に気づかなければなりません。
足りているのに不満を言うエゴが、他者より蓄えたいと言う貪りが、それを主張しているのです。
倉に蓄えられる宝は、心の中に蓄えられる宝ではない。
倉に蓄えられる宝は、朽ち果て、自分のものとはならない。
心の中に蓄えられる宝だけが、あの目的地まで持って行ける自分の宝なのです。
一切の我欲、利己的な保身を離れて、自分の道をよく観るのです。
今まで苦としていたその苦は、エゴが定義した誤った意味づけである事に気づくのです。
今、自分の道を、これでいいのだと気づく事が、自分に自分が課した第一の気づきです。
足りていればそれでいい。
利己的な貪欲を離れた時、それがわかる。
それを気づくための、自分の道なのです。
それがわかったとき、振り返ってごらんなさい。
なんと、この道が、慈愛に溢れた有難い道であったかを知るでしょう。
誰もが、自分の道とは、そういうものです。
受難の道が、イエスの道。
裏切りの道が、ユダの道。
それでも、どちらも、それぞれがそれぞれの道を歩んだ結果が、あのようにそれぞれの成就を見たのです。
つまり、ユダの裏切りは、イエスの誓願を成就するための不可欠の道だったのです。
そうであるから、ユダはイエスと共に、並び称されて当然なのです。
ユダは神によって救われたに違いありません。
それはユダがその事によって、イエスの成就を救ったからであり、それが自らを救うための道に他ならなかったからと言えます。
これを知る事の無い人は、ユダを忌み嫌うでしょう。
それは、自分の道を肯定しない人であり、全ての道は神によって用意されたという真実を受け入れられない人なのです。
誰も、自分も、何も、咎める(とがめる)事なく、裁く事なく、大きな器で、あるいは小さな器でも、その器の中を、条件の無い愛と慈悲で満たすなら、その先の道は真実平坦な、歩きやすい道となるのです。
この理(ことわり)を知っておきなさい。
やがてまた、分岐が現れます。
その先に、光明が見えてくる事でしょう。
自分が自分の道を歩いていて、何も間違いはない。
自分が歩けるのは、自分の道だからであり、自分の道以外は、歩きようがないのです。
それだから自分の道(探究の道と関わってくる日常)を歩き、他の道(世俗、関わっていない日常)に、自ら関わるのは控えたほうがいいのです。
そうでなければ、自分の道を観るのを、忘れてしまうでしょう。
あなたにはわからなくても、神はいつでもあなたと共にいます。
それは、あなたが在るからです。
自分の道を嘆き悲しむのではなく、苦とするのではなく、その苦を楽しみながら歩けるように、しっかりと観るのです。
道の傍らに、中央に、ここにも向こうにも、愛が溢れ、神の臨在が満ちているのを観るでしょう。
あなたは、真実、神の子なのです。
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みなさんのコメントは、愛に溢れていて、つい目がうるんでまいります。
人が人を思い遣る、この美しさに、ついレスもお返しできず、眺めておりました。
素晴らしい事です。
みなさんの中に、神を観るのは、とても素晴らしい事です。
ありがとうございます。
2013-12-24
[読者MYK]だいぶ前に書き込んだことのある者です。
メリークリスマス、花岡さん。
ユダの話には、思わず納得しました。
イエスを裏切ってから後々の世まで、何千年とキリスト教関係の方から嫌われがちなユダの背負った宿命のすさまじさを思ったことがあるからです。
でもあの裏切りがなければ、ここまでイエスの教えは世界に、後世に広まらなかったのでしょう。
花岡さんはそれを「成就のために必要だった」と書かれていて、なるほど!と納得しました。
でもいくら必要だったのだとしても、それを当時その場でイエスも知っていたのでしょうけれど、あまりに痛くて苦しすぎることですね・・・。
今日はイブです。
テレビを切って窓を開けてみると、あちこちの家から楽しくクリスマスの夜を過ごしている空気が漂ってきます。
子どもたちにとっても、今日はうれしい夜でしょうし、大人たちもどこかウキウキした楽しい気分になる幸せな日ですよね。
それに加えて、おそらくは世界中で今日という日に祈りをささげている人たちが多いのでしょうか、私はキリスト教徒ではありませんが、今日という日は嬉しいというか、感じるもの見るもの全部美しく楽しげに見えます。
いつもは日常に埋没していますが、今日だけでも、平和とか人々のシアワセを祈り、そんな気持ちが持てる余裕のある現状に感謝したいと思います。
まだ私には花岡さんや、コメント欄で見かける何人かの方のような目覚めは訪れていませんが、いまの「道」を信じていきます!
[読者NNK]昨晩、賛美歌を調べていたら知っているものを見つけ、改めて歌詞を読むと、今の気持ちに当てはまるもので、安らぎを覚えました。
花岡さんや皆さんの文章に通じるような歌詞だと思いました。
いつくしみ深き
友なるイエスは
罪 咎 憂いを
取り去りたもう
心の嘆きを
包まず述べて
などかは下ろさぬ(なぜ下ろさないのか)
負える重荷を
いつくしみ深き
友なるイエスは
われらの弱きを
知りて憐れむ
悩み悲しみに
沈めるときも
祈りにこたえて
慰めたまわん
[読者MTK]花岡さん、こんばんは。
イブの夜に素敵なお話をありがとうございます。
本当にその選択しかなかったのだろうかと繰り返し考える時がありました。
何度も何度も考えて、やはり、その選択しかなかったのだと思い至りました。
それが、どんなに苦しみをもたらしても、やはり、進む道はそれしかなかったのだと。
今も悲しみや痛みはここに在ります。
ただ、以前と違うのはこれが最善なのだと知っていることです。
そして、心が彷徨いそうになる時は「今、わたしは神の方を向いていますか?」と
自分に問い続けています。
[読者E]こんばんは。
自分の道について、よく考える機会を与えていただき有難うございます。
私は迷っているとき、できるだけ何もしないですむ道を選択肢に入れています。
自分にとって険しい道を選ぶことと、確かにどちらを選んでも正解だと思えますね。
今回、「自分の自我の人生?」を考えたとき100回に1回くらいは逃げない選択をしてみてもいいかな?なんて思っています。
でもこの後、99回、もっと逃げますよ~。
花岡さんの仰るように、「その苦を楽しみながら歩けるように、しっかりと観る」を体験してみようと思います。
あ~、どんな苦しみが待っているんだろう・
[読者YAZB]花岡さん、みなさん、こんにちは。
私は無宗教なのですが、先日生まれて初めてクリスマスのミサに参加し、形や受け取り方や表現は全く違うけど、全ての人は自らにある神性に対し何らかの形でそれを探し求めているのだなということを痛感しました。
そして、その翌日の外出中、前の車に貼ってあったスティッカーがふと目に入り深く印象に残りました。そこに書かれていたのは、
I died for you. You live for me.
(私はあなたのために死んだ。あなたは私のために生きてください。)
というものでした。ジーザス・キリストが犠牲になることにどのような意味があったのか、正直私にはわかりませんが、与えられた命を最高に謳歌しながら幸せに生きて欲しいというのは、天からの唯一の願いなのだなと感じました。
今年、花岡さんのブログを知り、そこで発信されていたお言葉に、私は何度も救われ、励まされました。花岡さん自身、いろいろご多忙で何かと大変なのに、我々のために心を尽くして、無私に与えてくださったもの全てに改めて心から感謝申し上げます。
本当にどうもありがとうございました。
喜びと輝きに満ちた素敵な新年をお迎えくださいますように。(^^)
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
[読者KZ]不思議です。
花岡さんに言っていただいた(書いていただいた)おかげです。
あれから、自分の障害が、何の問題でもなくなりました。
何かにつまずくたび、「どうせ私は・・・」を繰り返していたのに・・・。
何の問題もないかのように気に留めなくなり、
そしたら本当に何でもなくなってしまいました。
それにまつわる不具合な事象さえ起こらなくなりました。
あれは、本当に私のマインドが創った幻想だったようです。
本当にどうもありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください。
また来年も引き続き、どうぞよろしくお願いします。
[読者MMM]花岡さん、コメントされる皆さま。
多くの学びを今年も頂戴いたしました。
今年は、実生活で大きな変化を私自身も経験し、本来なら、落ち込むところでしたが、花岡さん並びに、ここに集う皆さま方のお言葉を拝読することで、自分自身の糧とすることができました。
いまは自分自身を見つめ直しながら、これからの人生を「自分の責任で生きる」という方向に、大きく転換していこうと思っています。
簡単ではございますが、今年一年のお礼と年末の御挨拶とさせていただきます。
[読者ER]花岡様、皆様
記事とは関係ないコメントお許しください
このブログがなかったら、
間違いなく
今の立ち位置はありませんでした
ハートに訴えかけるエネルギーは、
絶望の私を救ってくれました
今年はお世話になりました
来年もよろしくお願いいたします。