わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

気を付けておれ! 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎コメント欄でのある読者との問答を付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

気を付けておれ!

 

仏陀の弟子アーナンダは、心優しく、なかなかのイケメンで在家の女性から人気があったようです。
仏陀が自らを涅槃に入るべき時を察知し、その時に若き弟子、アーナンダに衆生のために長生きしれくれるよう懇願しなかった事を彼の罪であるとした仏陀は、
その事でアーナンダが皆に責められないように、懸命に擁護します。
アーナンダには、このような、あのような、多くの不思議な特徴があり、賢者として尊ばれるべきだと。

アーナンダは、純粋であるが故に、仏陀の冗談を理解できませんでした。
アーナンダがマーヤによって、迷妄に落ちていうのを察した仏陀の思いやりから来る喚起であったのに。

そのようなアーナンダは、弟子でもあり、執事でもあり、マネージャーでもあり、秘書でもあり、忙しくて仏陀のサンガでも定に入る事などできない始末です。

彼は、托鉢もし、仏陀の使いにも走り、その度に在家の女性達から法話をせがまれたり、世間話に誘われたりしていました。
それで、結構アーナンダも息抜きができて、楽しんでもいたのでしょう。

その様子を天眼をもって見ていた仏陀は、アーナンダを呼び、言いました。

「気を付けておれ!目覚めて夢を見る者となるな」

気を付けておれとは、修行者としての立場と戒めを忘れることなく励めという事でもあるのですが、
この場合のそれは、

内なる真我に気づいたなら、いつどのような時でも、それに注意力を向けていなさい。という事です。
そして、
目覚めて夢を見る者となるな、は、
真我に目覚めたなら、世間は、夢だと知りなさい。俗世間の誘惑に惑わされる事無く、欲望の根を断ち切りなさい。
という意味です。
内なる真我に気づきながら、自我の日常を、夢であると知って生きるのです。
常に真我を忘れてはいけません。

自我の誘惑、生存へ縛り付けようとする罠は、真我に気づいてもなお、執拗です。
目覚めはじめても、マーヤは力を失いません。
身体をもち生活しているうちは、何時であろうが、その力が作用します。
世間にこころ奪われるとき、魔が差します。

ほんとうは、魔が刺すです。 チクリ!と。(もちろん方便です)

その瞬間、魔の言いなりです。

これは、やってはいけない事だと知りながら、やってはいけない事をやってのけるんです。
あるいは、もうこんな事は止めよう止めようと思いながら、引きずられます。

それは、ゴータマが修行中に何度も彼に挑んできた悪魔たちです。
仏典サンユッタ・ニカーヤは、そのようなお話です。

聖書にも悪魔や天使が出てきます。

我々は、とかく悪魔を忌み嫌います。
でも、悪魔は絶対必要なんです。とても役に立ってくれているんです。
悪事を知らないうちは、善行をしても、善であるとどうやって気づけるでしょうか。
二元の世界は、そのように対比によって対極を知るのです。
戦争があるから、平和の尊さを身に染みて知るのです。
生まれながら平和の中に、ぬるく暮らしていれば、平和って何?ってなってしまいます。

そのように、マーヤは二元世界というルールをつくり、そこに人は世界を創り出しました。
体験の世界は、悪魔も天使も、両方ない事には成り立ちません。
悪魔も天使も、共に、神の忠実な召使なのです。

しかし、実際にそれは存在しません。
あなたが作る夢の世界、この現象世界に、あなたが分離によって作り出す存在なのです。

それがわかったなら、もう恐怖の対象も、逃避する何物も無い事がわかります。
あの人も、この人も、あなたが創り、あなたが意味づけしました。
ほんとうは、「わたし」さえ無いのです。
すべて、あなたのための、あなたの物語です。

なにも恐れず、あるがまま、体験していいのです。
元々失うものなどありません。
わたしのものなど、何一つ無いのです。
あるいは、わたしのものでないものなど、何一つありません。

ただ、体験だけがあり、知る・・・だけがあります。

善だろうが、悪だろうが、捉われていては、それは自我の中なのです。

知らなければならない事を、自分の課題として体験するため、あなたの意識から、あなたが生まれてきました。
そうして、記憶を呼び出して、「わたし」を創り出すのです。

「わたし」を意識することなく、気配を消して、ただある景色を見てみましょう。

どうでしょう。「今」を感じられるでしょうか。
「わたし」のいない「今」を感じられるでしょうか。

 

2012--4-29

 

 

 

[読者A]恐れ

>なにも恐れず、あるがまま、体験していいのです。 

と言われても、やっぱり恐れが生じてきてしまいます・・・。

 

 

[読者A]他人の存在

>あの人も、この人も、あなたが創り、あなたが意味づけしました。 

ということは、自分に苦しみをもたらす人を、自分の意思で、苦しみをもたらさない人に変えてしまうこともできるのでしょうか? 

あるいは、消してしまう(犯罪をおかさずに)とか。 
自分から遠ざけてしまうとか。

 

 

[花岡]Re: 他人の存在

自分に苦しみをもたらす人という意味づけを成すまえに、それを知るなら、そうでない意味づけができるでしょう。 
しかし、苦しみをもたらす人という認識をするのであれば、それは既に意味づけて、成就されたのです。

苦しみをもたらす人を、そうでないものに変えられるかどうかを考えるのは、要点を外しているのです。 

外の事にあれやこれや思考を張り巡らせるのではなく、その意味づけをし、成就された結果に反応している自分を観るのです。 

外を知りたいのでしょうか? 
内を知りたいのでしょうか? 

知りたい方を向かないと知ることはできません。

 

 

[読者A]

>自分に苦しみをもたらす人という意味づけを成すまえに、それを知るなら、そうでない意味づけができるでしょう。 
>しかし、苦しみをもたらす人という認識をするのであれば、それは既に意味づけて、成就されたのです。 

一度「苦しみをもたらす人」という認識(成就)をしてしまった人でも、それを「苦しみをもたらさない人」という認識に変えることはできるのでしょうか? 

>外の事にあれやこれや思考を張り巡らせるのではなく、その意味づけをし、成就された結果に反応している自分を観るのです。 

結局、自分の想念を常に観察するよう努める、ということでよいのでしょうか?

 

 

[花岡]

> 一度「苦しみをもたらす人」という認識(成就)をしてしまった人でも、それを「苦しみをもたらさない人」という認識に変えることはできるのでしょうか? 

もちろんです。 Aさん。 もちろんできるのです。 
「苦しみをもたらす人」と自分が意味づけした事に気づくのであれば、もはや継続して意味づける事などありません。 
あるいは、その癖を止められないのであっても、自分の本性に気づかせるためのその意味づけ(配役)であると知るのであれば、 
Aさん。 許せるじゃないですか。 
「苦しみをもたらす人」その人も、また、それを意味づけた自分も共に、 
許せるじゃないですか。 
引き続き、「苦しみをもたらす人」であっても、受け入れられるじゃないですか。 

許せる、受け入れられる、そのような者になるように、自ら仕組んだ自らの課題です。 

許せる、受け入れられる、これは愛であって、Aさんの本性です。 
許せる、受け入れられるは、すなわち、手放したという事です。 
その喜ばしいことを知ってください。 

> >外の事にあれやこれや思考を張り巡らせるのではなく、その意味づけをし、成就された結果に反応している自分を観るのです。 

> 結局、自分の想念を常に観察するよう努める、ということでよいのでしょうか? 

想念を観察するのではなく、「反応により想念が湧く」その過程を見破るのです。 
次には、何が反応したかを見破るのです。 
次には、見破る者を観るのです。 
ここからは、言葉はちからを持ちません。 
観るのです。

 

 

[読者A]花岡さん、ありがとうございます。 

単なる想念に関しては、「今自分は考え事をしている」というふうに気付けるように思うのですが、「反応により想念が湧く」というのがよく分かりません。 

「反応」というのは、何らかの外的刺激に対する反応ということでしょうか。 
つまり、最も多いのが、「他の人から何か言われた」ことで起こる反応とか。

 

 

[読者A]「苦しみ」という意味づけ

「苦しみをもたらす人」と自分が意味づけした事に気づく、ということに関しても、考えていたら、よく分からなくなってきました。 

私が現在悩んでいることや過去に悩んでいたことで考えてみると、こんな感じです。 

ある人が、私にヒドイこと(あるいは、イヤなこと)をした。 
   ↓ 
私の心にショックが与えられた(腹が立つ、落ち込む、など)。 
   ↓ 
その人をできるだけ避けるようになる。 
そして、その人の姿を見たり、名前を見たり聞いたり、その人を連想させるものを見たりしただけで、イヤな思いをするようになる。 

といったように、その過程は自動的に「起こって」しまい、自分が何か意味づけをした、というふうには思えないわけです。

 

 

【読者Y】仏陀が言う「気を付けておれ」について

花岡さん、こんにちは。 
初めてコメントさせていただきます。 

仏陀が言う「気を付けておれ」というについて部分について、 
ちょっと気になったもので。 

原始仏典の日本語訳には、時々、このフレーズがでてきますね。 
私は、読むたびに、どうしても納得いきませんでした。 
意味不明で、原語のパーリ語では、なんと書いてあるのか、気になりました。 
翻訳した学者さんは、根本仏教の瞑想法ヴィパッサナの実体験がないため、 
こういいう訳になってしまったのではないかと思ったものです。 

私の推測では、<気を付ける>は、<sati>ではないかと思います。 
瞑想中、次々と自分に生じてくるすべての感情、思考、感覚に<気づく> 
ことが、ヴィパッサナのやり方ですが、それを<サティする>といいます。 

ですから、仏陀が、<気をつけていなさい>という意味は、<いつも気づいていな 
さい>=<いつもサティしていなさい>という意味だと、私は考えます。 
こう考えれば、筋が通りますし、納得できます。