わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

パンチャ・シーラ(五戒)花岡修平 「真我が目覚める時」

◎Hさんから頂いた記事です。

 

パンチャ・シーラ(五戒)

 

どのような宗教にも戒律というものがあります。
組織ですし、団体ですし、ある程度しょうがないと言えば言えるでしょう。
仏教界ではこの戒律、日本でも外国でも実に細かく定められており、300以上とも500以上とも言われています。

これは教化のために必要な戒律なのでしょうね。
しかしながら教化という観点からすれば、そもそも仏教は学習するものではありません。
人に教えられて悟れるなら楽な事ですが、それは単に知識でしかありません。

知識はむしろ、悟りを邪魔する働きをするかも知れません。
知識を記憶に蓄積するために、覚えきれないほどの戒律に従って生活しなければいけません。
ほんとうにそのようなものが必要なのでしょうか。

必要かどうかはさておいて、絶対的に厳守されるべき基本的な戒律があります。

もしも人が、真剣に真我に目覚め、人としての完成に至り、解脱し、在るそのものになろうとするならば、絶対守らなければならない戒めです。

それがパンチャ・シーラ。
五つの戒めです。

① 不殺生 (ふせっしょう) 生き物を殺してはいけません。
② 不偸盗 (ふちゅうとう) 自分のものではないものを盗んではいけません。
③ 不邪淫 (ふじゃいん)  淫行を為してはいけません。
④ 不妄語 (ふもうご)   嘘をついてはいけません。
⑤ 不飲酒 (ふいんしゅ)  酒を飲んではいけません。

たった五つです。
たった五つですが、とても重要です。

何事も基本が大事ですよね。
この基本的な五行の文字列を、自分に照らしてしっかり読み返してみると、今の自分の有り様がクッキリと浮き上がってきます。

酒を飲んではいけない・・・きついなぁ~って思う人がいるのでしょうね。

わたしは酒に関しては元々受け付けない体質ですので、問題ありませんが、他の四つに関しては穴があったら入りたいくらいダメなヤツでした。

自分本位にやりたい事をしていました。
それは、「自分」と「自分以外」とを明確に分離し、対象の痛みや感情を全く考慮する事の無い慈悲に薄い人だったからです。

しかし、これまで生きて来て体験した事が、わたしを変えてくれました。
実に体験は、貴重な学びであり、それで得た理解はそのひとつひとつが真我に通じる道として内側に刻み込まれていったのです。

小学生の頃、魚を捕る威力のあるヤスを作りました。
アーチェリーのように、トリガーを引くと瞬時に的に突き刺さるという、まるで武器のような代物です。
作れば試してみたくなります。
小川に行って、そこらに幸せそうに暮らしているカエルを、次から次と的にして殺傷力と正確さをテストしました。
カエルの死体が岸辺に散らばっていきました。
そして、次のカエルにヤスを向けたとき、「カエルの命、生きているものの命」という言葉とも感覚ともつかない想いが襲ってきました。

そして、あらためて岸辺に散らばったカエルの死体を、ひとつひとつ見つめました。
カエルは生きていたのに。
人間とは違い、厳しい条件の中で懸命に生きて、命を育んでいたのに。
それをなんと、理由も無しに簡単に奪ってしまったこの自分というものは、何なんだ。
いったい自分は何をしているんだろう。
なんと無慈悲な事をしているんだろう。

抑えようの無い後悔の念と、命に対しての申し訳なさとで、涙が流れて止まらなくなりました。
このような事をしなければならない理由なんて何もない。
絶対してはいけない事なんだ。

子供ながら、内側から教えられた最初の気づきです。

今ではハエをたたく事もありません。
ハエが入らない工夫をすればいいだけです。
イモムシが這っていても、安全な場所に移してやるだけです。
それでも歩く度に何処かに蟻がいやしないか、気づかぬうちに虫を潰してはいないか、などとはともちろん思いません。
だって、しょうがない時はしょうがない訳ですから。
そこまでしていては、家から出る事さえできません。
全ては御心です。
そうなる時はそうなるのです。

またある時、郵便局から荷物を発送した時に、おつりを受け取り財布に仕舞いながら入り口を出たために、そこに落としてしまったようです。
全く気が付きませんでしたが、後日警察から電話があり、届けてくれた人が居ると伝えられました。
歳を重ねられたご夫婦だったそうです。
お礼も連絡も要らないと、連絡先さえ告げずに。

五千円ほどです。
郵便局のレシートが落とし主を明示していました。
この五千円。
普通はみなさんどうするのか?という事は言いませんが、自分だったらきっとネコババしていたに違いないと思いました。

たかが五千円。
きっと失っても困るほどの金額ではないだろうと思ってしまいます。

でも、その人はその「たかが五千円」を、きっと忙しいだろうにも関わらず、親切に、届けてくれたのです。
わたしは、この人はいったいどのような人なのだろう。
この清らかな行為はどうしたらやってのけられるのだろう。

探し出し、会いに行きました。
ほぼ五千円のメロンを抱えて。

留守でした。
2時間ごとに、三度伺いました。
やはり、留守でした。
残念に思いながら、親切に心を打たれた事をメッセージに託し、メロンを玄関先に置いて帰りました。

このような人が居る。
比べてみたら、自分が如何に物に執着した生き方をしているのだろう。
自分もそのように清らかに生きたい。
かつて万引きをした過去もある自分が、そうでありながら正義を口にする偽善者のわたしが、この時二度と再び自分のものでないものを手にしようとは思わなくなった瞬間です。
わたしにとっては、それほど感激した事なのです。

他の戒めにも、それぞれ、わたしにとっての逸話があります。
話していたら、ただでさえ長文で迷惑をかけているのに、長くなり過ぎですので止めておきます。

言いたい事は、日常が気づきの宝庫だという事です。
体験が教えてくれます。
知識では、ああそうか、ふぅーん・・・で終わってしまいますが、実際体験した学びは、奥底に刻み込まれます。

そして、この五つの戒めが、目覚めにとっていかに大切か、あらためて思い知らされます。
この戒めを胸に収め、日常を生きて、真摯に自分に向き合う姿勢が、やがて目覚めの準備を整えてくれると思います。
これははずしてはいけない条件だと、思うのです。

そのようにして、年月が過ぎ、更なる体験がわたしを導いてくれました。
そうして自我の一切を、起こる事を起こしている源泉に、完全に明け渡してしまった事によって、この至福に辿り着いたのです。

何も無くてもいい。
無いなら無いなりに、どうにかなる。
なんとかなるように、してくださる。
神がそのようにしてくださる。
そして、自分は実際そのようにさせてもらっている。

何より、この胸から溢れ来る愛を、知る事の無かった真実の愛を、この喜びを得られた事は、感謝せずにはいられない。
この愛にただ漂い、任せ、寛ぐこの在り方を手放す事はもはや無い。
全てを愛し、受け入れ、許し、そのような在り方がこの上なく嬉しい。

みんながこの喜びを得られたらいい。
自分よりも、他の人がこれを得られたら、それはもっと嬉しい。
人の幸せが、そのまま自分の幸せだと思える。

わたしはそのように、変わってしまいました。

今日もどこかで、いろんな物語が展開されています。
辛い今日を生きているかも知れません。
でも確信しています。

やがてはみんな、この至福の中に飛び込んでいくのだろうと。

体験を与えてくれた命達に、仏陀の五戒に、導いてくれた神に、心から感謝しています。

 

 

2012-11-08