わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

猫の安楽死と避妊についての質問 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎質問者のお礼の言葉と他の読者のコメントを最後に付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

猫の安楽死と避妊についての質問 

 

みなさん、こんにちは。
NNKさんからの質問です。


花岡さん、皆さん、おはようございます。
突然で申し訳ないのですが、花岡さんにお聴きしたい事があります。
昨日、愛猫ががんの可能性が高いとの診断を受けました。額の奥に考えられないほどたくさんの何かが詰まっている、とのことで、病理検査に出してもらい、年末に結果がでます。 先生いわく、8割方、がんを疑っていますと。
昨日は、お酒の力をかりてしまいました。
まだ4歳で元気盛り。子供のいない私には我が子のような友達のような。
---- 中略 ----
花岡さんの、明け渡しに関する文章を読み、神様に、全てを明け渡す宣言を最近何度もしました。
今のこの不安と辛さも、すべてゆだねようと思っています。
それで、質問なのですが、安楽死についてどう思われますか。
昨日、場合によっては、癌が脳神経を圧迫すると、猫自身大きく苦しむと聞きました。まだ、突然死のほうが苦しみが少ないと。
もし、安楽死を望まれる場合はお受けしますと。
それと、ちょっと本題からずれるのですが・・
野良猫の避妊・去勢手術をすることをどう思われるでしょうか。
私は賛成派です。 人間社会で生きる野良猫は、
野生動物ではないと思うのです。
もし、できれば、ほんの少しでも、ご意見お伺いできたらと思います。

なんであれ、起こる事は起こるはずの事であり、その事が起こっているのです。
それは、みこころであり、みこころを受け入れられないとするとき、人に苦悩が現れます。

猫の病があって、その苦痛を取り除いてやりたいというのは、当然の想いです。
我々は痛みというその苦しみを知っているからです。
たとえ猫であっても、自分の病みの苦しみは、それは嫌な事でしょう。
そうであるから、飼い主は何とかしてやりたいと思うのでしょう。

安楽死

人に於いてはどうでしょう。
末期の癌で、その苦しみがあり、あと数週間、数日、この苦しみが続くだろうとされるとき、我々は意図的に彼を死に至らしめる事が出来るでしょうか。

楽にさせてやりたい。
その思いは、たしかに彼の痛み苦しみの故ではあっても、さて。
我々は、彼を死によって楽ならしめる事が許されているでしょうか。

法律的な事ではなく、彼を召すのは神であり、我々では無いのだと知っていながら、そうできるでしょうか。

また、それを考えるとき、彼の苦痛を除いてあげたいからではあっても、果たしてそれが、その苦痛の姿を見るのが耐えられないからだと言う事を否定できるでしょうか。
つまり、自分の都合で考えてはいないでしょうか。

人がひとりで生まれ来て、ひとりで帰らなければならない定めは、誰もどうにも出来ません。

それがみこころだからです。

病気だろうが、事故だろうが、災害だろうが、みこころによって、彼の寿命は既にそうあるものなのです。

彼の病が回復するなら最善を尽くすべきです。
そうではなく、その病が不治であり、遅くなく必ずやってくる最後が予見されるのであれば、命に関与する事無く可能な限り痛みを和らげる事しか出来ないのではないでしょうか。

さてそこで、延命装置による、意識を持たず生きている方はどうでしょう。
脳に血液が循環され、細胞が活動している状態であり、尚且つ意識レベルが検知できない状態。
彼は生きているでしょうか。
何年もそのままで、悲しい生を強いられている患者さんがいらっしゃいます。

それは彼の死ぬ権利、神の召し、最後の救いを、妨げているのではないでしょうか。

遺族や、医療関係者のエゴによる、誤った価値観で、彼は救いを妨げられているのではないでしょうか。
人の死ぬ権利というのは、そのような時に主張されるべきではないでしょうか。

人は生きているならば、死ぬ権利は使うべきではなく、また他の人が手助けするべき事でもなく、それは彼と神との間だけの、その神聖なる契りの故に、あくまでも神の召しによって死という救いを与えられるべきではないでしょうか。

それが、みこころであるならば、そうされなければなりません。

さて、他の命であってもそれはそのとおりに違いありません。
死にそうだから、痛そうだから、弱っているから、といって人が意図的に死に至らしめるのは、許されるでしょうか。
そんな可哀そうな姿を見るに堪えないとして、そうしていいのでしょうか。

明らかに治らない、ほどなく死に至る病気の場合、本来ならば多くの猫は自分がどうするべきかを知っています。
ある日突然姿を消し、二度と誰にも会う事はありません。
その骸さえ、探す事ができません。

街中でも、一日に実に多くの虫、鳥、哺乳類、爬虫類が死んでいきます。
山野では尚更多い事でしょう。

しかし、我々は、彼等の骸をめったに見る事ができません。
たまに、交通事故で悲惨な状態にあるそれを見る事は有りますが、病気で息絶えた彼等を我々は、ほとんど見る事が無いのです。

彼等は、自分の命の終わりを知っていて、誰にも知られない自分の墓に行くのでしょう。

(三年前、アルビノの猫が、日に当たりすぎて突然死した例を見た事はあります。
アルビノというのは、色素を持たない白い、目の青い猫です。
生まれたばかりで、どうにもできなかったのでしょう。)

家猫の場合は、それが出来る状態を超えて家の中に置かれます。
ですから飼い主は、家族としての猫の最後を看取る事になります。

しかしどうでしょう。

どのような命であれ、死は、最後の救いであり、それは神に依らなければなりません。
痛みを和らげてあげられるなら、そうして欲しい。
そうして欲しいのだけど、命が神に帰るのは、人にできる仕事ではありません。
また、人のエゴによって、それを阻止していいものでもありません。

一方で、わたしは思う事があります。

人であれ、他の命であれ、希なる極限の場合は、医師はそれを代行していいのかも知れません。
それが、患者を含めた全ての人への救いである場合が、無いとは言い切れません。
この事を深く掘り下げて言うつもりはございませんが、そのとき、神が関係者全てに及んで、純粋なる慈悲故に、そうさせる事はあるかも知れないのです。
その事を、わたしは極身近な者の体験談から、知らされたのです。
この部分について、質問しないでください。
言う事に、明らかな矛盾は認めますが、これについて答える事はできません。

次に。

野良猫の避妊手術について。

あらゆる命に想いを馳せ、気遣い、幸せであれと願うのは良い事です。

しかし、彼等の避妊は、あなたの問題ではありません。
それを、あなたの問題にした時、それだけに留まらなくなってしまいます。
世界の問題の一部分だけをトリミングして解決しようとしても、他はどうでもいいのか、という事になってしまいます。
野良犬は、増えすぎて野菜を荒らす鹿は、果ては格差社会による貧困層の堕胎問題にまで、発展するかも知れません。

まず、あなたの問題を、クリアするのがいいと思います。

わたし、花岡はどう思うか、という質問でした。
世界は、わたしにその解決策を求めてはいません。
関係者、関係地域、団体、組織、そのようなものが種を絶やす事無く、対処してくれるかも知れません。

どうであれ、みこころがそうなっていれば、調度良くそれはそうなります。

わたしにとってやるべき事は、内なる神に留まり、外なる神とも共にある事だけです。

何も望まず、与えられた命を、与えられた分生きるだけです。



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いつも来て下さる方、はじめてお名前を伺う方、ほんとうに真剣なコメントをお寄せ頂き、心から感謝申し上げます。
ほんとうに内容の濃い、お話がいっぱいで、とても嬉しく思います。

家事やら介護やら、雪かきやら、家屋の修繕やら、忙しさにかまけてレスも差し上げず、お許しください。

これからもどうぞよろしくお願い致します。

 

2013-12-19

 

 

 

[質問者NNK]

花岡さん、コメントを下さり有り難うございます。 

安楽死について、今までは漠然と人間のおごり、のように思っていました。  
でも、もうすぐ、目の前でチイ(あえて名前を出します)が、病の苦しみと向き合うことになる(かもしれない)。 
すると、わたしのこころの中に安楽死という言葉が首をもたげました。 

昨日はただ、悲しみの中にありました。 
全身麻酔の検査で、麻酔からさめて痛みもあったのだろうチイは、遠吠えのように泣き続けました。 

もしかしたら、そのような状況の中で、安楽死について意見をお聴きしたのはフライングだったのかもしれません。 
ただ、後悔していません。花岡さんの文章を読み、私のぶしつけな質問にも真摯に答えてくださり、ほんとうに感謝しています。 

仕事に行くのが少し億劫でした。でも、職場のあらゆる人々に癒やされふつうに過ごしているわたしに気付きました。 

あまりにも単細胞なわたしですが、昨日は悲しみの目でチイを見ていたのに、今日はただ、いとおしく感謝の目でチイを見ています。 

チイは、動物愛護団体にて引き受けた猫ですが、 
訪問した日、足元に寄って来る人懐こい猫たちとは対照的に、箱の奥に隠れてこちらを見ていた控えめな子でした。 
今から、思えば、すぐに病気になってしまうから、迷惑をかけるからと隠れていたのかな、と思ったりもします。センチメンタルですが。 

花岡さんの文章を読み、改めて、チイとのかけがえの無い日々を悔いの残らぬように過ごして行こうと思いました。 


野良猫の避妊・去勢手術についてもご意見を下さり有り難うございます。 


わたしは、視野が狭いところがあります。もう一度、しっかり見つめようと思います。 
処分という現実、虐待という無慈悲。考え出すと、胸が痛みますが、でも、わたしは、慈悲魔に陥っていたかもしれないとも思います。 
振り回されすぎたら自分を失うのかもしれません。 

ほんとうに、まず自分の問題をクリアにしたいと思いました。自分の心を浄化することが、世のため人のために繋がることを祈って。 


まっすぐなコメントを下さり有り難うございます。 
暗闇のトンネルを出て光を目指して歩いている途中のわたしには、こちらのブログに出会えたことは、安らぎであり喜びです。これからもブログを楽しみにしています。 


[読者KPT]お気持ちが落ちついたようで、よかったです。

花岡さん、皆さん、NNKさんこんばんわ 

今朝はNNKさんが心穏やかでないのを感じ、僭越ながらコメントをさせて頂きました。 
冷静さをとりもどされたようで、なによりです。 

私は数年前からただ何となく思うのですが、もし地球に私達、人類と同じレベルの自我があったら 、人類が誕生してから何前年もの間に、戦争を繰り返し、環境破壊をし、生態系を破壊している、人間を真っ先に排除し、とうの昔に人類は絶滅していたでしょう。 

氷河期に恐竜が絶滅したように、全球凍結をすれば簡単に人類を絶滅させることでしょう。 

でも、地球はそんなことはしません。なぜなら、地球は私達の魂と同じ、もしくはそれ以上の愛をもっている、愛の存在だからだと思うのです。 

それが、花岡さんのブログに出会え記事を拝読していくなかで、腑に落ちた時、私は自分の視野の狭さ、心の狭さを知りました。 
そして、私は魂やその他の大きな力にも生かされているのだと知りました。 

昔から、エスキモーの人達は食用として、乱獲をしない程度で自分達に必要な分だけ捕鯨をしていました。 
現代で捕鯨反対運動をしたり、過激な反対行為をしたり、避難の声を高らかに上げる、西洋諸国の人達のご先祖さま達は、食用としてではなく、ただ油を採取するだけに捕鯨をし、乱獲をしていました。油を採取した後の鯨はただ棄てられていました。 
さらに同様の目的で多くのペンギンも殺されていました。 

今ではそのような、闇の歴史はなかったかのようになっていますが、時代の移り変わりにあわせて自我も変化しており、限りがなく。 

なので、動物などの生き物や自然界のことより、自分の生をまっとうすれば良いのだと、花岡さんのおっしゃったことに真を感じました。 

 

[読者HRK]見守る

恐れる時、状況をコントロールしようとしている自分に気づきました。 
愛の時、状況を見守っている自分に気づきました。

 

[読者E]明け渡す

私も、何かしようとしている時はうまくいかないし、なんだか、スッキリしないことが多いです。 
HRKさんが書いているように恐れているのだと思います、私の場合、何もしていない状況を。 

何もしなくても、すごく幸せな時が稀にありますが、それが訪れる瞬間はコントロールできないです。 
でも、仰るように、その時は確かに状況を見守ることのできる余裕はありますね。 

そして、その状態に自由に出入りできる練習、と思いながら、また何かしようとしている自分に気づきます(悲しい・・)。

 

[読者TR]愛犬との別れで学んだ事

リンパ癌になった愛犬と向き合うことで 
多くを学びました。 

延命治療 
安楽死 

頭をよぎりました。 

結局自然のままに逝かせる選択をしました。 

治る見込みのない身体に必要以上に負担を 
かけたくなかったからです。 

私がもう少し一緒にいたいと願う代償を 
愛犬に背負わせたくはなかったから・・・ 

愛犬は病気になったらなったなりに 
ありのままの姿を表現していました。 

けれど私は愛犬を失う悲しみや恐れから 
色々なことを想定しては泣いてばかりいました。 

あれもこれも知っているのに 
知っているはずなのに知っているだけでは 
何の役にも立たないことに気づきました。 

ありもしない今後を考えることを放棄しました。 
大切なのは今ここであってそれがすべて。 

落ち着いてよく愛犬を眺めてみると 
よく寝てるし、ふらふらしながらでも歩いてる。 
辛そうだと思うから辛そうに見えていたけど 
ありのままの姿を眺めていると愛おしさが湧き上がってきました。 
残された時間をいつもと変わりなく元気だった頃と同じように一緒に過ごす。 

病気でもそうでなくても 
愛犬は愛犬であってそれ以外の何者でもない。 
愛犬は全てを受け入れて、その体で心で今できる全てを表現している。 

そう感じるようになってからは 
とても幸せな気持ちで過ごせるようになりました。 

最後の時がきても 
悲しくはありませんでした。 
ありがとうの気持ちでいっぱいで笑顔で 
見送りました。 

癌を患って5か月後のことでした。 

神様は私にいつも与えてくれている。 

悲しい気持ちで見送ることなく 
幸せな気持ちで見送ることができたことに 
喜びを感じました。 

人も動物もいつかは死んでしまう。 
その死にどう向き合うか? 
人それぞれだと思いますが 
いつか誰かと 
別れが訪れようとしているとき 
残された時間を悲しみではなく 
ありがとうの気持ちで過ごされる方向に 
シフトされればそれがお互いの 
癒しにつながっていくのではと思いました。 

肉体が滅んでも魂は永遠だと 
なんとなくそれが真実だと感じられるから 
別れの悲しみや寂しさから解放されたのかもしれません。 
花岡さん 
いつも素敵な表現をありがとうございます。 
何度読んでも読むほどに幸せな気持ちが湧き上がってきます。 

 

[読者RN]質問です

花岡さん 

いつも素晴らしい記事をありがとうございます。 

一つ質問があるのですが、もしお時間や機会があればお答え頂けますと幸いです。 

私はもともと動植物が大好きで、最近では無生物のモノでさえ、そこに生命の輝きを感じ感動することが度々あります。 

しかし、最近数人の覚者の説くところを読んでいると、動物に関して、2種類のことを説いていることに気がつきました。 

ある覚者の方々は動物も生命の現れ、神の現れであり、よって尊重するべきものであるという内容(花岡さんも、こちらの見解に近いと理解しているのですが)であり、私はこちらに通ずるものを心で感じています(無生物にさえ生命の輝きを感じるので・・・)。 

しかし、他の覚者の方々の中には、「動物に生命なんてない。それは幻想。動物は人間に食べられるために存在しているのだから、自由に食べたら良いし、動物愛護なんてナンセンス。全ては幻想であり、皆自由なのだから、好きなことを各自やっていれば良い。それが真理だ」ということを説くのを目にすることがあり、非常に違和感を感じます。 

なぜ同じく真理を悟った方々が、こうも相反する見解を説かれるのでしょうか?これは、悟っても、その人個人個人の性格や見解が残り、そこに色づけされてしまうということなのでしょうか? 
それとも、悟りに種類や段階があるのでしょうか? 

花岡さんのご見解をお聞かせ頂けますと幸いです。 

寒い毎日ですので、どうぞご自愛下さい。 

 

*この読者の質問に花岡さんは答えていないが、以下の記事のコメント欄での読者との問答の中ですでに見解を示している。

shikoutoshi.hatenablog.jp

その部分を以下に引用する:

 [花岡]BBさんへ

これはあくまでもわたしに伝えられた事ですので、そのまま受け取る必要はありません。 

さて。 

目覚めた人は、他のどのような見解にも惑わされる事はありません。 
目覚めた人は、人はそれぞれに、そのような性質を持つという事を認め、否定も肯定もする事がありません。 

多くの人は一気に神の領域に溶け込む事は不可能です。 
人が世俗を生きなければいけないうちは、馴染みのある個性を捨て切れてはいません。 
それは時として見解の相違という形で現れるかも知れません。 

そのような真実目覚めた人ではない人々は、互いに自分の理解こそが正当だと主張します。 
その主張こそが自我にどっぷりはまっている証拠である事は疑いようがありません。 

人は目覚めたからと言って、他の人を矯正しようなどとはしません。 
他の人に教えようなどとは思いません。 
ただ、聞かれたら答えるのみです。 
それは教えるという行為ではなく、ただ分かち合うという程の行為です。 
であるから、否定されても苦でもありません。 

もしも人が真実神に触れたのであれば、どうして他の人の見解が気になるのでしょう。 
真実は神が教えてくれるのです。 
誰がどう言ったからとて、まったく頓着しません。 

真実目覚めた人は、他の覚者と仲良くする理由がないから仲良くしないだけです。 
決して敵対などせず、否定も肯定もしないのです。 
例えばラマナ・マハルシとクリシュナムルティとが他の人には険悪な関係に見えたとしても、それは敵対しているのではなく、仲良くする理由が無かったというだけの事です。 

批判、中傷、「わたし」の主張、嫌悪、排他、それらが伴うなら、それは世俗に生きる人です。 

そのような対立がなぜ気になりますか? 
人がどういう見解を主張しても気にしてはいけません。 
ただ内なる真我から伝えられる智慧だけを拠り所としなければいけません。 

そのような姿勢が、よりあなたと真我との距離を近づけます。 
ハートから溢れ出る愛と至福を楽しみながら、内なる神に逢いに行くのです。 
それ以外に何が必要でしょうか。 
世俗の事は世俗に生きる人に任せておけばいいのです。 

人格というのは、その人のステージの問題であり、個性の問題でもあります。 
「わたし」を脱ぎ捨てた人がそのような事に翻弄される事はありません。 

 

 

 

 

*ちなみに、私が飼っていた犬も数年前、死に際にいなくなった。猫だけではないのだ。

(ブログ管理人より)