わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

人を苦悩に陥れるものは 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎コメント欄でのやりとりも付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。
 
人を苦悩に陥れるものは
 
幼子には無くて、おとなには有るものはなんでしょう。

常識です。当たり前と言われる価値観です。道徳です。規律です。

幼子は、そのようなルールがないから、無心で、無邪気で、天心で、嬉々としています。
それだから、体験であらゆる事を学べます。
しかし、成長に伴い、言葉を覚えると、親は自分の価値観を刷り込もうとします。
親もそのようにして、価値観を刷り込まれて来たからです。

だれも、自分で体験して得た価値観ではありません。
それなのに、それを当たり前として、自分で知ったがごとく、人にも強要します。

その価値観で、相手を評価し、ジャッジし、断定します。
価値基準に合わないと、無視し、嫌悪し、阻害し、排他しようとします。
その価値観で、自分が評価され、ジャッジされ、断定されます。
価値基準に合わないと、無視され、嫌われ、罵倒され、受け入れられません。

人は、まったく、自分に都合の悪いものを否定し、都合のよいものを肯定する、
エゴな価値基準を、代々継承し、押し付け、刷り込んで来たのです。
苦悩というのは、その価値基準、価値判断、そこから現れてきます。

価値観が、人を裁きます。
価値観が、自分を追い込みます。
価値観が、相手を許しません。
価値観によって、自分が苦しみ、悲しみに暮れているにも関わらず、それに全く気づきません。

苦悩の元なら、手放せばいいのに。
それが自分を支えているがごとく、握ったまま離そうとしません。

本来、人は自由なのです。
自由に生きて、なおかつ、教えられなくても体験から知り、善悪の判断はできます。
助け合い、支え合う事に誰でも喜びを感じます。
愛し合うことに幸せを感じます。
本来人は、自由に生きて、助け合って生きていけるのです。

そうであるなら、ほんとうは国という囲いもいりません。
政府もいりません。
まったく税金など納める必要は、ほんとうは無いのです。

しかし、エゴが価値観をつくりだしました。
価値観が争いの元です。価値観が苦悩の元です。
法律が必要なのは、価値観で相手を判断し、受け入れられないものを排他しようとするから必要になります。
価値観とは、そういうエゴから生まれ、価値観に対抗するために、また価値観を持ち出します。
まったく道徳が価値観です。規律が価値観です。
本来必要のないものであって、価値観が価値判断するから、道徳という価値観で価値観を見張らなければならないのです。

価値観が、人は誰でも同等で平等で上下なく優劣もないという、極当たり前の事を見えなくし、誰をも悲しみと苦悩に陥らせます。

親と子は、人として同等であり優劣がないのに、親を敬え、従え、感謝しろ、養え、と価値観が言い張ります。
ひとりで大きくなったわけじゃないだろうと恩着せがましく言っても、子を養う責任と義務を負うべきなのは親なのです。
子にあるのは、ただ権利だけだという事を、親はどうして気づかないのでしょう。だから親子は対立するのです。
企業主は対価を払い、社員は労働力を提供し、同等であるのに、上下関係があるのだと言い張ります。
その価値観が、労使関係を悪化させます。
夫婦は、お互いを支え合い、苦楽を共にするべきなのに、主従関係があるがごとく言い張ります。
その価値観に違和感があるから言い争います。

あらゆる苦悩が、ありもしない価値観から生まれてくるのです。

価値観が、自分自身を苛(さいなみ)ます。

これはいけない事だ。これはやらなければならない。善だ、悪だ。優だ、劣だ。
そのような基準はないにも関わらず、マインドが価値観をもって自分も他も非難します。

やりたいなら、やればいい。
やりたくないなら、やらなければいい。
それが、自分の内側から出てくる衝動なら、それでいいのです。
なにが間違っているというのでしょうか?
ありのままの自分なら、なにも間違っていません。
ありのまを、歪曲して見る基準が、価値基準です。固定観念です。
ありのままを、ありのままに見るなら、そこにどんな判断も、断定もありません。

全ての苦悩は、マインドのレベルで思考する、価値基準、価値判断という、価値観にあるのです。

そうであるなら、今すぐ手放せばいいのです。
なんと見え方が違ってくる事でしょう。

価値観、常識、当たり前という固定観念ももっている限り、それに支配され、自我の牢獄の中で、不幸な自分でいなければなりません。
そこに絶対的に悟りは無いのです。

もし、本当の自分、真我に気づきたいのであれば、代々受け継がれてきた価値観をまず、手放さなければなりません。
それは悟りを遠ざける自我の鎧です。
それを捨て去れば、もう争いも、非難も、悲しみにくれる事もありません。
普通の事を普通に受け入れられます。
なんと自由な解放感を得られるでしょう。

人は気づけば、だれでも幸せなのです。
こうすれば幸せになれるという、様々な手法を提言する人がいますが、それは価値観で捉える幸せです。
ほんとうの幸せは、だれでも今、ありのままで幸せだという、この幸せです。
取りに行く、手に入れる、そのような幸せは、不幸も共に手に入れてしまうのです。
紙の表だけ手に入れる事はできません。裏も一緒に、そこにあるのです。
ほんとうの幸せには、理由も条件もありません。
ただただ、ほんとうに幸せなのです。
その幸せが、ここ、ハートから溢れてきます。
源泉から、溢れてくるのです。
ジャッジする価値観、断定する価値観を、捨てるだけでいいのです。
幼子に、それを学んでください。
 
 

2012-05-20

 

 

 

[読者T]花岡さん、みなさんこんにちは。 

この幼子ように信頼し、明け渡すが多分みんなの最後のピースなような気がします。 

みなさん、自分の問題は人はそうでも自分は違うと思いがちですよね。 

私だってまだまだ問題山ずみですよー。 

でもね、自我にはまりそうになるけど、今は前とは違うのは自覚しています。 

一人で背負ってるような、孤独感もないし、私の中に居る私を頼りに、問題(幻想)と向き合ってます。 

私たちはみんな、より良い暮らし、願望実現、幸せになるために、戦って、神経擦り減らし、ひとつ願いが叶えばまた次の願いを…と際限がありませんよね。 

でも幸せは探さなくても今ここにあります。 

願望を叶えるためにエゴと戦い、苦しみながら叶えなくても、エゴを手放せば、全てはここにあります。 

このエゴを手放すのが、できなくて、またエゴにはまり苦しむんですよね。 
みんなこれができなくて苦しむんですよね。 

全てを失うような、裏切られたような、不安や恐れが邪魔してすすめないんです。 

私は、とにかく、エゴ(思考)に気付くようにして、苦しくても、泣き叫んでも、起こるがままにしているようにしています。 
諦めず、何度でも、やります。 

途中、自分を卑下するような言葉も浮かびますが、それも受け入れただ気付いてそのままにしておきます。 

時間は問題じゃありません、すると、必ず安堵感でいっぱいになる時があります。たとえ僅かでも、かいま見えたら後は、続けて行けば、段々自分がエゴにコントロールされなくなります。 

全てがここにあるとわかった時、向こうから、問題解決がやって来ます。 

願望も自然と叶うんだと思います。エゴに惑わされて願望実現しようとすると、実現しないか、叶っても不幸と抱き合わせだったりする気がします。 

私たちの本来の目的は、神のシナリオ通り、神じゃないものを経験しながら、神に還る、幻想の中を旅してるんだと私は思ってます。 

だから本当はどこかでわかってるのかもしれないですね。 
本当は全て叶ってる事を。だから、目覚めると不思議と願望が無くなるんですよね。 

幼子は全てわかってるんですよね、見てるとわかります。 

私もずいぶんと子供たちに自分の理想を押し付けてしまいました(反省) 

私も幼子のようになって明け渡します。 

源泉かけながし露天風呂でみなさんと一緒に。

みなさん、いつもコメントありがとう。 



[花岡]Tさん。 
この力強い、確信に満ちた文章に、感動しております。 

これは、わかってしまった人でないと、言えない言葉です。 

すばらしい事です。 

目覚めが、みなさんにも波及し、連鎖していきますように。 

これからも、サポートよろしくお願いしますね。 

みなさんも、他人事じゃありません。 
ぜったい、目覚めていきます。 
ハートのチャクラが開き、溢れる愛を、至福を味わうことになります。 
焦って取りにいかず、ただ、あるがまま受け入れて、自分の全てを明け渡す。 
それだけで、それは向こうからやってきます。 

Tさんのように、なってしまうんです。 

 

*この「読者T」は、以下の記事で取り上げられた人。コメント欄の常連の一人だ。

shikoutoshi.hatenablog.jp

(ブログ管理人より)

 

[読者A]Tさん、みなさん 

先日はいろいろとアドバイスありがとうございました。 

でも、私が苦しいと思うのは、やりたいことではない(あるいは、あとで後悔する)のに止められない。 
反対に、やりたいと思っている(あるいは、やらないと後々不都合が生じるであろうから、やらなきゃと思っている)ことが出来ない。 
だから、≪苦しい≫ということなのです。 

最近は、ごく簡単なことさえ出来ないことが多いです。 
例えば、外に散歩に行くとか。 
あるいは、夜寝ようと思っても、なかなか布団に入れない。 
それで、とても不健康な生活になってしまいます。 

ところで、Tさん 

>私は、とにかく、エゴ(思考)に気付くようにして、苦しくても、泣き叫んでも、起こるがままにしているようにしています。 

「起こるがまま」というのは、「思考が起こるがまま」ということでしょうか? 

ここでは「出来事が起こるがまま」という意味ではないですよね。

 

[読者T]こんにちは。 

思考も出来事も両方ですよ。 

出来事をそのままにして問題になる事って本当にあるのか、可能性はひとつじゃないのではないか、起こる事なんて、誰にも予測出来ない事だから、だから、あるがまま受け入れるのです。 

どんなことが起ころうと、私はあるがまま受け入れる。と決意すればいいんです。 

Aさん、言葉は単なる記号です、ラベルと同じですから、あんまり深く考えず、その後ろにある意図を感じてみてね。 

しなければならない、こうあるべき…などAさんを縛ってるエゴに気付いて、どんな小さな事でも、絶望的な大きな事でも同じです。 

あるがままにして、感じてみて下さいね。 

エゴ(思考)に抵抗するから苦しいんです。 
だから信頼し、起こるがままに受け入れ、そして自分の一切合財明け渡すんです。 

やらなければ、わからないまま、同じ所をぐるぐるですから、やってみて初めて、「なーんだ、何にも悪い事なんて起きやしなかったわ」ってなると思いますよ。

私たちの生活自体が明け渡しの生活で大丈夫なんですよ~。

 

[読者A]Tさん 

ありがとうございます。 

ただ、「言葉にとらわれるな」と言われても、 
ここでは言葉(文字)を介してのコミニュケーションしかしてないのですから、 
私にとっては「無理な話」という感じなのです 
(でも、直接会って話しても大して変わらないかもしれませんが・・・)。 

「あるがまま受け入れる」 
出来事に関しては、これが難しいですね。 

自然現象ならば、「仕方ない」と、だいたい受け入れられると思うのですが、難しいのが、他人のやったこと。 

あとから、「ああすれば防げた」と後悔します。 
それから、もう一つ大きいと思うのが「恨み」の感情です。 

この「恨み」が、ふとしたときに顔を出し、いつの間にか恨んでいる自分になっている。 
そんなことが、一日に何度も起こっているように思います。 

「思ったことができない」というのも、この他人(特に家族)に対する恨みとか、感情のわだかまりが消えないために、スムースに行動することができないという部分があるように感じます。 

それから、たとえばPCのゲームにはまってしまう、というのも、そういう自分の心を見つめたくないので、逃避のためにしてしまっているのでは、とさっきふと思いました。

 

[読者T]Aさん 

その気持ちよくわかりますよ。 

でも、どんな気持ちも、ちゃんと感じてる事に気付いてるじゃない? 

起きてる事や、沸き起こる思考がどんな事かは、問題じゃないんですよ。 

その時のAさんの気付く気持ちが大切なんじゃないかしら。 

気付いて感じる事は出来てるのだから、後は抵抗しなければいいと思うの。 

何にも恐れる事なんてないですから、花岡さんが、言ってるように、源泉に明け渡すと、本当にちゃんと面倒見てくれますよ。 

夢や幻やまやかしじゃなくて、こっちが唯一のリアルな世界なんですよ。 

エゴが幻想だと気付くのは、今までのものを全部ひっくり返す、否定する 
事だから、なかなか出来ないかも知れないけど、 
何度でも、やってれば、必ず、愛や意識が拡がっていきますよ。 

源泉を説明する言葉って難しいですね。 
意味付けは個人でそれぞれが考えていい自由も与えてくれたんですね。 

自由に楽しんでやりましょうね、お互いに。

 

[読者A]Tさん 

ありがとうございます。 

以前「『自分には来ない』と思ってると、本当に来ない」と教えていただきましたが、 
それでもやっぱり「自分には来ない」とどこかで思ってる自分がいます。 

極端に言えば、「私以外の世界中の人たち全員が目覚めたとしても、私だけには起こらない」みたいな・・・。 
そういうふうにさっき思ったんだけど、今こうして書いてみると、そこまではひどくないかな~と思ったりして。 

でも、何だかとにかく、 
「私以外の世界中の人たち全員が幸せだったとしても、私だけは不幸だ」みたいな思いがどっかにある感じがします。 

今、自分が、ある状況に閉じ込められている、縛り付けられているように感じる。 
そこから抜け出したい。幸せになりたい。 
でも抜け出せない、動けない、みたいな。

 

[読者T]花岡さん、みなさんおはようございます。 

Aさん 

私もまったく同じく、自分だけには幸せは来ない、目覚めなんて遥かな夢だと思ってました。 
でも、これこそ幻想ですよ。 

「自分には来ない」と言う思いも全て受け入れ、感じて下さい。 
感じて、感じて、それでもまだ苦しい、何にも変わらない… 
一生懸命感じても、自分にはやっぱり来ないんだと思いますよね。 
もう限界だ…もう嫌だ…どうにかしてくれ…となったら明け渡す時です。 

自然と出来ますよ。やろうと思っても出来ないので、とことん苦しみを感じ、もうダメだ!となるまで味わい尽くして、感じると、不思議な事が起きますよ。 

何だか魔法みたいでしょ? 

焦らずに…今苦しみの真っ只中に居ても、意識をずらすとちゃんと幸せな自分が居ます。 
それじゃなかったら、私達は今ここには居ませんから。 

身体に力が入って肩が上がってませんか? 
リラックスしてねぇ。