わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

お答えします「お金ってなに?」 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎質問者のお礼の言葉と他の読者のコメントを付け加えておいた。Hさんから頂いた記事です。

 

お答えします「お金ってなに?」

 

KPTさんからの質問です。

> 花岡さん、みなさん、ごぶさたしております。
質問したく、コンメントをさせて頂きました。

質問内容は「お金とはいったい、なんなのでしょうか?」 
花岡さんは、お金をどのようにとらえて、いらっしゃいますか? 

私は今まで、生活が出来るだけのお金があればいいと思っていましたので、お金がいったいなんなのか、意識したことはなかったのですが、いくら働けど減ることがあっても、増えることがない状況になり、初めてお金とはいったいなんなのか?ふと、疑問に感じました。

消費税の税率アップ、資本主義の象徴である購買意欲を煽る過剰なまでの宣伝広告。
そして、世の中の多くの人がお金で悩み、翻弄されているように見えます。

スピリチュアルを説く(生業にしている)方々のほとんどが、「今、実際に手元にお金がなくても、お金はある。」とおっしゃっていますが、私にはまるで禅問答で、腑に落ちません。

つたない、質問で恥ずかしいのですが、お答え頂けたら幸いです。


お金ですか・・・。

KPTさん、お久しぶりです。たいへんお待たせ致しました。
お金の問題は、重大です。

お金のために、比べられようも無い大切な尊い命が奪われ、人々の信頼は崩壊し、全てが敵になっているのですから。

ですが、わたしは最早、お金に執着しておりませんので、どうお答えしましょうか。

お金はつまり、ただの道具ですけれど、(物が)欲しいという心が人の中にある時には、それは欲の象徴として絶大な力を有している訳です。
お金は人々の欲から排泄される執念やら怨念やらがまとわり付いていて、真剣に考えるのさえ、汚らわしいという程の存在です。

そのように言えば、きれいごとだと言われるかも知れません。
しかしわたしは、欲を持たない潔い(いさぎよい)人に出逢いました。

わたしは、彼に感化され、自らの薄汚い欲をありありと観る事が出来たのです。
わたしは恥じて、欲を捨て、清らかな者に立ち帰ろうとしました。
その姿勢を崩す事は無かったのです。
そのおかげで、得難いものを得るに至りました。

いつだって必要なものが与えられる。
いつだって必要な起こる事が起こる。

今までは、あるがままの現れに、惨めさや嫉妬など、エゴの意味づけで「あるがまま」を否定し、抵抗し、逃避して、未来に希望や理想を妄想していたのです。

わたしはデパートの玩具売り場で、買ってもらえない事に腹を立て、仰向けになって手足をバタバタさせていた子供だったのです。

今与えられている「あるがまま」を、たったの一度も見る事が無かったのです。

運の無さを否定せず抵抗せず、受け入れて、それが現れるに足る意味を知らない事には、なんのための現れか。
未来に希望を理想を持つ事が大切なのではなく、それは「今のこのあるがまま」にある尊い意味、なぜこれが必要なのかを悟る事無く、希望や理想との隔たりによって、葛藤苦悩を更に深めるだけのブラフだったのです。

わたしは「お金が無い」この現実を、受け入れる選択をしました。

靴が無くても、足は靴に勝る。服が無くても体は服に勝る。
何かを得ようと思い為す事をしない花も、美しく咲く事ができる。
与えられるまま受け入れる鳥は、大空を自由に飛んでいる。

全てイエスの言われるとおりなのだから、受け入れて潔く、流れを否定せず抵抗せず流れて行く事が、神に辿り着く最も近い道なのだと理解したのです。

それでわたしは、自由を得ました。

今わたしは、自由です。

未来からも理想からも希望からも、それによる現実とのギャップからも、それによる葛藤からも、自由です。
受け入れる、現れに任せる、これだけでこんなにも、軽くなれるのです。

後は現すあの方が、どうにかしてくれます。
どうにかなるのです。

人は、どんな時にも、必ず絶対、どうにかなって行くものです。

わたしはすごく貧乏で、無駄遣いとか出来ないのですが、それでも必要な物資はなぜか集まってきます。
それでまあ、このようなネット環境も使わせて頂いている訳で、コーヒーも美味しく頂いております。

今、足りているからそれでいいのです。
また、いつか足りなくなって、飢え死にするのであれば、それもいいし、むしろ楽しみでもあったりします。

全て、現してくださる根源にお任せして、与えられるものだけ頂いて、命を召されるのであれば、差し上げます。
わたしとは、そういう者で居られる事が、幸せなのです。

それで日々、この至福に預かっているだけの、まあチッポケな存在な訳です。
そのようで居る事が、とても嬉しいのです。
なぜなら、命よりもっと尊いものを、有難いものを与えられ、頂いたからです。

スピリチュアル系の先生方が、「手元にお金がなくても、お金はある」と申しておられる事については、わたしはわかりません。
お金自体に縁がございませんので、計り知れない理論です。

それでも、何かしら意味があっての言葉なのでしょう。
先生に直接聞かれるのは、大切です。
言った本人はよくわかっておられる事でしょうから、ぜひ聞いて頂き、わたしにも教えて欲しく思います。

ところで、よく質問されるのが、目覚めた人とお金の関係。
みんな、そのへんが気になっているようです。

単なる金儲けなんじゃないのか?
こんなにお金費やしてるのに、なんで悟れないのだろう。詐欺?

あちらでも、こちらでも、ヒソヒソ話が聞こえて来そうです。

わたしは営業(?)を一切しませんので、どういうつもりでその先生方が会費、参加料、講演料、印税、その他金銭を得ているのかはわかりません。

しかし、人はたとえ、目覚めたとしても生活して行かなければならないのですから、お金は必要でしょう。
先生方も、生きておられるのですから。

セミナー参加者が、例えば期待した程の事が得られなかったとしても、それは期待が膨らみすぎた為のギャップかも知れない。
また、全くの偽先生であったとしても、今後に見る目を養ったと思えば、それなりに得られたのですし。

効果が得られないのは詐欺ではないか?と言いたい気持ちも、真理を商売にしていいのか?という気持ちもよくわかります。

それなら、そもそも、聖なる気づきを、お金で買おうとしたその人は責められる事は無いのでしょうか。

シュリ・ラーマクリシュナは、大勢を前に教えても、帰りの馬車賃5ルピーさえ受け取ろうとはしなかった。

ほんとうは、聖なる教え、尊い悟りは、商売にしてはいけません。
お金の故に真理を汚してはいけないし、教えられるほうもお金で買おうとしてはいけません。

しかし、商売ではないお金のやり取りはあってもいい。
それは時間を割いて労してくれた先生に対してのねぎらい、感謝として布施されるのであれば、構わないのではないでしょうか。
指導者を養い(供養)するのは神への奉仕だからです。

しかしながら、わたしはこうも言います。

真の指導者は、そもそも指導しようなどと思わない。
ただ、求める者に与えられるものを与えるだけだ。
救える者を救いたい、ただそれだけの想いがあるだけだ。
神のみこころと同じ想いが、そこにはあるだけだ。
決してお金を求めたりはしない。
見返りを期待したりはしない。

まあ、双方、商売として考えていないのであれば、それでいいのでしょう。

人々の頭の中は、お金の事でいっぱいで、真理を観る事は無い。
引き寄せの法則は、人々の欲の法則である事を誰が思うだろう。
お金儲けの成功者が納税高を自慢しながら悟りを伝授する異様な風景。
この世界は不思議で満ちている。

ラマナもラーマクリシュナも、ボロ切れ一枚で暮らしていた。
とても貧しく、貧しさを嘆く事もなく、それだから神の愛に満ち溢れて、それは輝くばかりの聖者だった。

そのように生きろとは言わないけれど、欲を持っているうちは絶対悟る事などできはしない。
欲の大きさだけ、悟りは彼方に遠のいて行く。

悟りたいというのも、欲に他ならない。
悟りたいを捨て、ただみこころに身を委ね、運ばれるまま受け入れるなら、それは既に得ているのを知るでしょう。

お金に関して申し上げるのは、とても気持ち悪いです。
いきなり俗世間に、どっぷり浸かっている気分です。

これでどうか勘弁してくださいませ。

お金儲けが悪い訳ではございません。
それで国家経済も廻って行くのですから。

皆様、誤解なさらず、断定せず、裁かず、健やかにお過ごしくださいますよう。

 

 2014-04-22

 

 

 

[質問者KPT]お答えを頂きありがとうございます

花岡さん、こんにちは 
ご返答を頂きありがとうございます。 

残念ながら、スピリチュアルの先生方に質問をすると「お金があるとはどういうことか?知りたいなら有料セミナーに来て下さい」 
と言われます。 
ビジネスなので、知りたいことはお金と引き換えですよと、言われます。 

私もお金には執着はありません。 
なので、お金=道具であり商品券などと同じ感覚でしか捉えられません。 
もう少し言うと、日本銀行券と印刷された紙でただの、引き換え券と言う感覚です。 

それに、翻弄されている人達が不思議でならず、今回は質問をさせて頂きました。 
ここからみたら、それはとても不思議で奇妙なことでした。 

花岡さんに、不快な思いをさせて申し訳ありません。ですが、同時に花岡さんのお答えと私の感じていたことが違わず、とても安堵いたしました。 

最後に花岡さんやこちらの読者の方々のお陰で、得たことを、コメントさせて頂きます。 
何かを求めているのは常に自我だけです。 
例えば、明け渡したいと言っているのは、思っているのは誰でしょう? 
常に道を迷わせているのは誰でしょう? 
それに気がついた時、私は大笑いをしていました。 
いつだって、ここに居たのに。そこにいこうとしていたことが、滑稽でなりませんでした。 
そして、花岡さんが過去のブログでおっしゃっていたことが、すべて、腑に落ちました。 

花岡さんそして読者の皆さんに、感謝の気持ちで、いっぱいです。 

一度では、コメントをしきれないほどの、気づきをえましたので、また機会がありましたら、コメントをさせて頂きたく思います。 

ありがとうございました。

 

[読者匿名]はじめまして、こんにちは。 

>お金に関して申し上げるのは、とても気持ち悪いです。 
>いきなり俗世間に、どっぷり浸かっている気分です。 

俗世間で生きている人たちと私は違うと 
思ってらっしゃるのでしょうか。 
まるで俗世間にどっぷりつかった人のような発言ですね。

 

[読者HN]え。

「お金はただの道具」なのに「汚い気持ち悪い俗世間の悪しき物」ってレッテル貼りまくるんですか?

 

[読者TN]バランスをとる

私はこういう考え方をしています。こじつけかもしれませんが。 

お金(その他物的なもの)を稼ぐために努力はするけど、それが手に入らなくてもなんともない。 

結果にこだわらないという屁理屈のようなものなのですけど。 

欲がなくなることはないんですけど、そこに気づきを入れればスッと消えていったりします。