わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

どん底にこだわらないで【再掲】 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎この記事は、以前掲載した下記の記事の再掲になる。以前の記事は、私が手書きでノートに写したものが元になっており、私流の行替えになっている。

shikoutoshi.hatenablog.jp

今回の記事は、KTさんから頂いたオリジナルのコピー。

 

どん底にこだわらないで

 

わたしの体験を聞いた人は、みなさん、同じような事を言う。

そういう人生のどん底を経験しないと自我の明け渡しは不可能なのですか?
自分には耐えられる自信がない。
わたしはそんな苦しみは味わう事無く悟りたい。
瞑想で悟ると聞きました。どうして出来ないんですか?

だからね。

どん底を経験することが悟りの入り口じゃないんだよ。
自我を、絶対的に放擲する、これが出来ればいいだけだ。
どん底経験が無くても、いいんだよ。

だったら、瞑想で徐々にでもやれるんじゃないですか?

瞑想は手放せる自分を形成して行くには、必要な行だけど、
瞑想をしている自分っていう自我はそこにあるでしょう?
それで得られるのは、境地だから、覚めたら元にもどるんだよ。
もちろん境地を否定しているわけじゃない。

要は、準備ができたかどうかだけ。
準備ができて、シフトできるかどうかだけ。
瞑想は、その準備のための大切な役目をしている。
でも、瞑想しなくても準備ができていればいいんだよ。
要するに、瞑想が直接の気づきに繋がっている訳じゃないって事。

だから、ある禅師は簾を巻き上げてる時に、
ある農夫は、畑を手入れしている時に、
あるサラリーマンは瞑想経験がなくても、ふっと思考を止めた時、
突然きちゃうわけ。

でも、自我を捨て去ろうとするそれも、自我がするわけでしょう?

そう。だから自我を完全に消して、無いものとすることはできないんだよ。
日常を生きているからにはね。
そういうわけで、明け渡すと言ってるんだよ。
じゃあ何に明け渡すかっていう事になるでしょう?

自我も何も、ありとあらゆるものを出現させている源泉にね。
お返しするの。

もう充分自我を頑張ってみました。けれど、もうお手上げです。
お返ししますから、あとは好きなように処分してください。
どうなろうと何も文句言いません。
どうなっても受け入れます。
絶対的に源泉である、それを信頼しきっておまかせします。
この手に負えない自我も、このわたしという思いも共に、引き受けてください。

で、源泉にそのままシフトするわけ。
その時、ああ、もう自我に責任持たなくていいんだって解放されるんだよ。
解放された喜びが胸に証として現れる。
それがハートのチャクラが開くって表現しているそれ。
まるで、自我という岩戸を、アマテラスが開いてくれるように。
開いちゃったらもう、溢れ出る溢れ出る。 愛がね。 無条件の愛。

だけど、源泉におまかせするには、源泉というものが在るんだって気付かないといけないわけでしょう?
そのために役に立っていたのが、瞑想だと思うわけ。

自我を明け渡しきってそこに入ると、
それは既に「境地とは違う」ことに気づく。
なぜって、自我は既に明け渡してあるから、
それはもう、本来自分が在るべき座なんだよね。
そこに留まる事ができるんだよ。

それでも、日常は普通に生きられる。
観察する者は、そこに留まりながら、自我を観察しながら日常を生きられる。
つまり、観察する者が源泉の側にあるか、自我の側にあるか、わかっていられる。
生きられても、生きられなくても、どうでもよくなってるから、恐怖もない。

それよりも何よりも、溢れ出る愛の故の至福に、
この条件のいらない愛、駆け引きも無く、見返りも求めない愛の故に、
大いなる至福に満たされる。
その至福の故に、相手を許せるし、あらゆる命を慈しむ。
また、愛に対して、感謝という愛で返せる。
この味わい、このすばらしさ。

わたしが言いたいのはただ「これ」の事だ。

そうなると、もう悟りだろうがどうでもよくなる。
だから、わたしは悟ったなどと、一言も言ってないし、
結局悟りってなに?わかりません・・・ってしか言えない。

でも、片手を神に触れながら、片手で日常を生きられる。

もう、何もいらない。

今生ではそうならない人でも、いつかは、
そうなってしまうんだよ。
結局、だれでも。

過程は、みんな一様ではないけれど、
って言うより、起こることは誰の起こることも既に決まっている。
結局、意識はそこに向かって昇華する。
惨めな運命など、無い。 無いんだよ。

そうなれば、今生が最終の章だ。

 

2012-03-09