わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

年の初めの挨拶 花岡修平 「真我が目覚める時」

◎KTさんから頂いた記事です。

 

年の初めの挨拶

 

新年となりました。

と言っても、いつだって「今」ではありますが、区切りを置いて物語を眺め、間違いなど無い事を検証してみるのもいいかも知れません。

これは、まあひとつの恒例行事ですから歌にも歌われます。

「年の初めの例(ためし)とて、終わりなき世のめでたさを」

世界に終わりなど無く、それはめでたい。
始まりなど無いから、終わりなどあるはずが無い。
当たり前の事だから、当たり前である事がめでたいのです。

みなさまにおかれましては、この「今」から先の「今」が、幸い多い「今」でありますよう、祈願申し上げます。

昨年は、読者さまからの喜ばしいコメントをたくさん頂きました。
返信もおろそかになり、申し訳なく思います。

みなさまのコメントが、また他の方の気づきの手助けにもなって行きます。
ですから、わたしのものぐさを容赦頂き、これからも宜しくお願い致します。

わたしも未だに変化、成長の過程の中です。
未完成であり、未完成である事が、完成への道を歩める事の喜び、楽しさを思い起こさせてもくれます。

まだまだ、学びシロがある。
まだまだ、楽しめる。
そう思えるのです。

神から離れ日常に浸かっていても、いつだってここに帰れる。
ここに帰れる事の喜びを、毎日、何度でも味わえる。

だから日常が怖くない。
日常にあっても自由でいられる。

難儀な事は、たくさんあるけれど、それらから自由でいられて、難儀を楽しめる。

神がわかる事、真実の自己がわかる事は、そのように生き方が楽になるのです。

凝りをほぐすように、それが何でもない、単純な事だったと、きっとみなさんにもわかるはずです。
今年が、そういう年でありますように。

毎日、日常に遊びに出て、毎日、ここに帰ってくる。

ただいま、神さま。
ただいま、自分。

そのように、帰ってくればいい。

帰ってきさえすれば、安らぎがそこにある。
新たな生命力が与えられる。

そうであるなら、恐れうろたえる事など、何もない。

それがわかる年になりますように。
そのように祈願致します。

分け与える力など持たない、このわたしに出来るたったひとつの事が、この祈願です。

今年もどうぞよろしくお願い致します。

 

2014-01-01