わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

それ、純粋に観ること、一瞥体験

いつも「それ」に見られている感覚

幼児の頃から、「それ」を知っていた。

不思議な存在。不思議な感覚。

 

夜、寝付くまで天井を眺めていた。

木目模様の天井。

その隅々に「それ」がいた。

「それ」に見られているあの感覚。

 

透明な空気のように「それ」が息づいていた。

目がないのにじっと私を見ている。

いつまでもいつまでも無言で私を見ている。

 

小学校のだれもいない体育館。

ガランとしたあの大きな空間。

そこにも「それ」はいた。

いつも無言でただジッと私を見ていた。


「それ」は次第に私に近づき、左の肩の上から、

いつも私を覗いているようになった。

 

そして、やがて背中全体を包み込み、

全方位から私を見るようになった。

 

「純粋に観る」体験

それは、過去何度か「祝福」のようにやってきた。


最初の体験は11歳の時。

川辺に人に見捨てられたようなスポットがあり、

雑草と木々が原始林のように生い茂っていた。

 

ある日の午後、下校の途中、なぜか、その場所へと惹きつけられ、

なにも考えずに木々を見つめ、見渡していた。

 

なんの思考も湧かない。

 

ひたすら観る。

 

15分もそうしていたろうか。なにかがおかしい。

ありきたりの日常の風景が「変なもの」に変わり始めたのだ。

 

木々が、私になにか話しかけているように感じる。

言葉は聞こえない。でも、確かに「話している」。

 

ある「沈黙の声」で純粋なメッセージを伝えようとしている。

そう感じ、しばらくの間、私は動くことができなかった。

「秘密のゾーン」に入ってしまったようだった。


家に帰らなくっちゃ。

そう思い、この「純粋に観る」モードをオフにし、あたりを見渡した。

同じ風景が突然、あの「ありきたりの日常の風景」に戻ってしまい、

どうにもやりきれなかった。

 

なんと味気ない世界だろう。

あの「すべての存在が生きている世界」から戻ったばかりの私の落胆は、ひどいものだった。

 

ああ、こんなつまらない世界で生きていかねばならないのか。

こんな世界で生き続け、大人になり、それがず~っと続くのか。

この体験を話したところで、誰も理解してくれないだろうな。。。

そんなことを考えながら家路についた。



10年後、大学生になり、「風土記」を初めて読んだ。

この古代の文書が常に「草木言問いしとき」=「草や木が言葉を発していた時」という表現で始まることに驚いた。

この表現は、「昔むかし」と等価で、「ず~っと前」のことを語る場合の枕詞として使用されているが、古代の日本人は、みな、「あのゾーン体験」を知っていたのだと思った。



その後、何度か同じような体験がやってきた。

 

14歳の秋の夕暮れ時、ものすごい夕焼けを目撃した。

空全体が燃えているようだった。

 

  美しかった。

 私はそれに溶けいってしまいたかった。

 

 しかし、できなかった。

 

なにか薄皮のようなもの、一枚の膜のようなものが、

夕焼けと私を隔てていたのだ。

 それが切なくて切なくて、泣いてしまった。

 

 その膜のようなものが「わたし」それ自身であったと理解できたのは、ずっと後になってからのことだ。

(数年前、ルパート・スパイラのサットサンの動画を見ていたら、参加者のある女性が私と全く同じ体験を話していて驚いた。スパイラのその体験に対するコメントはいかにも彼らしいクリスタル・クリアなものだった。)

 

 

 それから20年後の夏。

公園に植えられた大きな樹木を見上げ、

日に透かされて薄緑に輝く葉々に見とれていた。

すると突然、あたり全体が神に祝福されてでもいるかのように輝き始めた。

すべての木々が輝き「生きていた」。

私はその後しばらくの間、植物観察に熱中した。

 


その2年後。

ヘーゲル精神現象学を友人と二人で読む会を始めた。

別の友人が東伊豆に持っていた別荘を使わせてもらい、

集中的ディスカッションを行った。

終いには、頭の中がカラッポになってしまい、

なんの思考もイメージも湧かなくなってしまった。

その状態はまる一日続いた。

 

翌朝、外に出てあたりを散歩したら、風景が変わってしまっていた。

すべてが輝いていた。

そして、すべてが「近く」感じられた。

遠近の「遠」という感覚がなかった。

遠くにあるはずものも「すぐそこ」に感じられた。

 

「光の流れ」が、ゆっくりとあたり一面を満たしていた。

まるで、仏画によく描かれている「光の帯」のようだった。

 

小川の岸に植わっている木々からも光が流れてきていた。

それを口で吸いこんでみた。

かすかに甘く、私の体全体を深い充足感で満たした。

「アムリタ(甘露)」という言葉が思い浮かんだ。

 

 

 「わたし」の外へ出た深夜の10分間【一瞥体験】

3年ほど前、深夜の3時ころ、私は自室で椅子に座って瞑想していた。

ただ静かにして、目を開けたままだった。

 

私の「内」と「外」の区別はないということは、知識では知っていたが、

感覚的にはある。

 

 そこで、あの「外」と感覚される空間に向かって心の中で言った。

 「あれ」が本当のわたしだ。

この「内」と感覚される「わたし」は本当のわたしではない。

「これ」は、わたしではない。「あれ」がわたしだ。

 自分に言い聞かせるように、何回か繰り返し言った。

 

すると、不思議なことが起こった。

 

目の前に黒い穴が開き始めた。

直径10センチくらい。それが大きくなり、30センチくらいになった。

とくに驚きもせず、じっと見つめた。

すると、その穴からスルっと「外」へ出た。

 

「わたし」の外へ出たことが、直感的にわかった。

外から見る「わたし」は、裸電球のようなオレンジ色で直径40~50センチくらいの球だった。

それから強力な磁力のような力が出ていて、外に出たわたしをその球の中に連れ戻そうとしているのが感じられた。

 

この体験は長く続かない。そう直感した。

 

部屋の中を歩き回った。

全空間が、わたしだった。内と外の区別がない。

まるで大きなガラスの水槽の中にいるような感覚。

 

とても静かだ。

 

透明で見慣れぬ液体のようなものが全空間を占めている。

「空」ではなく、「充満(プロレマ)」。

 

とても「立体的」に感じる。

これにくらべると、日常を生きている「わたし」の空間はひらべったく、まるで2次元のようだ。そして、ちょっとオレンジがかっていて、埃っぽい。

この水のような「それ」は、真に無色透明だ。

 

常世界のあの慣れ親しんだ親密な感覚がまったくない。

「見知らぬなにものか」。the unknown。

 

その時、直感的にわかった。

「これ」が、「真のわたし」であり、あの日常世界の「わたし」は、仮面のようなものにすぎないと。

そして、「これ」が、すべての人々の「真のわたし」であることも「わかった」。

 

眠い。

 

しかし、その眠気は、あのオレンジ色の球体の中にあり、

その外にいるわたしは、眠くない。

透き通るような覚醒感と強烈な眠気が分離し、かつ、併存していて、

どちらも感じているという不思議な状態。

 

「眠るべきだ。からだによくない。」

 

そう思った瞬間、わたしは、あのオレンジ色の球体の中に戻っていた。

時計を見たら、10分経っていただけだった。

 

強烈に眠い。まだ、あの「外」の感覚の余韻が残っている。

 

すぐに布団の中にもぐりこんだ。

目が覚めたら、もとの状態に完全に戻っているだろうと考えながら。