わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】グル(師)は必要か

クリシュナムルティは、グルは必要ないと言いました。
最終的にはそう言えるのかも知れません。

真我に目覚めると、溢れ出るその愛の故に、誰にでもこれを分け与えたいと思います。
なんだかやたらシェアしたくなるんです。
賞賛を得たいとかじゃなく、こんな素晴らしいものは、誰にでも味わってほしい、経験してほしいって思うんです。
一方で悟りを求める人々は、どうにか分け与えて欲しいと思います。

ラマナ・マハルシのもとには、連日大勢の人々が彼の話を聞くために訪れました。
しかし何度訪れても彼らは弟子ではありません。
聖者と言われる人には、自分の弟子がわかるらしいのです。
アシュラム(道場)に来たからといって弟子にはしません。

マハラジも、サイババもそうです。
サンガには迎え入れても、弟子にはしません。

でも、問われる事には答えます。
問われる内容で、その人のステージを見抜いてしまいます。

状態をみて、あと一押しで彼は悟れると見抜けば、アシュラムで寝起きを共にできたのでしょう。
別の言い方をすれば、師として責任もって導ききれる相手でないと弟子にはしないという事でしょう。
聖者はお金儲けには興味ありません。
ラーマクリシュナは花を捧げるなら、道端に座っているオバチャンから安いのを買いなさいとか、
寄付が多すぎると言って返してよこしたりしたそうです。
ですからほとんどの聖者のアシュラムは貧相な建物で狭く、家具もささやかです。

どっかのナンチャラ会館とか、どこそこ支部とか、総本部とか、
立派なビルなど要らないのです。

多くの人は、ただ悟りが欲しい、覚醒したいという願望だけで聖者に会いに行きます。
そのステージに達していないのを見て取って、
ラマナは皮肉ります。

君は人参が欲しいのかね?(ディクシャを与えて欲しいのかね?)

人は、欲しい欲しいだけで、多くのグルを訪問します。
ただ一人のグルを信頼して奉仕し、そこから学ぶという事を面倒だと思います。
手っ取り早く悟りたいのです。

そうであるならば、彼らにとってグルなど必要でしょうか。
師にとっても弟子などいらないと思っている事でしょう。
そういう弟子は、面倒で、礼儀知らずで、かんべんしてよって言いたいわけです。
でも、わかるのであれば、分け与えたいのです。
だれにでも分け与えたいのです。

だれにでも分け与えたい。
それだけです。
でも、師となれる人が希であるように、弟子になれる人もまた、希です。

ディクシャ(霊的エネルギーの伝授)を受け入れられる人は、すでにある程度の準備が出来た人です。
ある聖者は、頭頂に手を置いて与えたそうです。
また、ある聖者は、舌に指で文字を書いたそうです。

しかし、どのようにディクシャの効用があるにせよ、最終的には恩寵によるしかないのです。
グルは直接的に、そこに連れて行ってはくれません。
最後は自分で川を渡り、彼岸にたどり着くしかないのです。

そうであるならば、恩寵を与えてくれる内なる神、源泉を全く信頼しきって、
自分の全てを差し出すしかないのです。
川を渡るとは、そういう事です。

それでも、だれかがその事を言わなければなりません。
だれかが、悟りに至る道、タオを伝えなければなりません。
(タオは道教の言い方ですが、雰囲気がわかればと思い引用しました)
そういう意味では、グルは必要でしょう。

しかし、真実のグル、サットグルは自らの内側に在るのだと、知らなければなりません。

わたしにもグルはいません。
しかし、グルの代わりに、そのアプローチとなる仏陀の言葉が記された本に出会いました。
一連の邦訳は、中村元博士がされております。
仏陀の言葉を残してくれた彼の弟子、アーナンダに感謝します。
アーナンダとは「至福」という意味です。
アーナンダがかつて、仏陀と共に遍歴してくれた事がそのまま、わたしのアーナンダです。

悟りに執着するのではなく、幼子のように純粋に源泉に憧れることによって恩寵は与えらるでしょう。
忙しい、雑多な日常において、なかなか出来ない事でしょうが、
一人でいられる時間があるなら、なるべく、内なる源泉に想いを馳せる事をしなければいけません。

常に神を想っていれば、自分の中が神で満たされていきます。
欲を手放していく毎に、その憧れは一層強くなっていくでしょう。

準備とは、そういう事です。

瞑想とは、なにも形式ばってやる事ではありません。
日々のちょっとした時間に、内なる源泉にアクセスしていければいいのです。
わたしは日が昇る少し前に起きて、ダイニング椅子に座ってやっています。
それぞれのやり方でいいのです。
形式も、作法も、捉われです。
入りやすい方法でいのです。



2012-03-31

 

shikoutoshi.hatenablog.jp