わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】先に行った友達へ

人を苦しめるものは、現象ではありません。
現象に抵抗しようとする想いです。

人には必ず身体的死が訪れます。
だれもそれから逃れられません。
若い人はどうしても、死を考えるなど、現実的ではありませんが、
若い人でも死ぬのです。

たとえば癌になったとします。
おおきなショックでしょう。
耐えがたい恐怖に襲われ、どうしていいかわからなくなります。

病巣が身体を蝕み、身体的な痛みと共に精神的な苦悩も抱えます。
死がせまってくる恐怖の中で時が過ぎていきます。

そういう時、どうすればいいでしょうか?

起こる事は、起こるはずのものであり、いつかは死を受け入れなければならない事を忘れてはいけません。
それが、いつなのか、一年後なのか、一か月後なのか、考えていたら恐怖を増幅するだけです。

それよりも、今、生きていることを幸せに感じてください。
その事の故に、あらゆる存在に感謝してください。

訪れる死を追い払おうとしても、無理な事はご存じなはずです。
それであるならば、病気と闘い恐怖と闘うよりも、受け入れる事です。
そうならなければならない事柄は、そうなってしまうのですから。
もちろん治療は続けなければなりません。

どのような死の迎え方であっても、人は誰でも寿命で死ぬのです。
病気だろうが、事故だろうが、災害であろうが、戦争だろうが、あるいは悪党に殺されようが、
確実にそれは、その人の寿命なのです。
もっと生きられたはずなのに・・・と人は思うでしょうが、そうではありません。
それはありもしない物差しで測っているのです。憶測にすぎません。

苦しんで戦うより、その死に対する抵抗を明け渡してください。
そうして、病気そのものを受け入れて、共存する事です。
それが、あなたにとってどれだけ有意義な事か計り知れません。

完全に明け渡し、受け入れた瞬間に、あなたはそれら苦痛から解放されます。
もちろん身体的痛みはあって痛いのですが、
それよりも、明け渡し、受け入れる事による精神的解放が免疫力を高めて行くかも知れません。
治療の効果がずっと顕著になって行くかも知れません。
人によっては病巣そのものが消えてしまうような事も起こるかも知れません。

それよりも、明け渡し、起こっている事を受け入れ、起こしているものの意志に任せきることで、
この後何年生きようが、あるいは、明日死を迎えようがそれでいいと、完全に思える事で得られる安らぎが、
穏やかな死を迎えられるのです。

最後は誰でも穏やかに旅立ちたいはずです。
自我を明け渡し、神(源泉の意志)を受け入れる事で、その愛に包まれて旅立てるのです。
そうやって受け入れて旅立つなら、必ず、すばらしい奇跡の世界を見るでしょう。

かつてわたしの友達は、まだ若くして癌になりました。
その事をわたしは残念な事に知らずにいて、ある日仕事の帰りの空一面に金色の鱗雲が広がり、
その隙間から金色の光が家々に、樹木に、山並に、風景全部に照らし出され、まるで浄土のような世界を見ました。
金色のおびただしい雲と、天上から降りてくる沢山の光の帯と、金一色の世界。
あまりの美しさに一時間ほどそれを楽しみ、そして日が落ちました。

家に帰ってから、その友達が今日亡くなったという事を知らされました。
最後に言ってたそうです。

「病気になって、もうみんなと別れなければならないけれど、なにも恨んではいない。
誰も恨んではいない。病気も恨んでいない。みんな良くしてくれたから、とても幸せな人生だった。
ほんとうにみんなに感謝している。大丈夫、安心して行けるから。」

あの黄金の世界は、最後に会えなかったわたしへのお別れに見せてくれたのだと思います。

苦しみの中で死ぬよりも、穏やかに、安らぎのうちに旅立てる事がどんなに幸せな事か。

それだから、病気でなくても、今苦しんでいるなら、自分の一切を明け渡してください。
サレンダー、それだけが気づきに必要な事です。

それから得られる幸せは、計り知れません。
明け渡し、みこころを受け入れる事です。

二十歳で行った友達に・・・神の祝福がありますように。
忘れてはいません。毎日会っています。これからも。



2012-04-11

 

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