わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】質問の答え(Kさん)苦しみの終焉

Kさんから頂いた質問にお答えします。
たぶん、多くの皆さんが同様の疑問をお持ちだと思います。
しかし、言葉の適用できない世界の事は、どうしたって伝えきれるものではありません。
そのあたりを、ご周知願います。

> どうすれば明け渡すことができるのでしょう? 
私にはこれといった信仰心もありませんし神とか源泉といったものに明け渡す、みこころをうけいれる、
といったことがよくわかりません。 
はっきり言えばどうすればいいのかわからず途方に暮れるばかりでできないのです。 
私もできることなら明け渡したい、みこころにゆだねて楽になりたい、 
と思うのですが、どうすればいいのだろうと頭で考えるばかりでどうすればいいのかわからず、 それがまた苦しいです。 

「みこころ」とは、起こる事が起こっていく、その起こさせている大意です。信仰はあろうがなかろうが関係ありません。
みこころによって起こるそれをありのまま、受け入れるだけです。それが、「みこころを受け入れる」という事です。
難しい話をしているわけではありません。

神とか源泉とか、わからないというのは当然です。
それを見ていないのですから、知るわけがありません。
そうであっても、「わたし」というこのわたしは、自我に作り出されたニセ物であって、「ほんとうのわたし」が「ほんとうの世界」に存在しているという事を疑ってはいけないのです。(信じるとは別です)

このブログでは、「ほんとうのわたし」以外に存在してはいないのだという事実を言っているだけです。
それだから、神と捉えても、源泉と捉えても、真実の我(真我)と捉えても間違っていないと言うのです。
その「ほんとうのわたし」に自我というニセ物に由来する全てを、「わたし」も「苦るしみ」も明け渡すだけです。

苦るしみを作り出しているのは、自我というニセ物の思考、それが犯人だという事に気づく事が必要です。

このシンプルな事実を、どうしてもわからないと言う人はいます。
わからせないように働く不思議な作用が世界にはあるのです。それをマーハー・マーヤ(偉大なる幻想)と言います。
ところが、マーヤが作用しない人は「それ、あたりまえです」って言いきれるのです。

> まだ何もわかっていない私にとっては、逆に何を修行したりこうしてあがいたりしてみても無駄なのかな? 
私はまだ体験すべきこと、学ぶべきこと、苦しむべきこと(?)が足りていなくて悟れないだけなのかな?
まだまだいつまでも苦しまなくてはならないのだろうか? 
といった不安や絶望にもつながってしまうのですが、 
そういった修行や苦しみ、あがくといったことさえも含めてすべて必要で、 
いつになるかもわからない「そのとき」が訪れるまで苦しみ続けなくてはならないのでしょうか? 

悟りに入る人には二種類あると思います。

ひとつは、師を持ち、師の指導を疑わず、そのとおりの行を何年も何十年も続け、悟ってしまう。
たったひとつの言葉だけ、それを務め励んでそうなってしまう。
それは清く、潔く、汚れのない純粋な天真なハートを持ち合わせている人ならそうなります。
ニサルガダッタが師に教えられた「I am that」それだけで彼は悟りました。
師はそれを言い伝えてすぐ、死んでしまったにも関わらずです。
ラーマクリシュナもそうなのでしょう。師をこよなく愛していました。
それらは愛から発する悟りなのです。
ですが、師は間接的に関わっただけで、直接的には自分で気づくのです。

もうひとつは、師を持とうが持つまいが、苦しみの中から真実を得る悟りです。
例えば、禅の公案をただひたすら考え、考えても考えても答えの無い答えを導き出す。
何年も何十年もその無意味に見える答えを探す苦しみ。
ある日、もうだめだ・・・と、しがみ付いているそれを放擲する瞬間、あ!という答えが現れます。
あるいは、人生の苦渋を舐めつくし、苦しみを極める一般人がいます。
そういう人は、
もうこんな苦しみは嫌だ。苦しみは要らない。苦しみなんかどうでもいい。もうたくさんだ!
もう苦しみと戦わない。苦しみとは生きるための戦いなら、生きなくてもいい。
死さえ受け入れる。恐怖ももうどうだっていい。悟りももう諦めた。完全に参りました。
そこまで、苦しみに苛め抜かれたらギブアップするしかないでしょう?
もういい。神の言うこと(みこころ)ききます。好きなようにしてください。って心底思えたら、
そして二度と苦しみを拾い上げないなら、それは完全な明け渡しであり、受け入れです。
そのほうが楽なのですよ。
苦しまないで明け渡すほうが、もっともっと成し難いのです。

苦しみは自分で作っていたのだと、そのときわかります。
ほんとうは苦しむ事で、苦しみを終焉させるのだとわかります。
そうなれば、ああ、もう苦しまないでいいんだっていう、解放感が得られます。
その解放感が喜びが、胸の「それ」と共鳴します。
そこで、やっと聖者が愛によって悟るそれと同じ愛を得るのです。

もしもあなたの人生が過酷で苦しいものなら、そちらのタイプだと思いますよ。
物事には、無駄なものなど、何一切ございません。
あらゆる事に意味はあるのです。

> また、「胸の内側に、なにか五感では捉えられない感覚的な存在を見つけてください」 
ということについてなのですが、それは身体的、物理的な胸とはまた違うものなのでしょうか? 
たとえば悲しいときに胸の真ん中あたり(胸腺?)が痛くなったりしますが、 
そういった私にとっても明確に感じられるものとはまた別のものなのでしょうか? 

身体的な胸に(中央ですが、マハリシは右と言ってますね)身体的ではない次元ターミナルが、感覚されます。それが腺と位置が近いために腺とも共鳴してしまいます。

このようないわゆるチャクラは全身に七個あると言われますが、両手掌もプラーナ(気)を集合させるため、
それを含めて全部で九個とする人もいます。
最も重要な部分が、胸の部分に現れる「それ」です。
それが自分というものが、源泉というものが「愛」なのだと絶対的に気づかせてくれるのです。
「愛」がそこから止めどもなく溢れ出るからです。
その喜びを体感したときに、もう悟りなどどうでもいいってなってしまいます。
ただただ嬉しくて、喜びに満たされます。
明け渡し、まかせ、信頼して受け入れる事で得られます。
それはむしろ、悟りより大事なものかも知れません。

わたしは岸(自我)から見た対岸(真我)を言っています。
渡り方も既に言いました。(明け渡し、信頼してまかせきり、絶対的に受け入れること)
渡るのはあなたです。だれも渡してくれません。
ところが、その渡り方で渡ると、向こう岸の方が近づいてきます。
源泉に任せきることで、源泉が与えてくれるのです。
そのミラクルを楽しんでください。

いつかそのようになるのでしょうか・・・なんてどうだっていいじゃないですか。
なるんです!


具体的な方法でしたね。

それは、あなたが選択するだけです。
ほんとうに、それだけなんです。
 
 
2012-04-12