わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】すっぴんが一番きれいです

認知症の母の介護のあい間に、畑の作業をして、そのあい間にブログ書いて、
で、初めて見る人を瞬間見ただけでその人がどんな人か、わかってしまうって記事を下書きしたら、
なんと、某ブログで、あの方がおなじ記事を載せていて、・・・
かぶってるじゃん・・・って掲載やめました。

で、コメントに質問がございましたので、お答えします。

「内側を見る」とは、 
「能動的に知覚できるものではなく、感覚知によるまったくの受動的知覚」 
ということは、「その時」が来なければ、結局は「内側を見る」ことはできないということでしょうか? 

それから、誰しも必ずその時が来る、ということなのですが、 
どうしてそれが分かるのでしょうか? 
(「分かるから分かる」としか言えないものなのでしょうか?)


五感で捉えられる世界、つまり宇宙世界と、意識に現れるマインドが外側です。
眼・耳・鼻・舌・身・意、が外側です。

マインドが、あれやこれや、勝手に自動的に思考の連続を発生させます。
それは、とりとめのない事だったり、拘っている事だったり、あるいは知ってる歌の残響だったり、明日のデートの事だったり、上司のパワーハラスメントに反応する怒りだったりと、様々です。
休む暇などありません。

そのいちいちに、マインド、自我が反応して、反応がさらに次のノイズを連鎖させていきます。
自我が自我に反応して自我を強固にしていく、無限ループの罠です。

そのような外側は、実は内側に包まれていて、内側の広大な静寂の中に外側の自我の牢獄が築かれています。

外側の一切をカットオフさせるのです。
一切の思考を止め、マインドを黙らせるのです。
思考が止まっても、外側は見えているでしょう。
しかし、外側を気にも留めなければ、内側には何もない静寂、広大な空(くう)を知覚できるはずです。
マインドが黙っていれば感覚できます。

わたしが「内側を見る」と言っているのは、見れば見えるのだと言う事ではなく、
「内側の方向に向きなさい」と言っているのです。
この表現が誤解を生んでいるようです。

見るというから、視覚的に見るのだと思わせてしまっていたかも知れません。
意識の注意力を、内側に向けて、外側の自我を、放っておきなさいという事です。

この時点で、意識の注意力は外側に向かったままかもしれません。
そこで、意識の注意力を、その静寂に落とすのです。
そして、そこを観察してください。

意識的に行うのはここまでです。
あとは感覚が受動的に知覚してくれます。
そこに留まる(座を置く)とき、それが自分である感覚に気付くはずです。
意識的に気付こうとしないでください。
リラックスして、ただ観察してください。

これは「その時」とは関係なく、出来ることです。

日常にありながら、日常を活動しながら、同時に内側に留まるなら、
見える世界に自分がいない感覚になる事があります。
内側の静寂に、自分を感覚するとき、これが真我か?といえば、そうじゃなく、それは個我です。
ワンネスを、そこでは知覚できないからです。
溢れる愛を味わうレベルではないからです。

真我はその更に更に奥です。
ハートが開いて、愛が溢れてくる、その神聖な窓の向こうに、実在、真我があります。
そのハートが開くのは恩寵によるしかないという事で、毎回言ってる事です。

いつ開くかは、つまりその時はいつか?というのは、向こうからの恩寵によるしかない。
そこを塞いでいる、堆積した汚れ(欲、断定、虚栄、誤価値感、恐れ・・・)が落ちない事には、恩寵は来ない、つまり、一切を明け渡さなければ来ない。
これも、毎回言ってる事です。

これは、あなたの課題のセット、あなたの物語、第一章から最終章まで経験しないとできないので、あなた次第っていう事になります。

その時がくれば、そうしてしまうしかない・・・来月かもしれないです。来世かも知れないです。
っていうか、それがいつであるのか、わかる事にどれほどの意味があるのでしょうか?
時間など錯覚の思い込みにすぎないのに。

いつだろう・・・ああ、長いなあ、はやく来ないかなあ・・・そうしたらこの苦しみから解放されるのに。

それが無限ループの罠です。

経験しなければならない事は、どうしても経験するのです。
経験しつくし、学びつくさないといけないのですよ・・・って言うのは、
そのために生まれてきてるからです。

それだから、誰でもいずれは、その時を迎えるのですよ・・・って言うことなわけです。

その時を迎えるために生まれてきているのに、迎えないはずなど、無いのです。

その時がくるはずの無い者が、この幻の世界にわざわざ生まれてくる必然など無いのです。

はやく悟りたい、わかりたい・・・気持ちは理解できますが、汚れとはその事です。
悟りたい悟りたいは、悟れない悟れないと認めている事なのです。

悟るために明け渡すなら、悟れないし、明け渡せません。

ただ、明け渡すのです。
悟りという見返りを求めないでください。悟りはあきらめてください。

綺麗だねって、褒められたくて咲く花など、あるでしょうか。
ただあるがまま咲くから、神は着飾ってくれるのです。

ただ明け渡し、あるがままになる。スッピンになる。
ファンデーションとかチークとか、シャドウもマスカラもいりません。
どうであろうが、誰だって、スッピンが一番綺麗なんです。
スッピンになって、ブスだねって言われようが、可愛いねって言われようが、おかまいなし。
飾っているもの全て取り払って、投げ出して、神のなすがまま、みこころを受け入れます!ってなるなら、その時です。

わかります?
その無限ループ・・・捨てようとは思ってるけど、捨てれない?
その日は、突然やってきます。

 

 

2012-04-19

 

 

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