わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】わたしはどこに

身体が自分だと誰もが思っています。
ですが、身体は物質で出来ているという事も、だれも知っている事です。
物質が意志をもって、動いている、
物質は意志をもたず、動かないという定義をだれもが持っていながら、
その不思議、矛盾にだれも疑問を持ちません。

わたしとはなんですか?と聞く人が現れました。
それで、いっしょに見つけてみようと思い、尋ねました。

あなたはどこにいますか?

・ここにいます。

こことはどこですか?

・この体です。

体のどこがあなたですか?

・体の全部がわたしです。

人は例えば脚の片方を切断しても、生きています。分離した脚はあなたですか?

・いや、かつてわたしの一部でした。

今は?

・分離した脚は、今のわたしではありません。

体全部がわたしだと言ったあなたは、脚を分断したとたん、脚についての自分を見捨てるのですか?

・分断して分離したそれらには、意識がありませんから、わたしではありません。

意識をもつ身体があなたですか?

・そうです。意識をもっていてのわたしです。

身体が意識をもつとして、ではどの部位があなたですか?

・脳だと思います。

ではあなたは、脳ですか?

・脳がわたしで、それ以外はわたしのものです。

では、あなたそのものは、身体の全部ではないのですね?

・わたしは脳で、それ以外は付属品だと思います。

脳のどの部分があなたですか?前頭葉ですか?

・脳の全部がわたしです。

脳の半分を病気で欠損してなお、生きている人がいます。
その人は、右半分を失いました。しかもお年寄りです。
ところが、残った左側が、右側の機能を代行し始めたのです。
そのようにして、動かなかった左手が動き始めたのです。
あなたが、脳の右半分を失ったとして、失った脳は、あなたですか?

・・・もはや考えられません。

彼は、怒って出て行きました。

かつて、料理に使うために、首から頭部を切断されたニワトリを見ました。
5歳ぐらいの事です。
ニワトリは、首から上の頭部を完全に失いながら、残っていた声帯から鳴き、
羽をバタバタ動かして、かなり長い間そのへんを走り回りました。
足からぶら下げて、内部の血液を完全に抜かないと、肉が生臭いのだそうです。
そのニワトリにとってのわたしは、どこにあったのでしょう。

数か月後、彼は再び現れました。

あなたはいつから、あなたですか?

・生まれた時からです。

あなたは10歳の時、今よりかなり身体が小さかったはずです。
その時のあなたと、今のあなたは同一ですか?

・もちろん同一です。

あなたが乳飲み子だったとき、更に小さかったはずです。
その時のあなたと、今のあなたは同一ですか?

・同一です。

あなたが母体の、子宮の中で、臍の緒によって栄養を摂っていた時、
その時も、同一でしたか?

・・・・。

あなたが母体の、子宮の中で、卵細胞であったとき、
その時はどうでしたか?
その時、意識をもっていてのわたしという、その意識はありましたか?

彼はまた、怒って出て行きました。

身体など、代謝によって全部が入れ替わります。
他の動物の、他の植物の、他の鉱物の、それらと入れ替わってしまいます。

わたしはどこ?
わたしなどおりません。
自我が世界を、ただ見ているなら、わたしはおりません。
それは、ただ世界です。
世界に、分離を見たとき、わたしが現れます。

「わたし」という思いがある時、それは、記憶に生きているのです。
思考が記憶の「わたし」を引っ張り出し、世界に置きます。
見える世界と記憶との間で絶え間ない描画が繰り返されます。
そうやって、「わたし」は反復され、継承されます。
それだから、「わたし」と思う事ができるのです。
それだから、「わたしの癖」を止められないのです。
自我はどうあっても記憶に引き戻り「わたし」を見つけてしまいます。

「今」に在るなら、「わたし」は消え去ります。

夢を創り出すのと同じです。
現象世界も夢なのです。

成長の過程で、どうしても、「わたし」は現れます。
それが、体験し、知り、記憶します。
そして、「わたし」は絶対こうやって、ここにあるのだと言い張ります。
自我の牢獄の中で、「わたし、わたし」と主張し、それでも、だれも「わたし」を知りません。
「わたし」を知らないのに主張するのです。

わたしはどこ?

「わたし」などありません。
思考が消え、「わたし」が消えたとき、それでも存在するものがあります。
それはただ在って、ただ見える物を見ています。
聞こえるものを聴いています。
香る花を嗅いでいます。

「ただ在るわたし」は、眼もなく、耳もなく、顔もなく、ただ頭が宇宙です。
「わたし」を記憶から創り出すことなく、
このたった今に、見える物を見て、聞こえるものを聴いて、花を嗅ぎます。

幼子に帰るのです。
幼子の在り方とはそういうものです。
ただ幼子は、「わたし」を知りません。
自我を体験して偽物の「わたし」を知り、幼子に帰るなら、「真実のわたし」は「ここ」にいます。
それは、身体の脳のここではありません。
ハートの奥に在る「ここ」です。

 

2012-04-28

 

 

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