わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】真我に帰るという事

ほんとうは過去も未来も存在しません。
「瞬間の今」があるだけです。
今が次々と現れては消えていきます。
それを我々は順次、記憶に仕舞い込みます。

何かを見たとします。
その何かを定義づけるために、記憶をまさぐり、程よいものを引っ張り出してきます。
桜を見れば、記憶に入り、形態の一致する「桜」という定義を拾ってくるのです。
その定義を、今見ているそれにまた定義づけます。

あの人を見たとき、記憶に入り、名前、年齢、住所、人間性、好き嫌い、善い悪い、酒癖や、
経歴や、数日前にこんな事をしているのを見たそれとか、いろんな情報を拾い集め、
あの人に、適用します。
それで、前と同じあの人として定義するのです。

それがあなたが創る世界という意味です。

嫌いな人を意味づけて、嫌いな人をまた受け取るのです。
どうしてその定義を疑わないのでしょうか?

人は記憶に生きているのです。過去に生きているのです。

過去に生きてしかも、過去のあれこれを予測データとして未来に適用します。
記憶の中に、嫌悪や、恐れや、苦痛を見出しては未来に備えようとします。
そのように人は、過去か未来か、どちらかしか見ようとしません。

今起こっているこの「今」を見ていながら、見ていません。
今起こっている事どもに、意味づけをしたいがため、記憶に入り、過去に戻ります。
恐れの記憶によって、未来を予想したいがために、過去に戻ります。

そのようにして絶え間ない記憶への没頭が、ついに、常に記憶に生きる事になります。
記憶に生きているから、今がとても速く過ぎ去ります。
見ていながら見ていなかったからです。
記憶データの蓄積が多ければ多いほど時間が早く過ぎ去ります。

子供は、さほど記憶データはありません。
拾ってくる記憶が無いから「今」に生きています。
今やっている何かに定義づける記憶が無いから、今にいるしかありません。
それだから時間の経過はとても遅いのです。

とても空腹なので、カップ麺を食べるとします。
蓋を少しあけ、お湯を注ぎ、蓋を閉じて、3分そのまま・・・
はやく食べたいから、今か今かと麺がお湯を吸い込むのを待っています。
3分は、意外と長い・・・と思ったりします。
ところが記憶に没頭していれば、麺はどうしようもないほど膨らんでしまいます。

もっと時間の経過が遅く、スローモーションのように感じる時もあります。

わたしの体験です。
車がすれ違うのがやっとの雪の山道。左側は6mの谷底っていう道路で、スリップして止まれなくて突っ込みそうになりました。
谷底に落ちたら、大惨事です。凍った道路は、軽いブレーキでもタイヤがロックされエンジンが止まります。
その時、見てる世界の時間はスローモーションになります。
周りの色も薄くなって、まるでマトリックスの映画で、銃弾をかわすシーンのように、スローモーションになるのです。
その一瞬の時間の、ゆっくりした時間の中で、別の自分が手を貸すように、
冷静にクラッチを踏み、イグニッションを回し、アクセルを踏み込んで、エンジンの回転をタイヤに伝える自分がいます。
そうやって、ロックしたタイヤを回復させ危機を逃れたのです。

危機状況の中では、記憶に戻っている余裕はありません。
今、この瞬間の状況を把握しなければならないので、一切の想念は希薄になり、世界の色さえ薄くなります。
世界の色なんか創り出している余裕などなくなります。
色はもうどうだっていいやって、適当にやってしまいます。
ある人は、見える世界がモノクロになったと言います。
このような経験は、多くの方がしているかと思います。

限りなく今に近い状況を別の例で言えば、例えば極限の怒りの中にあるとします。
マインドの中は、怒りでオーバーフロー状態です。
記憶に入り何かを探す余裕も無い程怒りに燃えています。
その時、怒る自分を冷静に観察する別の自分に気づきます。
そう、やや左側の、やや上方に、それを見てしまいます。
その時、見られる怒る自分と、見る冷静な自分と、どちらも認識します。

ところが平常時では、常に記憶をまさぐり、過去に生きています。

本当は、あの人は、今瞬間、新しく現れたあの人です。
記憶から定義する何も拾ってこなければ、実は好ましい人かも知れないのに。
パワーハラスメントの上司は、本当は、叱咤激励している人かも知れないのに。
記憶が嫌悪を拾ってきて、意味づけしてしまいます。

あらゆる事が誤解です。

マインドに潜む、根が(カルマ)、嫌いを探し、好きを探し、意味づけを引っ張り出してきます。
記憶に生きてるからです。 過去に生きているからです。

そうやって人は人を好きになり結婚し、新婚旅行の途中で、そうやって人は人を嫌いになり、
次の日から他人同士に戻ります。
あらゆる事が勝手な意味づけです。
そのように自分の物語は展開されていきます。

記憶に入らず、定義しようとせず、今にただ在って、あるがまま見て、あるがまま聞いて、
その「今」に真実の自分を観てください。。

ただ、「今」に在って、記憶に戻るのを止めるだけです。
言葉は記憶にあります。だから言葉も浮かんできません。
思考は記憶へのアクセスです。だから思考さえ止まります。
その状態なら、ただ真我の中に在るのです。
瞑想とは、それを練習する、メソッドです。

そう、ただ記憶に戻るのを止めるだけでいいのです。
必要な時、思い出せばいいのです。

真我に気づけたら、世界は自我意識が自我意識に展開している事を知るでしょう。
真我はわかっています。分身である自我は必ずこの真我に帰ってくるとわかっています。
だから自我に辛い物語を体験させているのです。
しかし、いつだって励まし、愛しているのです。
きっと帰ってくると疑うことなく。
あれやこれや思い為すのは、自我だけです。
真我は何も思わず、ただ在るだけです。
ただ愛によって自我を見つめ、自我を許しきっています。
それにシフトする事が真我に帰るという事です。

 

2012-05-02

 

 

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