わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】占いですか・・・に質問

昨日掲載した記事は、あの話題になった同居占い師についての記事でした。
良識ある占い師についての記事ではございませんので、くれぐれも誤解なさらないよう、お願いします。

さて、自分の未来がわかるなら、どんなに人生が楽だろうと思いますよね。
もしもわかったら、すごい!おもしろい!って思う事でしょう。
最初のうちだけは・・・ですけど。

そのうち絶対、なんてつまらない、味気ない人生なんだろうって気付きます。
わかっているのに、そのとおりに生きて行かなければならない人生。
なんの意味があるのでしょうか。
何度も読んだ漫画を、また読み返すようなものです。
試験をカンニングして答案を出したようなものです。
先がわかっていて、しかも、わかっているとおり生きなければならないのですから、これほど苦痛な事はありません。
結局、人生は先がわからないから面白いし、体験の喜び、知る喜びもあるという事がわかるはずです。

質問がございましたので、お答え致します。


>人の未来は、すでにデザインされています。 
>ということは、 
>占いも、淫行も、かつての暮らしに思い出を馳せることも、 
>すべて、そのデザインの中に含まれているということではないのでしょうか? 


デザインは複雑です。
道の、途中途中に迂回路が山ほど用意されています。
メインプログラムから、サブルーチンに入って、そこである種の仕事をしてその結果をメインプログラムに反映させる事で、次のサブルーチンが現れるという、パソコンのソースコードのようなものです。

それは、結果的にメインプログラムの最終結果を導くための予定された選択を含んだ一連の動作です。
つまり、サブルーチンで選択することで、山ほどデザインされている次のサブルーチンも選択肢が用意される。
しかしながら、メインプログラムの大意は、どっしりとそこにあるのです。

その選択が、自由選択と言われるものです。
どれを選択してもいいし、あるいは、選択しなくてもいい。
想念する事もできれば、それを絶つこともできるという使われ方です。

自由選択も、どれを選ぶかデザインされているのか?といえば、デザインされています。
しかし、選択するまでは、現れないデザインです。
結果を見てから、結果的にデザインだったのだと言えるデザインです。

その選択を、メインプログラムに反映させることで、すでにデザインされている先の事が変わるように見える。
それなら不確実性を伴っているではないか?と言いたくなるのですが、実は、それさえも結果を見ればデザインされていたのだとわかるのです。
どうしても、メインプログラムの最終結果に至るようにできているという事です。
だから、結局は曲がった道でも、終わって気づいてみれば、真っ直ぐだったと言えるのですよって言うわけです。

時間の観念をあてはめてみれば、選択によっては、悟りは早く来るか、人より桁外れに多い輪廻が必要だったか・・・と言えば言えますが、
時間は観念にすぎないのですから、だれにでも、「今」起こっている事なのだと言えるわけです。
そういう訳で、悟りが早く来る、遅く来る、これは意味のない議論なわけで、ただそういうデザインによっている今の現れとしか言えないのです。

だから、すべてそのデザインの中かと言えば、そうなのです。
人生をいろんな楽しみ方ができるように仕組まれていながら、最終的には、みなさん悟れるようにも仕組まれているという事です。

ですから、占いに埋没しても、淫行を常とする人も、思い出に馳せてばかりいる人も、それはそれで、間違っているとか、正しいとか、断定はできないのだけれども、修行について言えば妨げになっているわけで、妨げになるそれら行為を選択する、というデザインが描かれていて、その通りに顕現しているわけです。

しかし、いつまでもそのままかと言えば、そういう事はありません。そこでも選択のデザインがあるわけです。
いつかは選択のスイッチを入れるようになるのだけれど、それがいつであろうかと考えるのは無意味です。
なぜなら、時間は観念であって、いつであろうが今しかないのです。
スイッチを入れたその時は、どうであろうが今なのです。

こんがらがってしまいますね。マトリックスの世界。


>また、「そのようなデザインがある」ということが、どうして分かるのでしょうか。 

ごめんなさいね。これは、わかってしまえばわかるのだとしか、言いようがないのです。
これを言葉で論理的に言い当てられる覚者もいないと思いますし、言い当てる意味を見出す覚者もいないと思われます。

そのようなデザインがあるから、物事は運ばれていくということが、頭ではないところでわかるんです。
これは、思考でわかるのではなく、まったく気づきの領域です。
ですから、どうしても言葉にはできないのです。
デザインがあって、決まっているから起こって行くという事が、わかってしまうんです。
従来の馴染みのあるわかり方ではないのです。
このわかり方を、何度言葉で言い表そうとした事か・・・
書いては消し、書いては消し、ちがうなぁ・・・これもちがう・・・と。

>それから、「そのようなデザインがある」ということが分かっても、未来のことは分からない、というのも何か不思議な感じがするのですが。 
>(これは、やはり、「分かるから分かる。分からないから分からない」としか言えないものなのでしょうか。)


そのようなメインプログラムや、サブルーチンがわかったとして、選択する者が選択しないうちは、つまり、
自由選択がデザインを選択しない限りは、入り子になった途中途中のデザインはわからないのです。
しかしながら、そのデザインも用意はされているのです。
結果がでて、はじめてデザインされていたのだとわかるデザインなのです。
わかるというのは、組み立てがわかるという事です。仕組みがわかるという事です。
それは大意ですから、だれにとってもそのような組み立てなのです。
言ったら、設計図です。

実際、そこにどのような材質の壁、どんな色の屋根、柱、設置する建具、インテリア、照明器具、それはそれに住む人にさえ、選択するまでわかりません。
他の人には、なおさらわからないのです。
あなたが創り出す部分です。
「神は人を自らの姿に似せて創られた」の、その意味です。
自我の活動は、真我の活動に似ているのです。
真我は愛によって創造の力に働きかけます。
自我は思うこと、思考によって、意味づけをしていくのです。
もしも自我が愛に目覚め、愛によって創り始めるなら、なんと世界は異なって見えてくることでしょう。

総論をいえば、わかってしまわないと、わからないという事です。
だからと言って、わからなくても信じたらだめですよ。
わかるまで、信じてはいけません。
信じたら、探究の道は閉ざされてしまいます。
完全な納得がなければ、もったいない事になります。
もちろんそれは、それさえも自由選択の部分ですけど。

ついでに言えば、言葉を追い求めるよりもまず、
言葉としてではなく、その意味が即座にわかってしまう自分を確立する事が先です。
だから、言葉をさがして過去にさ迷うのではなく、
今にいて、感覚する力を養わなければいけないのです。
そうするならば、言葉には何の実体もなく、ただ意味だけが在ると知るでしょう。(ここ難しいかな・・)
意味がまず存在し、それに言葉のラベルを貼っているだけなのです。
言葉から意味を探すのであれば、記憶に入らなければいけません。

意味をわかるなら、今わかるのです。

 

2012-05-12

 

 

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