【時系列 花岡修平】虐め(いじめ)について
ほんとうは誰も、お互いを認め合い、助け合って仲良く生きていくのが普通の生き方だと判っているし、そうしたいとも思っているに違いないでしょう。
それでも、人は人を、あるいは他の生き物を身体的、精神的に追い込み、苦痛を与えたくなるのです。
誰でもそのような、意地悪な残念な素因を奥底に隠し持っているのでしょう。
それに気づく事も無く、自分に都合の悪い対象、価値観に反する対象を感情のまま排他したがるのです。
そのような素因は誰でも持っていて、理由の対象に、時には、理由の無い対象にさえ「八つ当たり」という形で攻撃したりします。
そのような事は、自我にどっぷり浸って日常を生きている多くの人には特別の事ではなく、普通によくありがちです。
問題は、時折現れるそのような「虫の居所」ではなく、常にそのような攻撃対象を捉えていなければ満足できないという人がいる事です。
言ったら、虐め依存症のような病的な心を抱えている人がいるという事。
虐めに悩む人は、このような、理由を特定できない虐め依存症の攻撃対象になり、被害を被っているのでしょう。
虐める人、これは個人で、あるいは集団で狩りによって獲物を得る狩猟のような衝動形態に似ているかも知れません。
狩猟は、獲物を得るという目的の他に、たぶん狩りそのものに大いに興奮し、エキサイティングな喜びを見出しているのかも知れません。
しかし虐める人も、虐められる側に立てば、やはり苦悩し、心の傷の痛みに耐えられないにちがいないのです。
未だに「虐める」という無慈悲な事を、完全に学んでいないのです。
未だに「虐められる」という心の痛みを、完全に学んでいないのです。
誰もが輪廻の途上で、それぞれが自分に不足しているものを課題としてこの「今」を共有してそれを体験しています。
日常を生きるその事が、全て体験による学びに繋がって行きます。
そうだとしても、虐められる側の心の痛みは、とてもとても深刻です。
それは、なんとしても救ってあげたいと思うほど、わたしにとっても憂慮すべき問題です。
なぜなら、わたし自身、体験によってそれを学んだからです。
その時を、自死を選択せず、耐えて成長できるなら、それは尊い理解が得られる事を知っています。
そして今、実際の行為者は自我の「わたし」ではなく、ほんとうは物語に組み込んだ意志が存在しているのだと知ったうえは、なんとか耐えて、そこから尊い真理を学んでほしいと思うのです。
解決に導けるなら、導いてあげたい。
しかし、わたしが当事者に関与できる事など、なにひとつ許されていません。
みこころが組み込んだ真意を、やがて成就に繋がるこの起こっていることを、耐えて体験してくださいとしか言えません。
それを耐えるために、ただ、この事を、言います。
今起こっているそれは、それぞれが自分に関連して意味づけているという事。
虐めているあの人は、ただ、そういう人であるに過ぎないのです。
あなたとはなんの関係もありません。
それに、あなたが「わたしを虐めている」と意味づけるから、その瞬間、あなたは虐められる人になってしまいます。
それに対して、自分に関わる意味づけをしないのであれば、それはただ、あの人がそいう人であるだけです。
この事を、しっかりと理解してください。
あなたはそういう人と、全く無関係でいていいのです。
普通に朝、挨拶を交わす人と挨拶しあい、笑顔で語らう人と語らい、やるべき事があるならそれをし、一日の終わりに今日の善い日をありがとうと感謝し眠ればいいだけです。
誰があなたを無視しようが、それはあなたを特定して無視しているのではありません。
彼は、そのような理由を作り出し、誰にでもそのようにするでしょう。
それは、彼自身だけの問題です。
あなたの問題ではありません。
それに「わたし」を意味づけてはいけません。
彼のような、そのような人は、世界にはたくさんいます。
それは、ただ、タイプAであるだけです。
それに「わたし」を意味づけるなら、それは虐めの関係を作ってしまいます。
決してそうしないでください。
あなたの中を、「虐めるあの人」でいっぱいにしないでください。
あなたの中は、あなたの源泉とその愛で満たされるべきです。
あなたは、あなたとして認められるべきです。
そのように、タイプAは、タイプAとして、認めてあげればいいのです。
それだけです。
虐める人は、病んでいるのです。
満たされない心の渇き、飢えがあるのでしょう。
どちらにしても、愛の欠如の故です。
まずあなたが、そのハートの中に、どのような命をも認め、慈しみ、憐れむ慈悲の心を起こすのであれば、問題は解決に向くでしょう。
そうして、それはただ、そうなだけなのだと知るのであれば、誰をも許せるようになるでしょう。
許すというのは、尊い愛です。
そのハートに愛が現れるなら、それはあなたを救いに導きます。
その時、はじめてわたしが言っている意味がわかるかと思います。
ああ、ほんとうは加害者も被害者もいないんだと、わかるかと思います。
みんな、自分の想い、感情、価値観、尺度で意味づけていたのだとわかるかと思います。
しかも、その価値観や尺度でさえ、知らず知らずのうちに周りから刷り込まれた、経験に拠らない暗示であったに過ぎない事も知るでしょう。
そうであるなら、もう、あなたは自由です。
解放されたのです。
思い込みから、自由になったのです。
ありもしない価値観から自由になったのです。
この解放感を味わってください。
あなたのハートから溢れる愛が、その鎖を解き放ったのです。
その喜びが、味わえますように。
自分に自信をもってください。
あなたが見ている全ては、あなたのものです。
あなた無くして、あなたが見ている世界はあり得ないのです。
あなたが意味づけも、解放もできる世界なのです。
どうか、それを知る事ができますように。
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今月も全く更新してないのにも関わらず、たくさんの方に閲覧して頂き、心の奥底から御礼申し上げます。
愛の溢れるコメントも頂いて、こんな嬉しいことはありません。
また、各サイト、各ブログで、この「真我が目覚めるとき」をご紹介して頂き、ありがたい事だと思っております。
八月に入って、アーカイブが1個も記録されないのは寂しいと思い、更新してみました。
まだまだ残暑が続きます。
皆様の健康を、心から祈っております。
もうしばらく、更新は停滞するかも知れません。
ご容赦くださいね。
2012-08-31