わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】偶像崇拝

名称で呼ばれ、あるいは形を有するものは実体ではありません。
それはただ自我意識に現れた幻に過ぎません。

それらはいずれ朽ち果て、別の名称で呼ばれるものに変化して行きます。
恒久に永劫にそのまま有るという質のものではないのです。

そのようなものを用いて人が仏像をこしらえます。
あるいは、神の像や、シンボルを表現する何かをこしらえます。
そうして、これが仏の姿だ、神の御姿だとうやうやしく礼拝します。

また、紙に印刷した文字の羅列を、あたかもちからのある守り本尊のごとく、有難がって手を合わせる人々もおられます。
また、かつてこの世界を生きた、歴史上の誰かを信仰の対象として崇めたりする人々もおられます。
形ある対象にひざまづき、礼拝し信仰するなら、それは対象が物であれ人であれ、偶像崇拝に違いありません。

仏陀やイエスは、自らを信仰の対象として崇めよなどと、決して言う事はなかったはずです。
あくまでも、悟りによって知るに至った、この源泉、森羅万象のルーツ、絶対無二のこの起源を信仰しなさいと言っているはずです。

では、偶像である神像や仏像を拝む事はまちがっているのか?
と言えば、必ずしもそうではありません。

もちろん、物であるそれを、「これが仏だ」「これが神だ」と信仰の対象としてみるなら、偶像崇拝に違いありません。
しかし、それを仰ぐときに形無き源泉にこの感覚を馳せ、全く無欲のまま対自し、形無き神、仏を、心底想うのであれば、それは清らかな信仰なのです。
その時に人は確実に神に触れようとしているのです。
仏の慈悲に触れようとしているのです。

例えば、何年も会っていない同級生を思うとき、我々は卒業アルバムを開いたりします。
そこに貼ってある写真によって、かつての親しいクラスメイトの顔やエピソードを思い起こしたり、今はどうしているのだろうと思いを馳せたりします。

しかし、貼ってある写真は、クラスメイトそのものではありません。
写真を通して、彼等に繋がろうとしているのです。
写真を想っているのではなく、クラスメイトを想っているのです。

仏像や神像は、そのような捉え方、つまり、あくまでも象徴としての物であるに過ぎないという立場で扱わないといけません。
それ自体は神でも仏でもなく、神、仏に触れるための媒体として考えなければ偶像崇拝になってしまうという事です。

しかし、そもそも神仏を、真実知らない者が、有形の像であろうが無形の伝承であろうが目の前にして、いかにしてそれに通じる事ができましょうか。

クラスメイトは、彼等を既に知っているから写真によってもクラスメイトとして思い起こせるのです。
彼等を知らない者がその写真を見ても、これ誰?となってしまうでしょう。

木や石に彫られた像を見て神仏に誘われる者は、既に神仏を知る事ができた者にしか可能ではないのです。
神仏を真実知らない者にとって、仏像神像に向き合って神仏に通じる事など、あろうはずもないのです。

ただ、なにかこう、すがすがしい心持になるとか、身が引き締まる思いとか、安らぐとかは、感覚するかもしれません。
しかし、ただそれだけの事です。
誤解未解の領域を出る事ができません。
それなのに未だ神仏を真実知らない多くの人々が神像、仏像を前にして手を合わせ、あるいは祈り、人によっては身勝手な願い事など言ってみたりしているのです。

それは全く、その対象物そのものを信仰しているのでしょう。
そうしてそれが信心だと思い込んでいて、疑う事がないのです。

そうであるならば、神像仏像は、むしろ障害です。
人は信じてしまったら、そこで止まるのです。
「こうなんだと教えられた!」「これが世間では当たり前だ!」と自分にも人にも言い聞かせ、決してそこから前にも脇にも進もうとしません。

神も仏も、形としては表現不可能なのです。
神像仏像は、ただの物体であり道具として捉え、真実の実体に触れようとする事を忘れそうな時に、自分の信仰を奮い立たせるためにそれと向き合うのであれば、それはとても役に立っているのです。
紙に書かれた神は、神ではなく紙にすぎないのです。

神を外の世界に探しても、探し出せるものではありません。
自らの内に、その聖なる神殿(ハート)があることを、まず探し出さなければいけません。
そうして、そこを掃除し、浄め、きれいになったら、そこに神を安置するのです。
そうすれば、いつでも神と共にいられるでしょう。


今日もあらゆる命たちが幸せでありますように。

 

 2012-09-15

 

 

 

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