わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】パーソナル障害と、自我と、悟り

ご質問を頂きましたので、お答えというより、見解を申し上げます

 

【質問者K】

私は自分の自我というものに全く自信がなく、というか明らかにそれが未成熟なことは知っているので、自分に都合よく「悟りということと自我がどうあるかということは関係がない」くらいに考えていたのですが、これはとんでもない間違いということでよいですか? 
まずは自我が人生の様々な浮き沈みを経験して味わい尽くし、歪みが正され、完成されないかぎり、悟りや覚醒もまた起こらないということでしょうか? 
またこの自我ということと、いわゆる人格ということとはだいたい同じものと考えてもよいのでしょうか?さきほど私が自分の自我は未熟であると言ったのは、自分が境界性人格障害だからです。 
こういった人格障害の人間というのは、やはり自我に未熟だったり歪みがあるのではないかと思う(少なくとも自分の場合には歪みまくりで人間関係がどうにもうまくいきません)のですが、そうした場合そのままでは悟れないということでしょうか?まずは自我の歪みを正すために必要なプロセスとして、人格障害を克服しないことには源泉に目覚めるということもできないのでしょうか? 

実はちょうど今も、あまりにうまくいかない人間関係(あらゆる人間関係が致命的に決裂・破綻してしまう)に嫌気が差し、自分はもう変わらないようだとあきらめてしまい、逃げるように自分の唯一人間関係が存在した場所から全部終わらせてきてしまったのですが、この記事を拝読していて、「いろんな自我のあちこちを、完全に補正し、埋め尽くして完全球体の自我にするために、人と人との関わりの中で、人と社会の関わりの中で、人と現象の関わりの中で、人と起こる事の関わりの中で、味わう体験をしている」ということでしたので、自分は本当はもっとそこで苦しみ続けなければいけなかったのに早まったことをしてしまったのだろうか?また別のところで別の人間関係を築いて同じような過ちを繰り返して苦しみながら少しずつ自分の人格的な問題を矯正してからでなければ、悟るということもできないのだろうか、と気になってしまいました。 

長くなってしまい、まただいぶ以前の記事へのコメントになってしまい大変恐縮なのですが、ご回答いただけましたら幸いに存じます。 

何卒よろしくお願い申しあげます。 

 

さて、

自我がどうあれば悟れる・・・という事ではないのです。
あるいは、自我がどうあれば悟れる・・・という事も言えなくもありません。

「わたし」の置き処を、自我の中に埋没させず、自我が立ち現われ来る起源、根本、そちらに移行し留まる事で「ほんとうの事」が、五感を超えた理解が起こる、という事です。

ところが、自我の構成要素の、いくつかの突出した働きにより、「わたし」はそれに捉われ、それに縛り付けられ、内側の、つまり、自我に展開される現象世界を映し出す根源である「ほんとうのわたし」に気づきもしないのです。

自我のなかに「わたし」を置き、その中で繰り広げられる現象がリアルであり、それ以外には無いとするから、「わたし」と「わたし以外」と、それら現象との関わりとに強く反応し、自我構成要素の突出した作用に翻弄されてしまいます。

これは、いくつかの突出した自我作用、つまり「かたより」、「ひずみ」、の対極をバランスよく成長させる事で相互抑制が働いてパーソナリティの不具合は解消されていくかも知れません。
自我の完成とは、二極に分かれた両方がバランスのとれた状態に落ち着く事のようにも思うのです。

しかしながら、自我の成長段階において当初から均等に自我が発達する事は希であって、たいていは片寄ってしまうのです。

幼児などを見れば、嫌な事は徹底して嫌で、好きな事は徹底して執着し、叶えられない願望には地団太踏んで泣き叫び、物は放り投げ、大声を上げてわめき騒ぎます。
我慢ならないのです。あるいは、我慢することで自分を隔離してしまいます。
そして、自分は愛されてない、阻害されてる、孤立している、認めてくれないと主張し、騒ぎ疲れてくると、言いようの無い虚無感、不安感、焦燥感、寂しさに襲われる子もいるでしょう。

我々はたいてい、大人になってもそうなのです。
自我の不完全さを引きずって生きているのです。
もちろんわたしもそうでした。

そうであるうちは、こだわりも、執着も、思い込みも捨てられず、また思い込みである事に気づく事もありません。
「わたし」と自我の、強い癒着によってそこに留まっています。

個性、人格、とは、自我に置かれた「わたし」が、何をどれだけ掴んでいるか、その志向性によって「わたし」そのものが作りあげている質です。
ひとつひとつ学びきる事により、クオリティが向上します。
大きな心、大きな器になって行きます。

自我がバランスよく完全になるなら、幼児であっても内側に「気づき」が現れるかも知れません。
自我の完成によって、自我はただ在るものだと気づき、それはもはや暴れることはありません。
そのとき自我と真我の境界が消え、真実が明るみに出ます。

ところが自我の完成というのは、真我の目覚め以上にやっかいです。
誰もそのような人に出会った事も無いでしょう。
どこに非の打ちどころのない完全な人が居るでしょうか。
およそ希と言える事の中でも、更に希な事でしょう。

自我の完成によって、真我というものがあるのだと知れるなら・・・どうでしょうか?
自我を手放す事によっても真我を見出せるのではないでしょうか。

我々は、「わたし」というものの実体を見出せず、自我という「仮のわたし」を主体だと思い込んでいたのです。
そうであるなら、不完全な自我を抱えたまま、抱えている自我を手放せばいいのです。

自我も何も、あらゆる現れは、内なる真我によって映し出されている事を見抜くのです。
その見抜く事が、「悟り」そのものです。

それに至るために、「ほんとうのわたし」、真我に強く憧れなければいけません
この身体の、この中央に注意を集中し、熱心に、一心に、迷子になった幼子が親を見つけて走り出すように、それを探るのです。

そういしているうちに、身体の中央に、胸に、ジワッっとした何かを感覚するでしょう。
それは、回を重ねるうちに確信となり、言いようの無い満たされた幸福感を味わう事になります。

その幸福感は、「ほんとうのわたし」である真我、根源、唯一、あるいは神と呼ばれる真の実体から波及される愛そのものです。
それさえ知ってしまえばもはや、もはや、もはや、自我やパーソナリティなど、どうでもよくなってしまいます。

他者とのトラブルもなくなってしまいます。
なぜなら!・・・全てを許せるからです。

全てを受け入れられ、認めてあげられる自分がそこにいるのです。

もう断定によって自分をだめな人間だと思う必要もありません。
断定によって彼は嫌な奴だと思う事も、どうだっていいと思えます。

怒りに自分をまかせてしまう事もありません。
これが本当の自分なんだと、歓喜する事でしょう。

確かに自我を完成させ、そこから悟る人もいるでしょう。
しかし、自我が未熟でも、自我を手放す、明け渡す事で、ショートカットで真我に気づく事もできるのです。

恩寵が与えられるのです。
神からの、すばらしい愛です。

この愛に満たされるなら、どのような障害など、ものともしません。
虚無は愛によって隙間なく満たされてしまいます。
寂しさは愛によって喜びに変わるのです。

ほんとうは、最初から愛の中に在った事を知るのです。
だれも、置き去りにされた人などいなかったのです。
あなたという人は、ほんとうにそうなのだから、自信を持っていいのです。
これは事実であり、真実です。

すぐにそうならないでも、いずれそうなります。
ただ、今はその途上にあるだけです。

そうであるから、言うのです。
「なにも間違っていません」

あなたが選択した事は、後になって、実は運ばれていたのだと思い知るのです。

神に愛されている事は、すべてに愛されている事です。
それだから、全てを愛しなさい。
それが、心の治癒力の正体です。

2012-09-21
 
*今回この記事を再掲するにあたり、前回は省略したコメント欄での読者とのやりとりのすべてを下記の過去記事に付け加えておいた。時間のあるときに、ぜひそちらも読んでいただきたい。(ブログ管理人より)