わたしの終わり

覚醒と悟りの言葉

【時系列 花岡修平】あの日の夜

断じて言います。
わたしは今日まで、悟りを得たい、開きたいなどと、一度も思った事はありません。
これは嘘偽りなく、そのとおりであって、覚醒などという言葉さえ知りませんでした。

ただ、仏教界においては「悟り」というものがあり、それはゴータマ仏陀によってもたらされた思想なのだと言う事は、何かの媒体を介して耳に届いておりました。

それでも悟りなどというものは、自分には関係のない、神話のようなフィクションであり、この現実世界ではあり得ない事だと思っていました。

わたしの人生は、幼い時から苦悩に満ちていました。
毎日が精神的な攻撃の中にあり、他者と比べては自分の惨めな立場を嘆いていました。

周りと比べて、自分はどうだからこのような格差が生じているのだろう。
どう考えても人格、人間性に於いて、他者より劣っているとは思えない。
自分が他者より、より悪であるという根拠も見つけられない。

攻撃する事も無く、蔑視する事もなく、弱い命たちに悲哀を想い、確かな思い遣りさえ持っているのに、なぜこうも苦しい立場に置かれているのだろうと、神さえ呪う事もありました。
人も社会も恐れるようになりました。

ところが苦痛も続けばやがて慣れてくるものです。
そのような人生を歩いていると、苦痛に麻痺してきて、忘れている事さえあります。

ちょうど忘れた頃に、もっと破壊力のある爆弾が落ちてきます。
そのような繰り返しの中で、「何故なんだ?どうしてこうなるんだ?」と、自問する毎日でした

内に目を向ける訓練が、自然になされていたのです。
禅も定も瞑想も知らないのに、周囲から離れ、独り内側に向うという事をやっていたのです。
他人からば自閉のように見えたかも知れません。

そのように、周囲がしてくれていたのです。
神の導きであり、みこころがそうしてくれていたのだと今は理解しています。

それがなかったら、このような「今」に辿り着く事などできなかったでしょう。

そうして年月を経て。

あの人生最大の困窮に陥ります。

その時までに、いろんな苦悩を経て、全ては求めても得られない事ばかりだと言うことを知っていました。
また得られたものに、それほどの価値など無いのだとも知っていました。

言ったら、諦める覚悟、手放す覚悟は既に出来ていたのです。
数えきれない程の苦悩が、そのようにしてくれたのです。

人生最大の困窮に陥り。

数日後の夜、わたしは打ちひしがれ、ふらふらと庭に出てたたずみ、深く深く内側の奥底を覗いていました。

万策尽きたわたしは、「もう捨ててしまおう。何とかしようという思いを離れ、そのように流している何かがあるのなら、流れに任せよう」
そのように思い、諦める事を選択したのです。

あたりは真っ暗で、静まり返り、夜とわたしだけがそこにありました。

その時、周囲の雰囲気に異変を感じました。
周りの波動が明らかに変わり、そして背後から近づく幾つかの存在を感じたのです。

地面から浮かび、スーッと近づく、何か精霊のようなものを背中が捉えていました。
十体か、二十体、いや、それ以上の存在が近づき、一瞬わたしに「恐怖」という言葉が浮かびましたが、すぐに「あらゆるものを捨てた今、恐怖を掴んでいるはずが無い」と、冷静でいられました。

そして近づいて、彼らは言ったのです。
「大丈夫だ。何も心配はいらない。我々はそのように運ぶ。あなたを見捨てたりはしない」

それは言葉として頭脳が翻訳はしたものの、言葉とは全く違う、感覚の伝搬によって自分の内側が理解したのです。
ただ言語化する習慣が、言葉に翻訳したのです。

「ああ、大丈夫だ。任せ切って大丈夫なんだ」と、その時、完全に確信を得たのです。

次の日から自分の中の価値観はまるっきり変わり、世界の見え方、受け取り方、初めて見る世界のように、不思議な感覚がしました。

眼で見ることをせずに、胸の内側で見ているような、「わたし」の置き所が頭では無く、このハートの中に置かれた感覚です。
そうして、はっきりと、このハートの存在感を感じていました。

今わたしは、あらゆる現実から自由になった。
何にも捉われる事無く、思い悩む事無く、思考想念によって頭に引き戻される事も無くなった。

自由だ。解放された。縛り付けるあらゆるものから解き放された、と、感じたのです。

それからはもう、このハートからコンコンと溢れる泉のように喜び、至福が流れだし、それによって心は満たされ、ただつぶやいていました。
「神よ。神よ。神よ・・・」

それは、ただただ感謝の想いであり、言葉にしようと思えばそれしか出てきません。

同時にその至福は、この愛、理由など無い愛、条件など無い愛、ただ愛である愛、それによるのだとわかってしまいました。

なんと、あらゆるものが愛だ。
自分も、誰も、現す根本も、見えてる世界も、愛によって現れ、見せられているとわかったのです。

愛は神なり、全ては神なり、そして、わたしは・・・それだ。

そうして、しばらくそこに寛いでいました。

変容は、求めようが求めまいが起こる。
拒否しようが、起こる。
全く、恩寵によってそれは起こる。
準備ができさえすれば、だれにでも起こってしまう。

あらゆる前世も、今生も、後の世も、実はそれに向かって「わたし」を運んでいる。
それであれば、神を信頼できない理由など何一つない。
任せ切って、全く大丈夫だ。
「わたし」と思わせる自我を離れ、ただひたすら、神の中に居続けよう。

そう思ったのです。

そして今、相変わらず貧乏してますが、とても満たされ、幸せです。
かつて欲しかったものが、まったく欲しくはありません。
自我が望む何をも、まったく欲しいとは思いません。

手放しきっているだろうか。
神を、みこころを、受け入れきっているだろうか。
状態を時折確認し、満足しています。

悟ろうと思っていたのでは、悟れません。
それは自我の思いでしかありません。

恩寵は、だれにでも起こるのです。
これは疑いようの無い事実です。

準備を

始めましょう。

 

 

2012-09-29

 

 

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