2020-01-12 【時系列 花岡修平】【補遺】人を許すことはどうしてこんなに難しいのか? 時系列 花岡修平 これは下記の記事のコメント欄にあった問答。おそらく、あまり読む人はいないだろうと考え、独立した記事にしてみた。 shikoutoshi.hatenablog.jp 【読者K】 花岡さん、こんばんわ。連日の質問恐縮なのですが、お時間をつくっていただけたときにご回答いただけたら幸いです。 人を許すのはどうしてこんなに難しいのだろうという話なのですが。私は安アパートでずっと暮らしています。なので当然壁も薄く生活騒音などはかなり漏れてしまっています。私は一人暮らしですし自分ではおとなしく暮らしているつもりなのですが、隣はギターをアンプに繋いで練習したりその他諸々のかなりの騒音が聴こえてくることがありますが、まあそういうもんだしお互い様だからしかたがないと思って今日も我慢していたのですが、そのあと自分が音楽を聴いていたら(そんな音量でもない、と思うのですが)「うるせーぞ」と言わんばかりに壁をドンドンされてブチ切れそうになりました。そして今度お前らがうるさくしたらこっちも壁をドンドンし返してやる‥と復讐を心に誓ったのでした‥。 すいません、完全にただの愚痴になってしまったのですが、お聞きしたいのはどうしてそれでも人を許さなくてはいけないのかとか、どうしたらそんな奴らを許すことができるのだろう、ということです。 花岡さんのブログの記事を拝読させていただいているときは、私もあたたかくて愛に満ちた文章の力でいい気持ちになり、「そうだ!愛だ!」みたいな感じになるのですが、その自分がいざ現実に帰ると隣人に壁ドンされたといって逆恨みをしては復讐の念に取り憑かれ、とても隣人愛の実践どころではありません。 こんな私はダメなのでしょうか?というか、こんなことでは悟りだの神を知るだのできないでしょうか。こうしたどうしようもなく感じてしまっている怒りや憎しみをどのように処理すればよいのでしょうか。 花岡さんの「他者とのトラブルもなくなってしまいます。なぜなら!・・・全てを許せるからです」の言葉に激しく憧れを覚えます。早く私もそうなりたいと心から願っているつもりです。でも現実として今まだそのように思えない私がいます。それでも許さなくてはならないのでしょうか。といっても許せないものは許せないのでどうしても心の上辺だけのものになって怒りや憎しみを抑圧して我慢するのがせいぜいなのですが、そんな本当には許せていない我慢や抑圧にも意味はあるのでしょうか。 すいません、なんだかほんとにただの愚痴なんですが、ご回答していただけることに何か意味があると感じていただけたら幸いです。低レベルな質問だとは思いますが、低レベルな次元で生きている私にとっては切実な疑問のつもりです。ご回答いただけましたら嬉しいです。なにとぞよろしくお願い申しあげます。 【花岡】おはようございます 家事、雑事にかまけて、レスポンスが遅くなりました。 > どうしてそれでも人を許さなくてはいけないのか > こんな私はダメなのでしょうか?というか、こんなことでは悟りだの神を知るだのできないでしょうか。こうしたどうしようもなく感じてしまっている怒りや憎しみをどのように処理すればよいのでしょうか。 「許さなくてはいけない」・・・という事はありません。 また、「許さなくてもいい」というのでもありません。 それは、「許そう」とすればいいだけで、選択するかどうかです。 そのスイッチは、ある時はONになり、ある時はOFFに戻ります。 あなたの中の神性がONに入れ、あなたの中の自己保存がOFFに戻します。 自己保存とは、相手の立場をわかってやる事も無く、認めてあげる事も無く、自分の事だけを主張し認めさせようとする事です。 真我はそれを見ていて、それでもなお筋書き通りの物語を映し出します。 OFFになっている事に気づいたあなたは、「こんなんでいいんだろうか」と自分に問いかけます。 人の自我というのは、そのような繰り返しで完成に向かって進んで行きます。 自分に問いかけるのは、真我に問いかけているのです。 そのような事を数えきれない程繰り返し、やがて「放棄する」という答えに辿り着きます。 「翻弄させる自我」を放棄するという答えです。 真我が自ら教えてくれるのです。 あなたを一番知りつくし、ただひとつの答えを知っているのは、その真我です。 それだから、「内なる真我を拠り所としなさい」と言うのです。 それこそが、あなたの真実の師、サット・グルです。 ですから、こんな私はダメなのでしょうか?などと、自分を否定してはいけません。 それさえも、既にデザインされた必要な筋書なのですから。 筋書に間違いはなく、あなたはそれに忠実です。 だれでも、そこから学ぶのです。 壁の向こうでイラッとしている彼は、あなたです。 その時、あなたは自分の中に、それを置いているのです。 そのような素因が、自分の中にあるから反応し、反応が更に引き寄せて行きます。 あなたが心の安息を求める時、同時に心をかき乱す対象もついてきます。 「わたしは心静かにしていたい」と思うのは、「わたしの心は騒いでいる」と宣言しているのです。 天使がいるから、悪魔は躍起になるのです。 それは、ふたつでひとつ、だからです。 相対の世界だから、それはしょうがないのです。 そのどちらかを選んで意味づけているのです。 求める事無く、ただ在り、「わたしは在る・・・それだけだ」と認識しましょう。 そうすれば、与えられるものが与えられるだけです。 間違いなく、神は、あらゆるものを既に与え、これからも与え続けます。 あなたを愛するが故に、与え続けるのです。 全てはただ、現れきます。 許せないやつだと意味づけずに、それが人という者である事を認めてあげましょう。 彼も、誰も、迷い迷いて途上に在るのです。 許せないのは、相手のせいではありません。 あなたの捉え方、意味づけ方、あなたの中の尺度、価値観であり、自分の中にもそのような素因がありながら、わかってやれない、認めてやれない「わたし」ではないでしょうか。 同じ苦悩を抱えいてるのです。 自分を励ますように、相手にもそうしてあげましょう。 相手を観て、相手に学びましょう。 そのような真我の呼びかけに、耳を傾けましょう。 慎み深い人でいて、優しい人でいましょう。 思いやりの深い人でいましょう。 そういしている自分を嬉しく思えるようになれば、スイッチはONのままになるでしょう。 【読者K】 花岡さん、お忙しい中ご回答くださいまして誠にありがとうございました。 許せない自分ごと真我に明け渡すことができたら楽になれるんだろうなあ‥と思いました。 しょーもない話ですが、一応愚痴ってしまったのでその後の報告をさせていただきますと、その後早速にも隣人にやかましく騒がれて復讐のチャンス!思い知らせてやる!‥と思ったその瞬間、どういうわけかちょうど読んでいた文章がなぜか「たとえどんなことをされても、たとえまたどんなことを云われようとも、仕返しを求めてはならぬ」だったので泣きながらあきらめました。その後もやっぱりうるさくされると「クソ!今度こそ‥」と思うのですが、やっぱりそのタイミングで読んでいる文章が「決して復讐などということを考えてはいけない」とかだったのでなんかもう最後は気が抜けて笑うしかありませんでした‥。 でももしあそこで怒りに任せて壁ドンドンしてたらそのときはすっきりしてもきっとのちのち関係の悪化とかいろいろ含めてもっと嫌な思いをすることになってたかもなって思いました。あと別に許せたわけじゃないと思うんですけど、怒りに任せて復讐したりせずに(たまたま読んでた文章に言われたままに我慢しただけなんですけど)いられたときなんか少し気持ちのいい感覚がありました。ただの自己満足の可能性が大ですが。でもひとまずは結果オーライという感じでした。 やさしい人、思いやり深い人、そういう人になりたいです。お忙しい中ご丁寧なご回答くださりまして誠にありがとうございました。 *参考 shikoutoshi.hatenablog.jp shikoutoshi.hatenablog.jp shikoutoshi.hatenablog.jp
花岡さん、こんばんわ。連日の質問恐縮なのですが、お時間をつくっていただけたときにご回答いただけたら幸いです。
人を許すのはどうしてこんなに難しいのだろうという話なのですが。私は安アパートでずっと暮らしています。なので当然壁も薄く生活騒音などはかなり漏れてしまっています。私は一人暮らしですし自分ではおとなしく暮らしているつもりなのですが、隣はギターをアンプに繋いで練習したりその他諸々のかなりの騒音が聴こえてくることがありますが、まあそういうもんだしお互い様だからしかたがないと思って今日も我慢していたのですが、そのあと自分が音楽を聴いていたら(そんな音量でもない、と思うのですが)「うるせーぞ」と言わんばかりに壁をドンドンされてブチ切れそうになりました。そして今度お前らがうるさくしたらこっちも壁をドンドンし返してやる‥と復讐を心に誓ったのでした‥。
すいません、完全にただの愚痴になってしまったのですが、お聞きしたいのはどうしてそれでも人を許さなくてはいけないのかとか、どうしたらそんな奴らを許すことができるのだろう、ということです。
花岡さんのブログの記事を拝読させていただいているときは、私もあたたかくて愛に満ちた文章の力でいい気持ちになり、「そうだ!愛だ!」みたいな感じになるのですが、その自分がいざ現実に帰ると隣人に壁ドンされたといって逆恨みをしては復讐の念に取り憑かれ、とても隣人愛の実践どころではありません。
こんな私はダメなのでしょうか?というか、こんなことでは悟りだの神を知るだのできないでしょうか。こうしたどうしようもなく感じてしまっている怒りや憎しみをどのように処理すればよいのでしょうか。
花岡さんの「他者とのトラブルもなくなってしまいます。なぜなら!・・・全てを許せるからです」の言葉に激しく憧れを覚えます。早く私もそうなりたいと心から願っているつもりです。でも現実として今まだそのように思えない私がいます。それでも許さなくてはならないのでしょうか。といっても許せないものは許せないのでどうしても心の上辺だけのものになって怒りや憎しみを抑圧して我慢するのがせいぜいなのですが、そんな本当には許せていない我慢や抑圧にも意味はあるのでしょうか。
すいません、なんだかほんとにただの愚痴なんですが、ご回答していただけることに何か意味があると感じていただけたら幸いです。低レベルな質問だとは思いますが、低レベルな次元で生きている私にとっては切実な疑問のつもりです。ご回答いただけましたら嬉しいです。なにとぞよろしくお願い申しあげます。
【花岡】おはようございます
家事、雑事にかまけて、レスポンスが遅くなりました。
> どうしてそれでも人を許さなくてはいけないのか
> こんな私はダメなのでしょうか?というか、こんなことでは悟りだの神を知るだのできないでしょうか。こうしたどうしようもなく感じてしまっている怒りや憎しみをどのように処理すればよいのでしょうか。
「許さなくてはいけない」・・・という事はありません。
また、「許さなくてもいい」というのでもありません。
それは、「許そう」とすればいいだけで、選択するかどうかです。
そのスイッチは、ある時はONになり、ある時はOFFに戻ります。
あなたの中の神性がONに入れ、あなたの中の自己保存がOFFに戻します。
自己保存とは、相手の立場をわかってやる事も無く、認めてあげる事も無く、自分の事だけを主張し認めさせようとする事です。
真我はそれを見ていて、それでもなお筋書き通りの物語を映し出します。
OFFになっている事に気づいたあなたは、「こんなんでいいんだろうか」と自分に問いかけます。
人の自我というのは、そのような繰り返しで完成に向かって進んで行きます。
自分に問いかけるのは、真我に問いかけているのです。
そのような事を数えきれない程繰り返し、やがて「放棄する」という答えに辿り着きます。
「翻弄させる自我」を放棄するという答えです。
真我が自ら教えてくれるのです。
あなたを一番知りつくし、ただひとつの答えを知っているのは、その真我です。
それだから、「内なる真我を拠り所としなさい」と言うのです。
それこそが、あなたの真実の師、サット・グルです。
ですから、こんな私はダメなのでしょうか?などと、自分を否定してはいけません。
それさえも、既にデザインされた必要な筋書なのですから。
筋書に間違いはなく、あなたはそれに忠実です。
だれでも、そこから学ぶのです。
壁の向こうでイラッとしている彼は、あなたです。
その時、あなたは自分の中に、それを置いているのです。
そのような素因が、自分の中にあるから反応し、反応が更に引き寄せて行きます。
あなたが心の安息を求める時、同時に心をかき乱す対象もついてきます。
「わたしは心静かにしていたい」と思うのは、「わたしの心は騒いでいる」と宣言しているのです。
天使がいるから、悪魔は躍起になるのです。
それは、ふたつでひとつ、だからです。
相対の世界だから、それはしょうがないのです。
そのどちらかを選んで意味づけているのです。
求める事無く、ただ在り、「わたしは在る・・・それだけだ」と認識しましょう。
そうすれば、与えられるものが与えられるだけです。
間違いなく、神は、あらゆるものを既に与え、これからも与え続けます。
あなたを愛するが故に、与え続けるのです。
全てはただ、現れきます。
許せないやつだと意味づけずに、それが人という者である事を認めてあげましょう。
彼も、誰も、迷い迷いて途上に在るのです。
許せないのは、相手のせいではありません。
あなたの捉え方、意味づけ方、あなたの中の尺度、価値観であり、自分の中にもそのような素因がありながら、わかってやれない、認めてやれない「わたし」ではないでしょうか。
同じ苦悩を抱えいてるのです。
自分を励ますように、相手にもそうしてあげましょう。
相手を観て、相手に学びましょう。
そのような真我の呼びかけに、耳を傾けましょう。
慎み深い人でいて、優しい人でいましょう。
思いやりの深い人でいましょう。
そういしている自分を嬉しく思えるようになれば、スイッチはONのままになるでしょう。
【読者K】
花岡さん、お忙しい中ご回答くださいまして誠にありがとうございました。
許せない自分ごと真我に明け渡すことができたら楽になれるんだろうなあ‥と思いました。
しょーもない話ですが、一応愚痴ってしまったのでその後の報告をさせていただきますと、その後早速にも隣人にやかましく騒がれて復讐のチャンス!思い知らせてやる!‥と思ったその瞬間、どういうわけかちょうど読んでいた文章がなぜか「たとえどんなことをされても、たとえまたどんなことを云われようとも、仕返しを求めてはならぬ」だったので泣きながらあきらめました。その後もやっぱりうるさくされると「クソ!今度こそ‥」と思うのですが、やっぱりそのタイミングで読んでいる文章が「決して復讐などということを考えてはいけない」とかだったのでなんかもう最後は気が抜けて笑うしかありませんでした‥。
でももしあそこで怒りに任せて壁ドンドンしてたらそのときはすっきりしてもきっとのちのち関係の悪化とかいろいろ含めてもっと嫌な思いをすることになってたかもなって思いました。あと別に許せたわけじゃないと思うんですけど、怒りに任せて復讐したりせずに(たまたま読んでた文章に言われたままに我慢しただけなんですけど)いられたときなんか少し気持ちのいい感覚がありました。ただの自己満足の可能性が大ですが。でもひとまずは結果オーライという感じでした。
やさしい人、思いやり深い人、そういう人になりたいです。お忙しい中ご丁寧なご回答くださりまして誠にありがとうございました。
*参考
shikoutoshi.hatenablog.jp
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