【時系列 花岡修平】【補遺】明け渡しの方法についての質問
【読者K】明け渡しの方法(というのもおかしな話だと思うのですが)について質問させてください。花岡さんはひたすら念仏を唱えたり神の名前を唱え続ける方法に関してはどう思われますか?私は昔は自力で修行して悟ることに憧れていましたが、最近はやはり私には無理だろうかと諦めかけていたこともあり、他力やバクティ・ヨーガに関心を持つようになりました。ただ阿彌陀佛やラーマといった特定の呼び方に愛着があるわけではなく、むしろ単純に「神様」と呼びかけたほうがピンと来るのですが、なんにせよそうした神への呼びかけとか祈りのようなことには意味があるのでしょうか?またもし花岡さんがそうしたことをされているのであればどのように祈られているのかなど教えて頂きたく存じます。
ただあまりこれまで花岡さんはそうしたアプローチについてお話されたことはなく、「それに至るために、「ほんとうのわたし」、真我に強く憧れなければいけません。この身体の、この中央に注意を集中し、熱心に、一心に、迷子になった幼子が親を見つけて走り出すように、それを探るのです。そういしているうちに、身体の中央に、胸に、ジワッっとした何かを感覚するでしょう。それは、回を重ねるうちに確信となり、言いようの無い満たされた幸福感を味わう事になります」とおっしゃられているので、特に神に祈ったり呼びかけたりする必要はなく、ひたすらこの胸の感覚を探し求め、そしてそれを見つけたらひたすらその幸福感に浸りつづけていればよいのでしょうか?私としたら、もしそれでその幸福感に浸りつづけているうちに、自分の厄介な自我を手放せ、明け渡せ、神(源泉)を知ることができるのならこんなに楽…かどうかはわからないけどこんなにありがたい話はないなあと思うのですが。
正直私の中には花岡さんが「祈りも瞑想も不要(無意味ではないとおっしゃられていたのは過去記事などで拝読させていただきました)、ひたすら胸の感覚を探し求めて、その幸福感に浸ることだけだ」と仰っていただければ、もう他のよけいなことを考えるのはやめてバカの一つ覚えのようにそれだけに専念しようという怠け心があるのですが、実際のところどうなのでしょうか?
ただあまりこれまで花岡さんはそうしたアプローチについてお話されたことはなく、「それに至るために、「ほんとうのわたし」、真我に強く憧れなければいけません。この身体の、この中央に注意を集中し、熱心に、一心に、迷子になった幼子が親を見つけて走り出すように、それを探るのです。そういしているうちに、身体の中央に、胸に、ジワッっとした何かを感覚するでしょう。それは、回を重ねるうちに確信となり、言いようの無い満たされた幸福感を味わう事になります」とおっしゃられているので、特に神に祈ったり呼びかけたりする必要はなく、ひたすらこの胸の感覚を探し求め、そしてそれを見つけたらひたすらその幸福感に浸りつづけていればよいのでしょうか?私としたら、もしそれでその幸福感に浸りつづけているうちに、自分の厄介な自我を手放せ、明け渡せ、神(源泉)を知ることができるのならこんなに楽…かどうかはわからないけどこんなにありがたい話はないなあと思うのですが。
正直私の中には花岡さんが「祈りも瞑想も不要(無意味ではないとおっしゃられていたのは過去記事などで拝読させていただきました)、ひたすら胸の感覚を探し求めて、その幸福感に浸ることだけだ」と仰っていただければ、もう他のよけいなことを考えるのはやめてバカの一つ覚えのようにそれだけに専念しようという怠け心があるのですが、実際のところどうなのでしょうか?
【花岡】Kさん、再び質問を頂きましたので、お答えします
> 花岡さんはひたすら念仏を唱えたり神の名前を唱え続ける方法に関してはどう思われますか?
> ひたすら胸の感覚を探し求めて、その幸福感に浸ることだけだ」と仰っていただければ、もう他のよけいなことを考えるのはやめてバカの一つ覚えのようにそれだけに専念しようという怠け心があるのですが、実際のところどうなのでしょうか?
念仏を唱える、神の名を呼び続ける、これらについて意味の無い事だとは申しません。
聖言オーン(ム)を発する、マントラを唱える、ムドラー、像を拝する、これらも同じ事です。
そうする事によって、内なる「これ」に確実に触れられるなら、つまり、唱える事でそれがキャリア(搬送力)になるのであれば、それは有効なのです。
キャリアとしてそれをするには、念仏を唱えながらも集中力そのものは内なる「これ」を捉えていなければなりません。
念仏が重要なのではなく、「これ」を捉えているかどうかが重要です。
念仏そのものは、その集中力を保持する立場、ブレを防ぎブロックする役目です。
親鸞は、弥陀の本願に委ね切れるなら念仏さえ不要なのだと申されました。
わたしも全く同意です。
唱えるという自我の助けを得ながら真我に触れるというのは、とてもわたしには難しい事です。
わたしはただ、いつでも出来る限り、「これ」を想い、慕い、忘れず、そこに留まり続けるだけです。
忘れてもすぐに「これ」に戻るように努めるだけです。
これがわたしの修行です。
こうしている事がわたしには喜びなのです。
神よ・・・と呼びかける事もありますが、それは感謝を捧げる時だけです。
喜びを味わう時、どうしても感謝を捧げずにはいられなくなります。
その時だけ、神よ・・・と呼びかけます。
それは、わたしにとっては、その御足にひれ伏す事と同じなのです。
もう一つのわたしにとっての修行は、時折確認する事です。
明け渡し切っているだろうか?
神を信頼しきっているだろうか?
すべてを受け入れる覚悟は崩れていないだろうか?
そのように確認し、神を裏切っていない事を確認するのです。
しかしながら、人の気づきは様々な手法(アプローチ)によって現れます。
その人に、最もシックリくるやり方があるでしょう。
だから、これはいけないとか、これがいいのだとかは、明言できません。
人は、その人に最もふさわしいやり方が、衝動として現れ、突き動かされるはずです。
自分が選択していると思うでしょうが、それは選択させられているのです。
ほんとうは、その行為をカルマと言うのです。
カルマとは、デザインされた筋書に従わされている行為そのものです。
善いも悪いもなく、悩むものでもなく、ダルマ(正義)でもアダルマ(不正義)でもありません。
祈りが必要だと思うなら、純粋な心でそれをやる、その事に果報を疑う理由はありません。
ただ、完全に離欲する事は必要です。
離欲した心こそ、純粋な心です。
*花岡さんの答えの赤字部分はわたし(ブログ管理人)がマークした。
この部分で花岡さんは、今まで記事「あなたへのメッセージ」などで語ってきた花岡流の「明け渡し方」にこだわることを放棄している。結局、人それぞれ、各人各様のやり方があるということ。
(ブログ管理人より)